八月近況

8.16
今日は鎌田魚妙の手紙について書きました。いつもながら取り留めも無く不味い文章で申しわけなく思います。取り敢えず、周辺情報を少しく揃えてありますので、必要なところを汲み取って下されば幸甚です。

堀川物か?と鑑定を依頼された魚妙、結果は「堀川物」でなく「末左」と云う。先方(小浜藩)はこれがどうも不服であったらしく、改めて公儀の御研師 竹屋喜四郎に鑑定を依頼したところ、研ぎが悪しく少し分りかねますが一躰宜しく見え、伝えられた通り「國廣」にも見えますが本阿弥に相談しますとのこと。この刀には昔の本阿弥の鞘書があり、「高田」と極められていたようです。竹屋喜四郎と本阿弥が相談した結果、昔は研ぎ悪しくようやく「高田」くらいに見え、今は研げば「國廣」と云っても良いとのこと。

魚妙、竹屋、本阿弥、一連の手紙はどうやら一口の刀に附されていたようです。

8.13
眞極流柔術の傳書を一つ載せました。この傳書は通常の形式とは違うかもしれません、或いはこれが通常でしょうか。通常の形式と違うかも?と思う理由は、傳授を承けた石川光實が二十年以上前に別人(実父)から免許を承けているからです。二十数年後に傳落を補うため改めて山崎景憲に師事したのですが、一から修行した者へ与える傳書と書き出しが違うのではないかと思います。

8.12
「伝書の用意(四)」が出来ました。
今回取り上げた史料には、伝授の裏事情も記されており興味深い内容でした。
御大仁様への緩い伝授、史料で斯ういった事実を確認したのは初めてゞす。

 〇
伝書八巻の書写料が金壱分=四朱(二朱金なら二枚、一朱金なら四枚)です。
一朱はおよそ四百文に相当するでしょうか。

天保4年江戸詰武士の帳面より
 50文 物さし
 100文 耳かき
 200文 うなぎ
 280文 そろばん
 288文 氷餅
 1朱 轡
 1朱 下緒二組
 1朱120文 味噌六升
 1分1朱 帷子
 1分2朱 下緒二筋

尤も書写料は謝礼程度の扱いだったと思います。

 〇
伝書の年月日、これは融通が効くようです。以前から気に掛っていました。今回の史料には「先年帰京後
御宅へ御礼に罷出候年号にて御傳授仕候」と云うように、伝授する日=傳書の日付ではなく、随意に決められています。つまり、伝書の年月日通りに傳授が行われたとは限らないのです。しかし、ほとんどの場合そういう実際の処は記録されていませんから判断の仕様がありません。

8.10
中臣流手裏釼の伝書の翻刻が完了しました。片仮名の判別は意外と難しいです。


『中臣流聞書』部分 個人蔵

○弓に二本弦をかけ皮にて玉のふくみをこしらへ引しほるときに
 前の方ふくらみ引くなり左なけれは己■かいなを玉にて打ぬくゆへ
 なり井んさいくうの如くにつるを引へし

8.9
昨日、嬉しいメッセージを頂きました。御親切に有り難う御座います。
御蔭様で暑さを忘れ、史料解読に専念出来そうです。

 〇
今日は中臣流手裏釼の傳書を二つ読みました。
曰人が開創の流義にて、滅多に傳授しなかった為か文面は整備されていません。しかし、それがかえって真率を感じさせます。
入門して稽古に通い、数年にわたって傳授を承ける通常の諸流義とは違い、手裏釼と云う特性ゆえか短期間に傳授を行うようです。短期間で教えきれないところは傳書に詳述する、そのため傳書の内容が充実し混雑するのではないかと想像します。又、傳書によれば稽古自体は弟子に委ねられていました。

「幼稚より心懸けて自分の覚悟に工夫したる心妙釼なれば、必ずしも他に教へる事を禁ず、一人一傳たるべし」

「右九曜打たるゝ手もとならば指南たるべし、毎夜千打おこたるべからず、七星打たれぬうちは指南無理なり」

「人前にてなぐさみには一本も打つべからず、名を発するが油断なり、あの人手裏釼打などゝ云はれては人用心をなすなり、人に何とも知られぬが秘事云々、也人に知られざるを以て上手とす、人に業を見せぬが傳授なり、下手にても勝なり考へるべし」

「釼の数二十本を以て五度打てば百本なり、一夜千打すべし、夜中的しづまりてよし、音なき様に布を後に張りて的をかくべし、柱中星よし」

記録には残らないことですが、手裏釼打と知られぬようにしている曰人と弟子の石川光實は如何にして知り合ったのでしょうか。石川光實の方がその存在を知り得ないとすれば、曰人が後継者たるべき人物を探していたのかもしれません。


『中臣流手裏劒卯家之巻』部分 個人蔵

傳授を承けた石川光實は、藩へ提出する履歴書に手裏釼のことを書いておらず、師の教えを守り秘していました。

8.6
請求していた資料が届きました。目を凝らし探したものゝ、流祖の足跡は掴めず空振りでした。もう少し範囲を広げてみます。
分限帳など地道に調べていますが、あと二十年三十年と経てばネットで簡単に検索できるようになるのでしょうか。今でも、熱心な機関は積極的に史料を公開して呉れています、実に有り難いことです。
分限帳といえば、諱を照合できない点不便で仕方ありません。俗称・名乗りは、諱にくらべて頻りと改名しますし世襲もあり、はたして目当ての人物その者か決め手に欠けるからです。

 〇
丁度良い史料が見付かったので、「伝書の用意(四)」を書いています。半年ぶりの続きです、近々掲載する積りです。

8.3
国友一貫斎の手紙を読みました。手紙というより、副簡というべきしょうか。天地のことを語っています。一貫斎にしか語れない、天体観測の知識・経験を基にした天地論です。手紙を受け取った炮術師役は、一貫斎の話しを読んで何を思ったのか興味が湧きます。

