正月近況

1.6
過般サイトに安井息軒の書簡を掲げました.
此の書簡は武藝と無縁に非ず.書中に酒井要人の名有り.要人は文久二年鎗術熟練を以て 公儀に召し抱えられた武藝者です.

要人は書中に外國奉行へ人材を紹介する者として登場します.全文はサイトに掲げました.


『息軒安井衡書簡:大島立輔宛』筆者蔵

(成)丈は朝四時前後迄には酒井迄御出可成候.竹本は下谷三味線堀住居の由御座候得は.直に酒井御同道致筈に候.此人晝後は多用御座候故.四時前後迄に御出無御座候ては.先方不都合御座候.此段御心得被成度候.竹本持高弐千石.當時役料相加三千石の由.手當は役人兼帯候得は.弐人扶持に金七両に可有之酒井申候.酒井宅は神田御門前御厩脇剣槍指南と御尋成候得は.早速相分申候.此段御案内申上度.早々頓首.


江戸切絵図中に酒井邸の名無し.家蔵の本に名有り.則ち図に註す.
馬場の位置から推して.厩は酒井邸の側に在ったのでしょう.

1.3 謹賀新年
此頃漢文三昧.作文に取り組んでいます.
読む丈けでなく自ら作る.第三者の立場から当事者の立場へ移ることによって.得られる何かは変るようです.
しかし.得れば得るほど分らないこともまた増えていくように感じられ.一年や二年を費やしたくらいでは到底解決できそうもないと雀躍しております.

それはそれとして新年始めの漢文は野間柳谷の書です.


『題各賦近體數章:柳谷野間成大筆』筆者蔵

長以主人其姓中嶋茶屋其所居之舊號也以縫染色世仕 幕下其亡父亦隠市陰而飄々者也與不佞為忘年之交年所以故復與主人交友久矣一日招余泊男允迪於武之寓館整宇竹洞狛庸後先而至坐而后飣餖秋暑退午簾清海雲飛暮潮平雲石横怪松聳見蓑荷而思古賦顧南燭而感唐詩日已欲曛各賦近體數章於是叙其事實而題諸軸末 柳谷書


長以主人.其の姓中嶋.茶屋は其の居る所の舊號也.縫染色を以て世 幕下に仕ふ.其の亡父も亦た市陰に隠れて.而して飄々たる者也.不佞と忘年の交年を為す.故に主人と交友を復すること久しき所以なり.
一日余を招き男允迪の武[武蔵国]の寓館に泊る.整宇[林信篤]竹洞[人見節]狛庸[狛高庸]後先して坐に至り.而して后に飣餖す.
秋暑午簾を退き.清海雲飛暮れんとす.潮平らか雲石横たふ.怪松聳へ.蓑荷を見て古賦に思ひ.南燭を顧みて唐詩に感す.日已に曛れんと欲し.各近體數章を賦す.是に於て其の事實を叙して.而して諸れを軸末に題す.柳谷書す.


以前に取り上げた『耕雲雅會詩序』と同じく.本體たる詩に附された文です.これは軸末に題すとあり.跋に相当したものでしょう.然るに少なくとも江戸時代には本體から切り離され.単體として軸装されたように見受けられます.

文の大意は.中嶋茶屋の子允迪の居館に於て宴あり.中嶋茶屋と舊交のあった筆者柳谷は招かれて行く.そこには大儒林信篤をはじめ人見節・狛高庸といった学者も出席していて.各々館より見える景色に感じて詩を賦す.以て柳谷この詩の為にこの場面を文に書いたという訣です.

整宇=林信篤を定かとは申せませんが.仮りにそうだとすれば.この書は寛文末から延宝年の間に書かれたと考えられます.