8.2
七月下旬はこれといった更新も出来ず終いでした。
水面下では、史料を探す・読む・調べるを繰り返し、好調に過しております。
いくつかの発見がありました。目下、資料を請求し周辺情報を集めています。

江戸時代前期の流祖の足跡を掴むのは容易いことではありません。史料に恵まれるか恵まれないか、偶然の要素が多分にあるでしょう。今回の件では、ある流義の流祖の足跡を追っています。その足跡を直接掴めたわけでなく、関係を示唆する史料が見付かりました。このきっかけが無ければ、調べようとは思わなかったのです。自分の予測が当るか外れるか、資料が届いてみないと分りませんが、届くのを楽しみにしています。

 〇
大切にしていた史料が虫に喰われました、残念でなりません。
梅雨時に孵化し、成虫となって包紙を破っていたところを見付けました。
この史料は三年前に購入したものですから、今更どうして虫が出てきたのか不思議です。三年の間に度々この史料を読んでいますし、保管に関しては史料自体を別紙で包み、さらに保管用の箱に収納していました。後から卵を産み付けられたとは考えられず、三年間卵のまゝ眠っていて今になり孵化したと考えるのが妥当しょうか。一年、二年は安全であった史料も、三年目には虫に喰われることもある、これは良い教訓となりました。

 〇
史料についた虫の卵は専門業者の燻蒸でも死なゝいことがある、とその筋の人から聞きました。元々水分の無い紙を喰う虫ですから、その卵も何年間かは眠ったまゝ過すことが出来、ある日突如孵化することもあるのかもしれません。
毎年のように成虫となった虫を見かけます、虫が活発化する時期は決まっているようで梅雨時に集中いています。斯ういった虫の習性を考慮すると、史料の点検は梅雨時に行った方が効果的であるかもしれません。

 〇
虫といえば、紙魚は傳書の題箋を好んで食べます。題箋が食べやすいのか、それとも題箋に附された糊の成分を好んでいるのか定かでありませんが、大事な部分を狙って食べているようで困ります。先日傳書を買いました、八巻まとめて桐箱に収められたものです。この題箋が全て紙魚に喰われていました。一体どこから桐箱に侵入したのか、これまた不思議です。

鎌田魚妙の手紙、末の左類に 被存候

今回は『新刀弁疑』『本朝鍛冶考』を著した鎌田魚妙翁の手紙です。


『鎌田魚妙書簡』個人蔵

山口信八郎様 鎌田三郎太夫

追日暖和に御座候御安泰
奉欣喜候先頃の御挨拶
被入御念候御義忝承知仕候
又若州より御頼の由にて揚ヶ物
愚案可申上旨委細承知
仕候如仰堀川物に相見候得共
少々古き様にて末の左類に
被存候何れ御佩刀に被成候て
宜敷奉存候刄能く物切れ
可申候御返答認懸候所
人来多早々以上

三月廿七日

尚々 御道具返上仕候以上


「若州」「山口信八郎」、この二つの言によって若狭小浜藩の士 山口信八郎宛ての手紙と分ります。また、この事を裏付けるように、一連の手紙の中に同藩士 針ヶ谷権左衛門宛ての手紙も有りました。年紀は定め難く、明和から寛政までとしか云えません。山口信八郎については少しく履歴が判明しています。

山口信八郎の師にして父の小野忠市郎は、酒井忠貫公若年のころに御傅役を勤めました。信八郎は忠市郎の後継者として門弟となり明和7年(1770)忠市郎歿後に家業(学者として講書指南・読書指南)を相続し、弐拾五人扶持・御馬廻・牛込御文庫御預を命じられます。同年御廣間勤御免、安永2年(1773)講書且讀書を繁多に務めるにつき御文庫御預御免。(記録はこゝ迄)

山口信八郎、手紙の頃は酒井忠貫公に仕えていたと考えられます。書中「若州より御頼の由」とは、酒井忠貫公の依頼のことか、敬称を欠くため同藩士の依頼を指したものか。「揚ヶ物」とは、おそらく「摺り上げ物」(無銘)のことを指すのでしょう。

手紙は訳すと斯ういう文面です。


日を追って暖和になりますね。御安泰のこと欣喜に思います。先頃の御挨拶、御念の入ったことで忝く承知しました。
また、若州より御頼みとのことで、揚ヶ物(摺上げ物)について愚案を求められていること委細承知しました。仰せのごとく堀川物に見へますけれども、少々古き様にて末の左類に思われます。いずれ御佩刀に成されて宜しいと思います。刄能く物切れるでしょう。御返答を認め懸けのところ、人来多く早々。以上
三月廿七日
尚々、御道具は返上します。以上


「刄能く物切れ可申候」、これを剱相と云います。
魚妙翁の『新刀弁疑』に「剱相は、剱徳の奥秘ばかり知るべきにもあらざれども、大意の所は金氣の躰全く磨(とぎ)を俟(ま)たずして鉄の乾潤を知り、試しを俟たずして物よく切るゝを知る」と述べられています。所謂、武家目利というものでしょうか。

 〇
「相剱之道」と云い、魚妙翁は寛政四年から歿するまで四十九名の弟子を取りました。現存する起請文によって確認出来、萩藩のほか旗本や数藩の士が名を列ねています。但しこの起請文一通丈けとは限らず、他にも弟子がいたと思います。

この当時の一般の剱相といえば占いのごときもので、目利もいっしょのように扱われていたそうです。魚妙翁が嫌うところでありました。その様相もまた『新刀弁疑』の記述に拠れば、「剱相は猶目利の如し。共に刄の徳を尋ねるなり。世にいう所は剱の長短によりて吉凶を示し、或いは刄の模様を以て吉凶を示し、或いは逆足乱は悪し、のたれ刄にして鎺本の刄締りて細く又帽子美しく締りてなどやかなるものを吉剱とす。或いは一通りうち見て刄の成・不成にも疵の有無にも拘らずして福禄壽や病難等をいろいろ言葉を巧み、吉凶善悪を云うこと人々異なり。か様の輩(ともがら)、小利を貪り人心を迷わすの甚だしきなり。心あらん人、歯に懸くべきにもあらざるべし」と。


『吉凶剱之巻』個人蔵

吉凶剱相の史料は相当数が現存していると思います、私の手元にも二,三冊あります。これを見れば魚妙翁の言うことも合点がいきます。刀のこの部分に斯ういう所があれば弓箭にかゝるとか、水難火難絶えずとか、現代においては荒唐無稽なことですが、当時はそこそこ通用していたらしく魚妙翁がわざわざ批判する訳です。

 〇
魚妙翁より時代が下って天保12年、子か孫か鎌田三郎太夫の名が分限帳にあり、百五拾石・諸奉行格・京都御留守居を勤めています。

参考資料
『小浜市史 藩政史料編二』小浜市史編纂委員会

伝書の用意(四)、出石藩

師範が門弟に傳書を傳授するとき、その傳書はいかにして用意されるのか?
武術の史料として重宝されているにもかゝわらず、その実体はほとんど知られていないように思います。
半年ほど前に「伝書の用意(一)~(三)」と題して、三つの事例を紹介しました。
まだまだこれからです。史料が見付からず滞っていますが、一つ一つ実例を積み上げていきます。

 〇
今回は、日置流伴道雪派の秘書八巻(天保二年三月十五日付)の用意に関わる話です。
秘書八巻には史料四通(増田太市郎の手紙三、松原熊蔵の手紙一)が附属しており、これによって伝書製作の状況が分ります。
師は増田太市郎(但馬出石藩の弓術師範)、弟子は生駒勘左衛門(何藩か不明)。
もう一人、増田太市郎の弟子にして既に師範である松原熊蔵(近江膳所藩の弓術師範)が登場します。


『日置流伴道雪派秘書八巻』個人蔵


『日置流許状』部分 個人蔵



『増田太市郎書簡』天保3.4年頃か 個人蔵

一筆啓上仕候頃日は残暑厳敷候所
愈御勇健被成御勤珍重の御儀
奉賀寿候随て小子以御蔭無異相
先達は久々にて御伺申上候所不相替
御壮健の御様子御見請お熊殿にも
御安栄にて御世話被成候段重畳
芳出度御儀御同慶仕候其上
不相替御懇意被仰下殊に多勢
の者種々御馳走頂戴仕難有仕合
奉万謝候御社中様には御繁盛
於私大慶至極奉存候帰路の砌
不存寄御肴料御目録迄御恵投
被成下御懇配の段難筆紙尽
難有仕合奉存候其後早速に以
書■成共御厚礼御挨拶可仕
筈の処御暇仕候翌日より郡山
罷越暫逗留御家中三流共に
尋問世話仕遣候て帰京江刕表
立越是又何角藝用にて余程
逗留に相成り先頃京都迄引取
彼是打捨置候用事共差閊誠に
御疎意の至背本意候真平御
仁恕可被成下候
一 御地罷出候節年来の御執心の
義流儀傳授の義先達差上
可申候処無何氣打過候義御
堪忍可被成下候先頃御噂にて傳受
の義勿論射法の義は如何様の
秘密に候共御大仁様へ御傳受可仕候
義に御座候既に昨年入部に付候ては
主人より格別の懇意の上拝領物
仕候義一家中諸師範も御座候へ共
私壱人右の仕合偏に大仁様へ
御厚恩の近年相顕候義御恩の
儀は山高海深の上に御座候其外
諸国に罷越候ても射道一儀にては尊
敬に預り全御恩澤の餘勢に御座候
御厚礼冥加至極難筆紙尽此
故奉存候
依之流儀免許追々
一部九巻但今一巻先年帰京後
御宅へ御礼に罷出候年号にて御
傳授仕候
御悦納可被成下候猶又
印可の巻蟇目鳴弦の書物は
追て差上可申候何分旅中の儀故
門弟膳所御師家松原熊蔵へ申
談江刕へ罷越候留守出来一両日
前持参仕候旅中の儀故書判
斗に御座候秋罷出候節朱印
等持参仕候て證状等相認可申候

當時私共の振合故目録料
丈は御序の砌被遣可被成下候
餘は御配意聊不及候御稽古に
被参候御社中様方へ次第に御相
傳可被成下候尤免許迄に傳受
三段に御座候間左様思召可被成下候
巻物松原方にて傳受済候者へ夫々
書写申付候故色々愚筆も相交り
見苦敷候へ共御勘弁可被成下候

右御約定仕罷帰り差急候へ共大
延引に相成り候段御勘弁可被成下候
私義も今少用向相済兼候に付今
暫は在京仕候何れ秋は罷出
緩得拝謁可申儀と相楽申候先は
右の段申上度如此御座候猶
期重便の時候恐惶謹言

 七月八日   増田太市郎

 生 勘左衛門様
     参人々御中

尚々先達は少々御不快の儀
被仰聞候當節如何御座候哉残
暑に相成り厳敷事に御座候折角
御厭御保養専一奉存候誠に
諸方飛知行心外の御疎意
御約定巻物出来に付乍延引
差上御落掌可被成下候外大
佛餅一箱御笑味可被成下候はゝ
難有奉存候乍末毫お熊殿
外御出席御社中様宜御致
聲奉希候秋少々冷氣にも
相成り候はゝ罷出御様子御伺可申
上候頓首再拝〃


はじめに、師範 増田太市郎の手紙です。「先年帰京後御宅へ御礼に罷出候年号にて御傳授仕候」とありますから、認められたのは天保3.4年の内でしょう。尤も、入部の話題は「昨年」とあり、傳授の約束は「先年」とあり、天保4.5年の可能性も考えられます。

 〇
増田太市郎は、藩から藩へと忙しく武藝を指南し活動していた様子です。このような例を実見したのは初めてゞす。数藩の士を指南する場合、普通は江戸において行われたものです。ところが増田太市郎は、京都→郡山→京都→近江→京都へと移動しており、江戸に於ける指南でないことは明らかです。