十二月近況

12.30
先日東武に遊ひ,夕に蕎麦を食ふ,味頗る美なり,郷に帰りて思ふ,栗山翁の書に蕎麦の言あるを,

  
『盤肴捧書:栗山柴野邦彦筆』筆者蔵

西城講後過 阿邸廣岡兄喫蕎麦麪有新厨人總七者親奉一盤肴而進以其調烹不傷天味自負欲清興也書此以道謝
径筵初散下城闉梁苑賓僚盃酒親麥線果粉非世味盤肴捧書盡天真几間盆樹蒸紅葉樓下石池躍錦鱗我是侯家舊門士疎狂莫厭往来頻 九月十七日 柴邦彦具稿


 西城の講後 阿邸を過る,廣岡兄蕎麦麪を喫ふ,
 新に厨人總七なる者有り,親しく一盤肴を奉て而して進む,
 其調烹を以て天味を傷はす,自負して清興ならんと欲する也,
 此に書して以て謝を道ふ,
径筵の初散城闉を下り,梁苑の賓僚と盃酒に親しむ,
麥線果粉世の味に非す,盤肴に書を捧け天真を盡す,
几間の盆樹紅葉に蒸せ,樓下の石池錦鱗躍る,
我是れ侯家舊門士,疎狂厭ふ莫れ往来の頻なるを,
 九月十七日,柴邦彦稿を具ふ,


寛政九年十月三日,栗翁 西城の奥儒者に遷る,為に門生を除き交はりを制せられ(故に親舊門生として来見す),西城と林邸と阿波藩邸とのみを往来す,書に「西城の講後(径筵とも云ふ)」と云ふは侍講なり,

「初散」は時刻のことか,酒尊の意あるも適さす,「麥線果粉」は蕎麦の果粉を表すか,

阿邸を過るとなれは,数寄屋橋御門か鍛冶橋御門を出て,町へ往きたるものか,

12.27
『操觚字訣』を読み,三月を数へ,而して東涯翁の書を獲る,
今人昔の碩儒を顧みさること甚く,又書を需むる者尠し,因て得ること易し,可嘆可喜,


『耕雲雅會詩序:東涯伊藤長胤筆』筆者蔵

耕雲雅會詩序
予所識豊満河端二生産乎江之八幡好學耽文樂道乎畊畝之間有年且慕家君之道旦夕叩咨茲春介三浦養菴氏借那波古峰氏東山別業曰耕雲庵者請洛下諸名士以文鳴者宴集予父子亦興焉時山紅渭碧集東皐之勝致面峰背寺挹丹巒之佳景真物外之趣也不終日諸君詩成字々風霜句々琳琅真希覯之舎也、斯人也而逢斯舎斯會集斯地不亦奇乎既徴予言厳誰不免貂續之嘲而為二生幸之敢記其顛末還之云時元禄乙亥之歳三月二十有五日也伊藤長胤謹書


耕雲雅會詩の序
予識る所の豊満河端二生,江の八幡に産る,
學を好み文に耽り,道を畊畝の間に樂しむこと年有り,且つ家君の道を慕ひて旦夕叩咨す,
茲春三浦養菴氏を介して,那波古峰氏の東山別業耕雲庵と曰ふ者を借り,洛下諸名士文を以て鳴る者に請ひて宴集す,予父子も亦た焉に興す,
時に山は紅渭は碧,東皐の勝致を集む,峰に面し寺を背にし,丹巒の佳景を挹む,真に物外の趣也,日を終へす,
諸君詩成る,字々風霜,句々琳琅,真に希覯の舎也,
斯の人にして而も斯の舎斯の會に逢ひ,正に斯の地に集ふ,亦た奇とせざらんや,
既に予の言を徴し厳にす,誰か貂續の嘲りを免れさらん,而して二生之れを幸ひと為す,敢へて其の顛末を記して之れを還す,云ふ時は元禄乙亥之歳三月二十有五日也,伊藤長胤謹みて書す,


 

右 先子蚤年之真筆旁書改竄者乃 古学先生手筆云寛政辛亥之春善韶審定拜書


此の書,伊藤東所(東涯三男)の添書有り,「蚤」は「早」に通す,時東涯廿九歳,

右 先子蚤年の真筆なり,旁書の改竄は乃ち 古学先生(仁齋)の手筆と云ふ,寛政辛亥の春,善韶審らかに定め拜して書す,

三代芳墨會一額,不知所嗜詩妙境,

12.18
嘗て楊心流の傳書二を読みて読めざる語あり,今改めて見て,一は読むべく,一は読むべからず,


『楊心流柔説』筆者蔵

除其繁冗擧其要粋合并諸品之手法約之以為十二流改稱楊心流取諸柔和之義也

 先つ区切ると斯うです,
 除其繁冗,擧其要粋,合并諸品之手法,約之以為十二流,改稱楊心流,取諸柔和之義也,

 以前不審に思ったのは「約之以為」,「之れを約(つゞ)むに以て十二流を為す」と読み,「おもへらく」ではなく,手段・方法を表したものか,
 



『大江先生基業碑銘』筆者蔵

語乞兒曰我有一術暫死而乍活汝能當我試哉僉同辭曰微壺餐之賜吾其土乎願獻身以報徳因試之居于肥筑通計七年

 語乞兒曰,我有一術暫死而乍活,汝能當我試哉,僉同辭曰微壺餐之賜吾其土乎,願獻身以報徳,因試之居于肥筑通計七年,

 此中曽不読は「微壺餐之賜吾其土乎」,
 今において見れば,「壺餐」は器物より食物へ通ず,「壺餐之賜」とは省いた前文の流れを汲みて,大江義時乞兒に与うところの錢食を指す,則ち「僉(みな,乞兒等)同しく辭して曰く「壺餐の賜なかりせは,吾其れ土とならん(もし壺餐の賜(錢食)が無かったならば,吾は土となっていただろう),願は身を獻け以て徳に報ゐん」と」と読めます,然れども「吾其土乎」は未だ確と言えず,

12.4
過日得る所の遺稿を読み,漢文勉強の資と為す,
這の遺稿中,明治十三年に記された男女同権論の稿を見,他人事ながら其の批の険なるを恐る,


『遺稿詩集』筆者蔵

二篇皆倉卒の作,随筆の如く,新聞論説の若く,思ひを経すして筆を下す,篇法章法體を成さす,語も亦軽率味無し,宜しく深く意を注くへし,

けんもほろろとはこの事を云うのでしょうか,決して弟子を嫌っているのではなく,丁寧に指導してこの言です,

12.4 無異消光
相変らず古文書と漢文とに往来して,時に習字に道草を食っております,
習字は道草といえども,古文書の解読に効能あり,以前よりも筆跡に氣をつけるようになりました,
そして思うに,現代人は草書を見る機会少なくして書くこともなく,そのものを見る眼は些かも培われていないのではないかと,
楷書に巧拙,美醜,風韻,個性あるが如く,草書も同じ様に差異ある筈です,
然るにその差を見分けることは容易でありません,

たとえば,江戸時代のように,日常的に書簡をやりとりして,文書も書く人であれば,あの人はこのような字を書く,この字は上手,下手といった識別は自然と身についたでしょう,

たゞ現代人と一括りに言っても,中には書道,習字をする人がいます,そういった人ならば能く識別し得るか?,の如き習字素人には計り知れません,想うに書道,習字に於ける手本とするところのものは名蹟にて,書く所のものは作品でありますから,その巧拙を能く識別するといえども,その人と為りを識別することは難しいのではないかと,

書は人なり,と巷間に云うごとく,たしかに筆跡からその人と為りを想起することは可能なのかもしれません,然れども現代に於いてそれを識別するための経験を得ることは實に難しいように思われてなりません,

そこで,今日もまた幾人かの学者の筆跡を取り上げます,


『幽谷藤田一正書簡』筆者蔵

皇朝にては菅家江家と
 並称候儒宗後と唱へ
 申候是は初太殿など
 勉勵のためにも宜候間
 一と通御物語可被成候委
 細の事は御出府の節
 可申談候以上
  八月十九日夜認