また、増田太市郎は自身の家中でもしっかりと弓術師範を勤めていたらしく、「昨年、入部(*)のときは主人より格別の待遇をうけ拝領物がありました。家中の諸師範もいましたけれども、私一人がこの仕合せ、偏えに大仁様との厚誼が近年顕われたのでしょう。御恩の儀は山高海深の上に御座います。そのほか諸国に行っても射道一儀ながら尊敬に預り、全く御恩澤の餘勢に御座います。御厚礼は冥加至極、筆紙に尽し難いことです」と、得意満面な様子を伝えています。
 * 入部とは殿様の国入りのこと。

 〇
肝心の秘書八巻については、多忙のなか弟子の松原熊蔵に任せておき、出来たものを一両日前に受け取ったとのこと。又、旅中のため書判(花押)ばかりで、次に会うとき朱印を捺し證状を渡す、と伝えています。

「流儀の免許、追々一部九巻但今一巻は、先年帰京後御宅へ御礼に行ったときの年号にて御傳授します。御悦納ください。猶又、印可の巻 蟇目鳴弦の書物は追て差上げます。なにぶん旅中のことですから、門弟 膳所御師家の松原熊蔵へ相談しました。近江へ行き不在でしたが一両日前に持参しました。旅中のことですから書判ばかりです。秋に参るとき朱印など持参して證状など認めましょう」

現存する秘書八巻には朱印が捺されておらず、この文面の約束は果たされませんでした。

 〇
ほかに、傳授について気に掛る記述があります。それは「御大仁様」への傳授です。

「先頃御噂にて傳受の義勿論射法の義は如何様の秘密に候共御大仁様へ御傳受可仕候義に御座候」
「偏に大仁様へ御厚恩の近年相顕候」

「御大仁様」と云うのは、家中の身分の高い士を指したものでしょう。
先述の拝領物のくだりにある如く、家中の諸師範から特に自分だけが厚遇を受けたのは、「御大仁様への御傳受」が功を奏している、と云うわけです。
こゝに、増田太市郎の戦術があったように思います。弟子の生駒勘左衛門にも「大仁様へは御傳授」を強調しています(次に掲げる『増田太市郎副簡』参照)。

流儀のより一層の発展、あるいは自身の声望を高めんと画策するならば、これは至極真っ当な戦術であったと言えます。家中の高禄の士たちが支持すれば、それだけ流義は隆盛するだろうと期待できるからです。
ちょっと武藝の本質とはかけ離れている事ですが、斯ういった根回しなどは必要不可欠と言えるでしょう。しかし、日置流は既に大々流派ですから、流義の存続云々ではなく増田太市郎自身の声望を高めることが目的だったのかもしれません。もしくは同流の間に派閥のようなものがあったのでしょうか。



『増田太市郎副簡:道雪流傳授の次第』個人蔵

 道雪流傳授の次第

右大躰修行仕候者へ初て傳授

 初傳 弓の書目録と

   右傳受仕候右註書は
   日置流弓の書物と認御座候
   に委敷訳合認御座候

 第二段目

 一通     所務言葉の巻
  目録と云  小的の書 羽観
             合二巻
        射義指南哥

 第三段目   弓の書物 一
  免許    細工の書 一
        系圖   一
      外 許状一巻

 右三度に傳受仕候義御座候
 御社中に位々夫々御傳授
 可被成候右の外

 第四段目
  中傳   ┌蟇目鳴弦
       │藤矢搦
       └軍陣謀詰留

 第五段目
  印可    目録巻物拾巻
        合冊註釋本廿巻
        證状一巻
   外唯授壱人の書
    虎強清眼と云

本書申上候通り如何様の
書にても大仁様へは御傳授
可仕候何分旅中の儀故
免許追々一部差上候御
落掌可被成下候極私寸志
御悦納可被成下候頓首
  七月七日 増田太市郎
         長澄
 生駒勘左衛門様


「本書申上候通り」云々の記述によって、前掲の『増田太市郎書簡』の副簡であると分ります。

 〇
生駒勘左衛門が傳授された秘書八巻は、書中の「初傳・第二段目・第三段目」に該当します。合わせて、その後の「第四段目・第五段目」までが明らかにされています。この事から推し量って、生駒勘左衛門はいずれ卯可を傳授される予定があったのではないかと思います。この手紙のとき生駒勘左衛門は免許でありましたが、既に傳授は行っていたことが伝えられています(*)。増田太市郎は、特に「大仁様へは御傳授可仕候」と念を押しており、有力な門弟と目し期待していた様子です。
 * 免許であれば、師範の後見のもと免許までの傳授が可能でした。



『増田太市郎追啓』個人蔵

  追啓

大切の巻物故御請取
可被成候尤旅宿

 京都五条問屋町弐丁目
  萬嘉借屋
    萬屋常次郎

右の方へ旅宿仕候間書
物慥に相届候はゝ鳥渡
乍御面倒御請取可被成下候


「大切の巻物」=「秘書八巻」を請け取ったら知らせてほしいと云う連絡先の追啓。前掲二通に同封と察せられます。



『松原熊蔵書簡』個人蔵

別啓奉申上候先達てより
御頼の御流儀初傳
目録免許状迄都合
八巻箱共出来
に付
夫々為相認此便差上
申候御落掌可被下候尤
是迄御定の通巻物
八巻箱入にて金壱両壱歩
外に書冩料壱歩相懸り
申候都合金壱両弐歩に
相成申候間
重便御越
可被下候此段奉申上候跡
一部は近々差上し可申候間
左様思召可被下候右の段
申上度如斯御座候以上

 七月五日  松原熊蔵

 増大先生
    玉机下


先述の通り、松原熊蔵は近江膳所藩の弓術師範にして増田太市郎の門弟です。はじめに掲げた『増田太市郎書簡』の三日前に認められたものでしょう。生駒勘左衛門の元へ此の手紙が送られたということは、増田太市郎が秘書八巻の代金を請求するとき、その証しとして同封したのだと考えられます。