宛先の人物は大江姓なり,
幽谷常陸の故事を講究の節,足利将軍時代より常陸に大江姓在るを知り,その苗裔なることを傳ふ,而して息初太郎の向学に資せんと欲す,初太郎は幽谷の門弟子なり,


『訥庵大橋正順書簡』筆者蔵

一安積氏へ碑銘御頼越候得共
城之助義當春中退塾い
たし當時手續も無之候間乍心
外謝儀壱両弐朱其侭御返脚
申候たしかに御落手可被下先は
夏中の裁答申訣旁取
紛匆々可此御座候頓首


安積艮斎へ碑銘を依頼する手段無く,其謝礼金を返送す,
「裁答」は作書答覆の意,
註:執筆年四十五歳,万延元年,


『春江河原田寛書簡』筆者蔵

一助とも存候返上致候頓首
 閏四月望前
尚々平日何の文筆を御讀被成候哉
方正學文粋四冊此は論も延文も
宜候又當時世間流行の八大家讀本
十五冊此等は文筆を學候には宜敷書に御座候間
御熟讀候はゝ可宜存候儘申達申上候


主君禁廷に召され,その御供を命ぜられ京師にあるとき,門弟子に文筆のことを誨ゆ,
註:春江は伊勢久居藩儒,執筆年八十六歳,慶應四年,

以前,米菴,海屋の書簡を掲げました,今日は更に三人の学者の書簡を掲げました,
凡そ書簡は同じ位の寸法ですから,文字の大小にさほどの差はありません,

現代に於て,良質の名蹟を目にすることは容易く,その恵まれた環境について何らの感慨も湧かないかもしれません,けれども江戸時代の人々はそうではなく,容易なことでは名蹟を目にすることは出来ませんでした,
故に苦労して,世に名蹟とされる所のものを求め,行きて謄写し,或いは買い求め,自己の研究の資としていました,
現代の書に比べて,江戸時代の書に上手の少ないのは,おそらく良質の手本を得難かった為でしょう,
また按ずるに,江戸時代の習字は師手ずから手本を門弟子に書き与えていた為,余計に上手から遠ざかったのではないかと,

名蹟を見る,または得る苦労のほどは,市河米菴も書中に述べていて,宋,元人の真跡は絶えて手に入らず,明人の真蹟位に趣を得て和習を脱するようにと地方の門弟子に諭しています,


扨而,倩案ずるに,作品としての草書,筆記体としての草書,此二者の区別を論ずるべきでした,人となりを見るには日常書簡に過ぐるものなし,されども現代人はその筆跡を能く識別し得ないという話しをしたい,と思いつくまゝに記しました,

劉熙載『書概』に曰く,「他書は法,意より多く,草書は意,法より多し」と,また曰く,「書家に篆聖,隷聖無く,而して草聖有り,蓋し草の道は千變萬化ならん」と,依て草書の変化の妙を知る,

十一月近況

11.7
どのような字を書きたいのか,
字を習うならば,師に就き,指導に従い,基礎より入るべきところ,は師無く,好むところに従っております,
本日は明治時代の画家の葉書を臨書しました,たまには拙筆を 高覽に,日頃の励みにもなります故に,


『拙筆』

習字を初めて,小筆の方を二三度しか使っておらず,どうも加減すること難しく,然れども辛うじて文字の躰を成しているのは,過般購う所の小筆の御蔭です,
(一文字目の「拜」字は虫食いのため少し欠け,あと一二文字間違えました,そして実物はもっと線太く雄健です)

小筆は1/3下して使う,と聞きその通りにしておりますけれども,習字を終えて洗うとき,少し水に付けては墨を落すという一連の工程によって,1/3以上に筆が捌けてきます,これは一体どうすれば良いのか,


素人ははじめからむずかしい書に習ってはいけない,下手な書から習うべきだ,といったことが以前読んだ江戸時代の本に書かれておりました(これは庶民向けの書道入門書だったと思います),
これはの如き菲才の者には合點の行くことです,たしかに拙劣な書ほど臨書しやすく,徐々に技法を得られ,興味を減じにくいのです,一方当初から支那の名蹟を手本にするとどうなるか,百文字千文字臨書しようとも,一文字どころか一点一画とて満足に書けるものではなく,筆を折りたくなるほどの挫折感に苛まれます,
人の性分や目指すところによって,習字の考え方は変わるでしょう,はどうも下手な書から習う方が性分に合っているようです,

 譬へば,高きに登るに卑きよりし,遠きに至るに近きよりするが如く,

十月近況

10.24
昨日今日,米菴書簡を讀む,
 近世の書簡を多讀し,些か讀解に慣れると雖も,此の米菴書簡を讀むこと能はす,甚た遺憾なり,


『米菴市河三亥書簡』筆者蔵

つもりに可仕候廻勤に候はゝ
八時比にも可仕候哉呉々此處
御聞食津幡まて可被仰下候
委曲は此海老江の徳右衛門より
申聞候さてゝゝ道中炎威
大いによわり候萬々明後日
拜顔と此のみ相楽罷在候
亂筆草々頓首


米菴北陸行,津幡の宿より書信を致す,而して着到後の周旋を請ひしものなり,

米菴書簡の讀み難き點は字体の省略にあり,同時代の書簡に比ふるに,省略の度合強く,更に連綿を為せは讀み難きを倍す,

例せは,海屋書簡の如きは米菴書簡より讀むこと易し,


『海屋貫名苞書簡』筆者蔵

御老人御臨書一帖御上し
被下候致拜見得意とふそ
ほしきものと相見申候尚
若返却御座候はゝ早々
御上し被下度御頼候事
扨近々新舶来市御座候由
内々目録を御見せ被下度候以上


書肆臨書を呈上し,海屋一見して是を欲す,

米菴海屋は唐様を以て世に知らる,而るに和様を以て書簡を書く,和様の中に唐様の風あり,

10.20
京師に滞留の節,一書簡を得,
此書簡,何処の人の記したるものか知れさるも,文言によって武藝に精しきことを知り之れを購ふ,
帰宅して閲し,而して是れ姬路藩士の筆なるを知る,
姬路藩の史料,常に迂拙求むる所のものなり,

扨,近者,支那筆の手頃なものを探しています,
董其昌の『菩薩蔵経後序』を臨書するに,今使っている筆鋒長く感じられ,やゝ短鋒のものこそ相應しいのかと按じて,

未だに筆の執り方さえも分らず,師もおらず,凝滞する斗り,
然れども,青史に名をとゞめた人々の書を観る毎に,憧憬の念を増し,自らに鼓吹しております,

10.19
語近くして意遠し,言淺くして理深し,是れ詩の妙境,初め其深と遠とを要せさるなり,

この一文は,過日『詩稿:水竹田中文筆』の處に記した田中文という人の『諸文鈔』より,
奥に山陽一夕話とあり,頼山陽の語るを文に起したものかと見られます,

水竹,伏して痛正を某に請ひ,この評あり,

作詩の法亦此に盡く,

10.18
頃者東奔西歸,わづかな餘暇に漢文と漢詩とを勉強しております,

どちらも慣れること専一かと思われ,當面白文の論稿『樸木稿(皆川遯堂著)』と『唐詩概説(小川環樹著)』とを読み,その間隙に漢文・漢詩の作文・作詩に着手,
二兔追う者は...と俗にいえども,菲才をかえりみず五兔も六兔も追っております,
思うに,好奇心の赴くまゝ,この追う時こそ,実は一等歓と為すべきか,


『心慮之巻』筆者蔵

先日東旅の節,神田の舗々を過り,此一傳書を見,之れを購ふ,

小菅精哲居士の筆,是れ珎蔵する所の長谷川英信の傳書より年を経ること四十年,
料紙に金泥を以て絵を書く,この絵英信の傳書に倣ふものかと思はるゝも,絵紙と与に價少しく下なるものか,