今回は、師範の側が傳書を用意しました。しかし、師範本人は多忙であったゝめ別の門弟が製作を担当し、そのまた門弟たちが手分けして書写し、秘書八巻を完成させました。

 〇
秘書八巻箱入の代金は、書冩料含めて金壱両弐歩。

巻物自体は市販の物を購入し、箱は別注したと思います。これが金壱両壱分。

書冩料は壱歩かゝっています。松原熊蔵方の門弟(傳授者)たちが手分けして書き写した、とはじめに掲げた『増田太市郎書簡』に書かれています。傳書は未伝の者への他見他言を憚るという決りがありましたから、書き写したのは既に傳授を承けた門弟に限られたようです。

傳書を観察したところ、三人の手で書写されていました。
「初傳・第二段目」の『弓之書目録』『的所務言葉』『小的之次第』『射義指南歌』、計四巻を一人が書写(筆一種使用)。
「第三段目」の『弓之書物之事』『細工之書』『射家系圖』、計三巻を一人が書写(筆二種使用)。
「第三段目」の『許状』一巻は一人が書写(筆二種使用)。

増田太市郎は「色々愚筆も相交り見苦敷候へ共御勘弁可被成下候」と詫びていますが、伝書としては尋常な仕上りです。弓術は伝書の数が多いので、書写には大変な苦労があったのではないかと愚考します。

参考資料
『江戸通矢に見る弓術流派のネットワーク』佐藤環著

国友一貫斎の手紙(二)、天地論


『国友一貫斎書簡』個人蔵

天地と云は世界を差て云には有間敷
陽は登るもの故天と云陰はしつむもの故
地と云歟世界と天との違は大海へけし
粒壱つ落し候よりも違多く日月は天の性
陽のこりかたまりたる火の玉則日也
月は天の性陰のこりかたまりたる氷のごとく
則月也日月とも天の御魂にて性也性は
陰陽合体の処也陽は形ちなし形ち
有ものは萬物陰と承候処陰陽とも
萬物に形ち無ものは壱つも無御座
形ちなきものは性斗也は天の御魂にて
火也目前丸く御形ち窺申候天は上下
立横無御座丸き器なる故日も
丸き形ちにて一天に満ちてらし給ふは
其性也御魂は形ち丸く窺候得とも
性斗は形ち無之候又世界にて火を燈し
候も丸き器の中に燈し候時は火の大小は甚
し也相應の形ち大きくも小さくもとぼし
申候火の性は其器に満ち申候又天と云も
上え斗で非す天に蘭人月星は世界
と云もヶなり歟の内には雪七分通り
有其内に山〃谷〃種〃相訣り又雪の
無之処に少しうるみ有之其内に星の
ごとく光り候処有之是は湖水ヶ海ヶ平地に
無雪処ヶ其内の山ヶ嶌ヶと思ひ星にも
土星は中に玉有其玉に輪をかけ玉のぐるり
黒く木星は筋三筋有之金星
三ヶ月の通り日請次第に月同様にかけ
まし出来日を見て世界と可思同理
有之雪の中に山〃数〃有之深きくぼみ
有之又高き処有白き事雪に少しも
違無之体に見へ漸今考當り是は
陰のこりかたまり氷のごとくに相成其かたまり
たる丸きもの自然のものなれは細工に仕立候様
には有間敷色〃たくぼく有之高き処は
日を請ひきゝ処はかげに成黒く見え又うる
み有処は氷にもうるみ有る処も同是愚考に
違有間敷此世界の陰月前迄兆届くものに
には世界にてふる雨雪等は近き処と存
陰のこりかたまり氷に成たる御魂に相
違有間敷日に向えはあたゝかし月に
向えはひゆるは日月の陰陽の性也日は陽の
こりかたまりたる御魂也尤火の玉也日の
           うすき
内に黒点種〃有之は火の薄き処也扨又
愚意の考にて製作の目鏡にて
三光窺候時其御魂に有之業毎く
明らかに窺申候又鳥類畜類にても
肝を見るに細工に磨たる玉の様には無之
聊の高びく[低]くぼみ又色替りたる処も有之
人間の肝は未見候得とも同様たるべしと
存候人間の魂迚も形ちは有之性の付添
有故善し悪し相訣れもの也魂も五体も
命は限り有之候得共其魂に付添たる
魂の性はくちる事なく此天の内に有天に上
下無ものと申は地球は一日に一とまわり本然
かと存しまわり申候我居処より上を天と
たる見きわめ居候時天は一刻にて夫■の
      よこ
違出来申候立横八方聊にてもすき有
処は皆天也

一 天神地神の事
一 命限り有事
一 仙人の事
一 里の木齢短事
一 奥山の木齢長き事
一 善悪共魂神集事
一 刀釼製作の義は愚意にてはつき
  とめ候心地仕候細工并業等の事は無理と
  一旦思ひ候とも深く考候時は其得
  理事必定也

   御笑草に御覧奉願上候以上

            眠龍思


「眠龍」とは国友一貫斎のこと。この手紙は、一貫斎と交流があった播磨姫路藩の炮術師役に送られました。おそらく別帋の扱いで同封されていたものでしょう。炮術師役は、殿様の使用する筒製作に関わる「御手筒懸り」を勤めており、又「御氣炮早打御筒」「御召筒」、両度の件を担当し一貫斎と面識がありました。天保7-9年に接触があったと推定しています。
天保9年「御召筒」の件は確実です。炮術師役の日記に、一貫斎が姫路に滞在し炮術師役と交渉していたことが記録されています。
「御氣炮早打御筒」の件は、一貫斎の手紙が現存しており、これによって「御氣炮早打御筒」執り成しの交渉が確認できます。但し年紀は天保7,8年、どちらか極められていません。