『音捨之巻』筆者蔵

一見して驚く,箋に明朝躰を書くを,
”音捨”に如何なる意あるや知れさるも雅味を覚ゆ,
是れ林崎流の一傳書,延寳年中の筆,

箋と言ひて想起せるは,師範の裁量も可なりと,
元一巻の傳書を二巻に分ち,上下巻と為すことあり,
或は箋の名を恣に代へることもまた免さる,竟に原題を佚せしもの少なからすや,

10.14
明治四年の筆ならん,水谷克庸 雌黄を田中文の詩稿に加ふ,水谷克庸 郡山藩の中等教授なり,


『詩稿:水竹田中文筆』筆者蔵

これは曾て田丸藩の弓術家所蔵,

書庫を改めて探すと,学問に勤しんだ武士は多くの論稿・詩稿を書き残しておりました,
論稿は「~論」と題したものを多く見ます,内容そのものよりも,文の体裁に重きを置く感あり,
少しづゝ読んでいこうと思います,

10.13
昨夜,漢詩の四作目を作りました,

   秋夜偶題
天涯弧雁與雲連延佇蕭然萬感牽星光夜闌詩欲就山川幽韻浄無煙

詩語表に語を拾う丈けで,随分と時間の掛ることです,

詩語表といえば,の書庫に江戸時代の古文書あり,
その中に,詩語を書きとゞめた文書のあったことを思い出しました,
また,漢詩に意を向ける今にして思うと,数多くの自作漢詩を収めた文書もあったように思われます,

仙臺の士石川氏の筆により,日々の主なる出来事を記した文書あり,これに多くの漢詩あり,
 の不確かな記憶によれば,石川氏は 殿様から漢詩を作るよう命じられ,度々自作を披露していたそうです,その為多くの漢詩を書きとゞめていたのでしょう,
どこの家中においても,このようなことはあったかもしれません,

却説,先日,知り合いの中国人に,漢詩作りの本を見せて日頃の疑問を尋ねました,
中国においても,今はあまり漢詩を作る人はいないそうです,本場なのに残念です,

古い漢詩は古音,現代の発音とは違うけれども,今の中国の人は漢詩を作るときどうするのか?,
問うたところ,やはりと言うべきか,それ用の本(辞典のようなものか)を使うそうです,となれば,日本人の漢詩作りとそこまで差は無いのかもしれません,
広東語の方は近いと言っておりました,

10.12
 筆者蔵する所の『百非林先生行状稿』より,

(前略)
華也與太古親太古囑華状先生之行華也不文奚能状先生然太古知華之知先生故其請不得辭焉華也嘗曰文人之画貴古欲其古在不光欲其不光在能脱時史蹊徑方今能至於此者其唯先生乎是華之所深知先生也萬延二年辛酉春王正月天野華謹状于芳宜府之楳花渓水邨荘


林百非の次男太古なる人物,天野華(天野御民の養父か)に『百非林先生行状』の撰を依頼しました,
こゝに,その依頼された経緯(華也與太古親...)を抜き出した所以は,以前目を通したとき,「状」の字をどうすべか決められなかったからです,
少し調べると,「状」に「陳」の義あり,例:「自状其過,以不当亡者衆」「殆不可状」,
然すれば,


華や太古と親し,太古 華に先生の行を状するを囑す,華や不文なり,奚そ能く先生を状せんや,然るに太古 華の先生を知ることを知る,故に其請 辭するを得す,華や嘗て曰く,文人の画は古を貴しとす,其古を欲するは,不光に在り,其不光を欲するは,能く時史蹊徑を脱するに在り,方今能く此に至るものは,其れ唯先生のみか,是華の深く先生を知る所なり,萬延二年,辛酉春王正月,天野華謹みて芳宜府の楳花渓水邨荘に状す,


林百非は,吉田松陰に兵学を教授したことから,世にその名を知られています,
この兵学は,吉田他三郎より承傳せし山本流を吉田松陰に反傳した,と『百非林先生行状稿』は伝えています,

 迂生,武藝に「反傳」と言うを未だ聞かず,いかなるものかといえば,
「(吉田)他三郎父子既に死するに及ひ,先生(百非)其授くる所のものを以て,盡く之れを其孫(松陰)に傳ふ,之れを反傳と謂ふ,公之れを賞し,金若干を賜ふ」の言によって明けし,

10.11


『烟鷗舎鬪詩:皆川昌序』筆者蔵

余嘗寄宿於昌平黌講讀経傳歴史之餘暇與寮友相會作詩品評之其會也一名為編者撰出唐宋諸代古人之詩一二只示各名以其題興韻而各作一二詩附於編者編者並謄書之雜以彼古人之詩而皆不記名編成而出之於會席各品評之以三等曰古人曰優曰劣評点畢數其点以多為勝其後余退寮移轉諸方與諸友不相見久近者探簏底有此巻則彼闘詩也屈指既二十八年矣今雖諸友存亡多不可知而現時最著者有大官巨儒榎本武揚君中村敬宇君向山黄村君是也其詩在巻中而書之者中村君也只是往時之詩而皆有黄吻臭雖然一吟之則不啻知其詩之優劣評其人物於今知其大成小成則又應為子弟之勧奨焉故書之於巻首以存云時明治十五年三月也


余嘗て昌平黌に寄宿す,経傳歴史を講讀するの餘暇,寮友と與に相會して,詩品を作し之れを評す,其會や一名編者と為して,唐宋諸代古人の詩一二を撰出す,只各名を示すのみ,其題を以て韻を興し,而して各一二詩を作して,編者に附す,編者並に之れを謄書して,以て彼の古人の詩を雜へ,而して皆名を記さす,編成し,而して之れを會席に出す,各之れを品評するに三等を以てす,古人と曰ひ,優と曰ひ,劣と曰ふ,評点畢りて其点を數ふ,多きを以て勝と為す,
其後余退寮して,諸方を移轉す,諸友と相見へさること久しかりき,近者簏底を探するに此巻有り,則ち彼の闘詩なり,指を屈すること既に二十八年,今諸友存亡多しと雖も知るへからす,而して現時最も著しき者は大官・巨儒に有りては榎本武揚君・中村敬宇君・向山黄村君,是れなり,其詩巻中に在り,而して之れを書す者は中村君なり,只是れ往時の詩のみ,而して皆黄吻の臭有り,然りと雖も之れを一吟すれは,則ち啻其詩の優劣を知るのみならす,其人物を今に評して,其大成小成を知る,則ち又應に子弟の勧奨と為すへし,故に之れを巻首に書し,以て存せしむと云ふ,時に明治十五年三月なり,


昌平黌の生徒等数名,烟鷗舎なる詩會を催し,その感性と教養とを競い,人物等との交流に興じていた様子です,
これを序した皆川遯堂なる者は,當時官費を以て昌平黌に留学しておりました,
新発田藩の逸材にて,学問のみならず幼年より剣術にも励み,練兵館主斎藤彌九郎の烏帽子子となりました,
御一新後内務省に出仕し,抜群なる測量技能を以て土木局に勤めました,

今日,皆川遯堂の名を知る人は殆ど無く,たゞ『幕末事變録』の著者としてその名を遺すのみ,
実は,この『幕末事變録』,御存じの方もいるかもしれません,未刊です,
 この原本二十数巻を書庫に収蔵しており,遯堂翁の名と共に,いずれ世に出せればと考えております,

10.9
古文書を点検している時,漢文の書付を見付けました,
課題の答案下書かと見えます,姬路藩士の筆(先日掲げた日記の筆者です),
三俣氏は若年の頃より学問と武藝とに励み,好古堂の句讀手傳も勤めておりました,