さて、こゝに掲げた手紙は「天地」について語られています。「天地と云は世界を差て云には有間敷」という書き出し、「立横八方聊にてもすき有処は皆天也」という締めからすると、炮術師役から「天地」について質問を受けたものと察せられます。在り来りな「天地」論ではなく、一貫斎が天体観測の経験によって得た知識を惜しげも無く披露し、太陽・月・土星・木星・金星・太陽黒点の話しを以て「天地」を語ります。当時としては余程目新しい話だったのではないかと思います。
認められた年紀は、先述のごとく両者が接触した天保7-9年の頃でしょう。太陽黒点の観察結果「内に黒点種〃有之は火の薄き処也」の記述がその推測を裏付けているように思います。一貫斎、時に59-61歳。

 〇日月・陰陽のこと
天地と云うは世界を指して云うには有るまじく、陽は登るものゆえ天と云い、陰は沈むものゆえ地と云うか。世界と天との違いは、大海へけし粒一つ落すよりも違い多く、日月は天の性、陽の凝りかたまりたる火の玉すなわち日なり、月は天の性、陰の凝りかたまりたる氷のごとくすなわち月なり。日月とも天の御魂にて性なり。性は陰陽合体のところなり。陽は形無し、形有るものは萬物陰と承るところ、陰陽とも萬物に形無きものは一つも無く、形無きものは性ばかりなり。

 〇日のこと
日は天の御魂にて、火なり。目前に丸く御形を窺う。天は上下縦横無く、丸き器なるゆえ、日も丸き形にて一天に満ち照らし給ふはその性なり。御魂は形丸く窺へども、性ばかりは形無く、また世界にて火を燈すも丸き器の中に燈す時は、火の大小は甚だしい。相応の形大きくも小さくも燈す。火の性は、その器に満ち、また天と云うも上へばかりであらず、天に蘭人、月星は世界と云うも可なりか。

 〇月のこと
月の内には雪七分通り有り、その内に山々谷々が種々相分れ、また雪のこれ無きところに少しうるみこれ有り、その内に星のごとく光るところこれ有り、これは湖水か海か、平地に雪無きところか、その内の山か島かと思ひ星にも。


『一貫斎国友藤兵衛伝』有馬成甫著:第三〇圖

 〇土星・木星・金星のこと
土星は中に玉有り、その玉に輪をかけ玉のぐるり黒く、木星は筋三筋これ有り、金星は三ヶ月の通り日を請け次第に月同様に欠け増し出来、日を見て世界と思うべき同理これ有り。
雪の中に山々数々これ有り、深きくぼみこれ有り、また高きところ有り、白きこと雪に少しも違いこれ無きように見へ漸く今考え当り、これは陰の凝りかたまり氷のごとくに成り、そのかたまりたる丸きもの自然のものなれば細工に仕立てた様には有るまじく、色々たくぼくこれ有り、高きところは日を請け低いところは陰に成り、黒く見へ、またウルミ有るところは氷にもウルミ有るところも同じ。これ愚考に違い有るまじく、この世界の陰、月前まで兆し届くものには世界にて降る雨雪などは近きところと存じ、陰の凝りかたまり氷に成りたる御魂に相違有るまじく、日に向へばあたゝかし、月に向へば冷ゆるは日月の陰陽の性なり。

 〇人間の魂のこと
鳥類畜類にても、肝を見るに細工に磨きたる玉の様にはこれ無く、いさゝかの高低窪み、また色替りたるところも有り。人間の肝は未だ見ざれども同様たるべしと存ず。人間の魂迚も形は有り、性の付添い有るゆえ善し悪し分れるものなり。魂も五体も命は限り有れども、その魂に付添いたる魂の性は朽ちる事なく、この天の内に有り。

 〇天地のこと
天に上下無ものというのは、地球は一日に一とまわり本然かと存じまわる。我居る所より上を天たると見きわめ居る時、天は一刻にてそれ■の違い出来る。縦横八方、いさゝかにてもすきある所は皆天なり。



『国友一貫斎書簡』部分 個人蔵

三光窺候時其御魂に有之業毎く
明らかに窺申候又■■玄田■にても
肝を見るに細工に磨たる玉の様には無之
聊の高びくくぼみ又色替りたる処も有之


この記事を書き終えるまで「玄田」前後が読めませんでした。「玄」が一文字のごとく認識できた為、正解が分らなかったのです。次の文に「人間の肝は未見候得とも同様たるべし」と云いますから、この読めない部分には定めし動物のことが書かれているはず、と推測し「歌・部・都・類」とも見えた字を絞り込み「鳥類玄田類」と読んでみました。すると、「玄田」は一文字ではなく「畜」なのだと気付き、ようやく正解に至りました。はじめの思い込みが障りとなる、史料を読んでいると度々そういうことがあります。

参考資料
『一貫斎国友藤兵衛伝』有馬成甫著 武蔵野書院

七月近況

7.18
昨晩、士族の日記を読んでいると虫歯治療の記事を見付けました。

[明治十七年]
二月十一日辛卯
一長次郎十一時帰宅十一時三十分次横綱町
 長谷川保歯醫に左の奥歯即
 替え歯の次臼歯虫蝕を銀にて
 填充の積然れ共歯の神経
 不死候間先〃切断神経を
 劇薬にて殺し一と先護膜にて填充
 六十日間経然る後銀にて填充
 の積代價三円五十銭の由
 尤コム代金斗にて追て
 治療の積

十二日 壬辰
一出校正平頼合長谷川保へ行歯治療請
 コム填充せり又候出校三時退校

十五日 乙未
一出校午前十時頼合長谷川へ行治療を受
 候處未何の■■なく只痛候間可然
 相頼候處コム詰替にて念代料にて帰る
○右代口中腫喰■取に因て人力車力蠣
 売町岡へ行承貰金時候當り腫物口中
 に發し胃汚物溜り居候段如斯相發し候や當分
 の事候間薬を十分飲せ不申候や
 本日は寧秀誕生に付内祝せり

明治十七年には既にこのような虫歯治療が行われていたのかと驚きました(一部読めず)。注目すべきは、治療内容を患者の側が正確に把握していることです。つまり歯醫の長谷川保が細かく説明したのでしょう。
ちょっと調べてみると、こゝに登場する歯醫 長谷川保はウィリアム・クラーク・イーストレイクの弟子でありました。当時の最先端の治療だったのです。

7.14
昨日、今日と星野如雲翁の『上京道中日記』を書き直していました。
史料通りに改行されていないと落ち着かず、且つ情報が一望できない不満があったからです。

読めない字も多くあったので、今回こそはと読んでみましたが、やはり甚だ読みにくいです。矢立から取り出した小筆を以て書いたのでしょうか。妙にガサガサと乾いた筆線がそう思わせます。
以前読んだときに分らなかった字が、今回は幾つか読めたので、如雲翁が泊っていた宿も分りました。六條醒ヶ井通りの表具屋庄之助、西本願寺の北東角向い目と鼻の先です、早速地図に書き足しました。

7.12
「武術史料拾遺」を立ち上げて三年の月日が過ぎました。

江戸時代に武士たちがいかにして武藝に取り組んだのか、その環境や実躰等を解き明かすことが当初の目的でありました。素より三年斗りで達成できる目的とは思っていませんでしたが、浅学にして非才ゆえに思いのほか此の目的は達せられず、未熟なることを痛感しております。しかし三年の間に、これはと思う史料が少なからず見付かりました。そのうち、すでに掲載しているものをこゝに幾つか挙げます。

たとえば、伝書の奥書について触れた「宮北十郎左衛門の手紙、伝書の実躰」。この手紙の中で宮北十郎左衛門は、「惣て高上極意印可状定て傳受せしむべし、とこれ有るは書物柄の文躰とて外に傳授の義はこれ無く候」と、当時の伝書傳授の実躰を述べています。ずっと以前は「書物柄の文躰」ではなく、「高上極意印可状」は実在したのかもしれません、中途で失われてしまい文言だけが残されたのではないか、と考えられます。

また伝書の奥書について「尾州竹林派四巻書」の中の「尾州竹林派四巻書:第四 奥儀之巻」。これには星野勘左衛門の自筆にて「愚身悪筆にて書き進む事も如何に候得共、浮世の書物共は色〃謀を廻し盗出して写し取る事も、又は判抔(など)を似する事候得ば、善悪に寄らず筆情墨色似せ難き物にて候得ば、愚身筆を證據として是に書き進むもの也」との旨が書かれています。はたしてそういった偽物が出回った事例があったのだろうか、という興味深い記述であります。わざわざ書くということは、そういう偽筆があったという証とも受け取れますが、さていかゞなものでしょうか。

傳授の実躰といえば「起倒流柔術鎧組討の傳書」の中の「口傳秘書巻」が有力であります。同書の文中において「人の巻」については「右いづれも用に立たぬこと也、故に流義に右様のわざこれ無し」(※右いずれも、というのが全てを指すのか、或いはそこまでの数項なのか定かでない)と、「諸流十二の形」について「此の十二の形も用に立たぬこと也、是にて色々のわざを教ゆる義なり」と註釈されています。各代の師範たちが受け継ぐ伝統の伝書からはうかゞい知れない実際の傳授の有り様が述べられている点、実に有力と思われます。

ちょっと視野を拡げ、当時の情勢が武藝に与えた影響。たとえば「嶋本流棒火矢」の「御用意矢製作被仰付候節諸扣」。嘉永6年の異国舩騒動によって、御用意矢を製作するよう主家から命ぜられた福山貞馬の記録です。御用意矢製作に至る経緯は記されていません、命ぜられてから御用意矢が納められるまでの経緯が事細かに記録されています。異国舩に対し棒火矢がどれほど効果的であったのか定かではありませんが、藩が武藝に期待していた一事例といえるでしょう。

天保の徳丸原演練以降、各藩に伝播した高嶋流(西洋流)。この流派が在来炮術に与えた影響は多大でありました。姫路藩にも徐々にその影響が出始めたころ、在来炮術である不易流の師役が高嶋流の業を取り入れようとします。「不易流砲術概説:他藩師役との交流 ~佐藤秀堅の書簡~」の中の「佐藤謙之介書簡:天保14年秋「我等ボンベン抔の事は及びも申さず候」」。この手紙は伊勢津藩炮術師役が認めたもので、他流の業を取り入れることに対する憤りが述べられています。そして、他流の業を取り入れる場合の解決策として「他之術ニ而もよき術御座候ハゝ流外ニ被成可被置と奉存候、内々ニ而も傳授ト申而も弟子入も同之事ニ候」と、流外の扱いを勧めます。斯うした機微は史料として残りにくゝ貴重な情報であります。

武藝に取り組む武士とはどういったものか、その一端を明らかにしたのが「大野藩の軍学 要門導入と起請文」。起請文に名を列ねた者たちの履歴を調べることによって、家格の高い士の嫡子や当主たちが要門を学んでいたと分りました。また、調べを進めている最中の「不易流砲術概説:酒井家の門弟たち」。こゝでも同様の手法によって、酒井家に於ける不易流炮術の門弟たちの履歴を明らかにしています。

以上、三年を振りかえり思いつくまゝ、私が目的とするところに近い史料を挙げました。見返してみると、改善の余地は途方も無く大きいように思われ、今後一層の努力が不可欠であると認識しました。

7.6
『真影山流居合の註釈書』を二つ載せました。

(一)の構成は、「表手数」「陰手数」「目録手数」「免許手数」「構」「大巻」。

(二)の構成は、(一)の「居合」「立合」に加えて「取合」(「取合表手数」「取合陰手数」「取合目録手数」)が収められています。このほか、「構」には「入身構」「小太刀構」が加わり、また(一)では空白の侭置かれていた「印可(兵法免許口傳)」が記されています。尤も「大巻」は収められていません。

(一)と(二)に共通する手数は多くあります。しかし、遣方の説明そのものは相違しており、両方を突き合わせることで、より確かな情報を汲み取れるのではないかと愚考します。