(訂正前)
謹對曰有宋腐學説吾輩所未聞故雖不識昔人之意謹惟應自異端詐之語矣然不得已而對于腐學之趣焉夫腐學者非別有道所學固経然於所學必有功於身與否ニ矣其功者雖學異端老荘之書亦所志當道必随分限而為實學因是無害焉其否者雖學於経因是有害焉如此者即可謂雖存形質不可下匕箸焉夫人性本善而雖無腐人唯由此二者而變乎二道故雖世學不功於身者可謂庶幾于腐人矣


この答案下書に対して,何者か雌黄を加えています,
この者,身近にいた学のある人か,師事していた学者か,いずれにしても漢文に詳しい人でしょう,
例せば,冒頭「有宋腐學説」の”宋”を”有”の前に置くよう訂正しています,
これは”宋”を副詞的修飾語として読ませたいならば斯うせねばなりません,
訂正者は文意を汲み取り,適宜抹消加筆,丁寧且つ手慣れているように感じられます,


(某人訂正後)
謹對宋有腐學説而無腐人此説吾輩所未聞故不識昔人之意何所指姑以鄙見論之夫腐學者非別有道所學固経也然雖學経其用功必有功於身有不功於身其功者雖讀學異端老荘之書亦不為所誤必随人倫日用而為實學因是雖處事無害焉其不功者雖學於経亦詐耳學已有詐事何無害如此者可謂雖存形質不可下匕箸夫人性本善而雖無腐人唯騁空論虚談而不功於身者可謂庶幾于腐人矣


謹みて對ふ,宋に腐學の説有り,而して腐人無し,此の説吾輩未た聞かさる所なり,故に識らす,昔人の意何所を指すか,姑く鄙見を以て之れを論すれば,夫れ腐學のものは別に道有るに非す,學ふ所は固より経なり,然るに経を學ふと雖も,其れ用功すれは,必す身に功有り,身に功ならさる有り,
其の功なるものは異端老荘の書を讀學すと雖も,亦誤つ所を為さす,必す人倫日用に随ひて實學を為す,是に因て事に處すと雖も害無し,
其の功ならさるものは経に學ふと雖も,亦詐のみ學ふのみ,詐事有り,何そ害無からん,
此くの如きものは形質を存すと雖も,匕箸を下すへからすと謂ふべし,夫れ人の性は善に本つく,而して腐人無しと雖も,唯た空論虚談を騁せるのみ,而して身に功ならさるものは,腐人に庶幾しと謂ふへし,


功=為實學=無害,不功=腐學=有害≠腐人,不功+空論虚談=腐人,という論でしょうか,


   苦熱
炎威満道正煌煌松下齁齁午睡長黄昏煎茶涼一味楚楚山影送斜陽

仕事の合間に漢詩作りの入門書を拡げ,はじめて漢詩を作り三つ出来ました,これはその三作目です,
素人ゆえ詩語表を拾い,辻褄を合せた丈け,はたしてこれを漢詩と言えるのか,
尤も,虫の鳴く聲 水の如く押し寄せ窓を撲つ,という文句からはじまるとんでもない一作目より随分マシです,

10.3
武術史料拾遺に於いて「無邊無極流」と「國友一貫斎」とを書き進めています,
その中核を為す史料は三俣家の日記です,
日記は三代に亘り公私を不問記録されています,

是れは三俣家六代目当主義陳の日記です,
義陳は手跡の稽古に功あったと見え,端整な字を書きます,

九月近況

9.29
漢文の学習を初めて,一年を過しました,
今に至るも『漢文入門』の本を手放せず,仕事の隙を見付けては読み返しています,
御蔭を以て,若干白文の読解に慣れました,
一方,此間古文書の学習を疎かにせざるを得ず,日々読む斗り,何ら読解の上達も為さず慚愧の至りです,

扨て古文書を更新せざること久しく,漸く國友一貫斎に取掛りました,
姬藩公より御召筒張立御用を拜命し,以て暫く月日を経て再び来姬し 御召筒を献上する,此の一連の行動を記録から拾い読みます,

管見の限り,是迄に一貫斎と姬路との関わりに言及した記載は資料に見られず,此度の記事によって未知の何かを傳えられゝば幸甚です,