7.3
仕事量が多く滞っていた「石川光實」の項が出来ました。
まだ書き足らないのですが、もう少し史料を読み込まねばならず、区切りの良いところで載せました。
眼を休ませるため、数日は更新が滞ります。

7.2
『真影山流極意之巻』の訳文が出来ました。
読んでいて一際目を引いたのが入合之剱です。

 

心通手眼
「両方太刀の中にて打ち合い候節、我が身を小さく左の足を踏み込み、敵の太刀我が躰へなにとぞ押し付けさせ、その太刀引き上げさせずに勝負する事、是誠の入合の剱なり、但し敵の太刀生るゝ所をおさえて後、我が躰へは押し付け給う事なり、居合にても兵法にても摺足有無の合太刀、心通剱と極意申し候えども、敵の太刀の白刄を我が躰へ請け留めて敵の随がゆる事これ有るによって入合の剱と表したり」

これは中腰極意極意三ヶ條に於いて、殊更説かれる心です。

中腰極意
「敵の太刀上にても下にても我が身へ押し付けさせて苦しからず候、綿入などにては少しも通らざるものなり、袷・単物・帷子に候とも必ず我が身へは当らざるものなり」
「若し怪我仕り候ともその手にてはあやまりに罷り成らず候、一寸の負け九分の勝ちとこれを云うなり」

心明剱
「平生我が身には着こみを着たると思う所は至る所の誠なり、敵の太刀我が身には当りても切れざると思い行く事必ず忘れまじき事」

真之摺足
「敵の白刄を我が躰へ押し当て苦しからざる事有り、合わせて後は必ず敵の太刀よはるものなり、その時押し懸けたる分りて綿入の事はさて置き、単物にても通らざるものなり、この心を常式持ちようはいつも我が身に着込を着たると思うが専一なり」

合太刀之大事
「合わせて後は敵の太刀を上下左右のきらいなく我躰へ我と受け留め我が太刀にて敵を亡ぼす所を真影一流の誠の秘蜜と善賀入道より申し傳え候」

「敵の白刄を我が躰へ押し当て苦しからず」、これら着込みの心は、極意のなかで特に説かれます。
ところが、数代後の「大巻之巻覺」の冩においては、この着込みの心について全く触れられていません。吉田武左衛門が敢えてこの心を外して大巻を傳授したものか不思議です。
この冩の冒頭には興味深い記述があり、先ず武左衛門、沼澤一郎左衛門、渡邊甚助、村上平兵衛へと唯授一人が伝えられたことが書かれており、次の項に「武左衛門が真影流と真影山流に分けたと聞く、唯授者も分けたのだろうか分らない、この通り流は二つに分かれた」との旨が書かれています。

 

話しはかわり、眞影山流を指南した石川光實は、諸流に先じて中臣流手裏釼の印可を相傳されました。師は曰人と云い俳諧で名の知られた人です。曰人は幼少より上遠野伊豆の門弟に獨鈷流手裏釼を学び、さらに三鈷流・剱徳流・香取流吹針などを学び、後に工夫を加えて一家を建立します。しかし、手裏釼打と人に知られては警戒されるという考えから、これを一切秘していたようです。伝書には弟子の光實にもそうするようにと書いています。
なお「釼の数二十本を以て五度打てば百本なり、一夜千本打すべし、夜中的しづまりて吉し、音なき様に布を後に張りて的をかくべし」、「右、九曜打たるゝ手もとならば指南たるべし、毎夜千打おこたるべからず、七星うたれぬうちは指南無理なり」と日々の鍛練を欠かさぬよう戒める文言が見られます。どうやら傳授自体は短時日にて行われ、その後は日々の鍛練に委ねられていたようです。これもまた石川光實の項において触れたいと思います。

7.1
直心影流・氣楽流関係の史料を立て続けに掲載し、しばらく眼を休ませ、このほど真影山流の史料に取り掛かりました。
目下、真影山流を指南した石川光實のページが七割方出来、真影山流の註釈書が一つ翻刻出来、同流極意之巻の翻刻が完了し、次いでその訳文を作成しております。真影山流極意之巻は同流の重要史料と思われ、特に力を入れて訳文を検討しています。訳文とはいえども、現代文に直すというのではなく、主観は交えず読みやすいように文を整えようと云うものです。これには師範家旧蔵の註釈書二冊が大いに頼りとなりました。今のところ五割ほど出来ています。

真影山流を指南した石川光實にはユニークな話しがあります。彼は仙臺藩の士で大番士と云う並の士でした。家督を継ぐ以前のこと、師範の命によって丹波柏原まで旅をします。仙臺から丹波までは結構な距離があります。当初彼は一年の暇を藩よりもらいました。もちろんこれは武藝修行のためです。
丹波柏原を領する織田出雲守の家中に真影山流の師範がいるという情報があり、この師範から流義の欠けた部分[傳落]を教わろうという目的でありました。
ところが柏原に着いてみると、その目当ての師範がすでに病死し流義は絶傳したとのこと。落胆したであろう彼はこゝで一計を案じ、同じ家中の士に二刀流を教わります。渋谷流釼術と云い、あまり知られていない流派です。当時の織田家においては、殿様が仙臺侯に懇ろな扱いを受けたという認識が家来にもあって、突如来訪した彼にも特別に流義を傳授したようです。
これが仙臺藩に渋谷流が伝えられた経緯であり、予期せぬ伝播というのが面白く感じられました。石川光實の項にて詳述したいと思います。

話しはかわり、旧字体と現今の字について。
現代では「仙台」と書き、「伊予」と書き、「武芸」と書きます。
しかし、江戸時代の史料を見るかぎり、「仙臺」「伊豫」「武藝」と書いてあります。
なぜなら、これらは単に旧字体というのではなく、台と臺、余と豫、芸と藝、本来別の字だからです。
つまり近年、全く別の字を混同するようになったわけです。なにもこの三つの字に限ったことではなく他にもそういった例があります。
私は舊字體にこだわる主義ではありません。江戸時代の史料を紹介するのだから、せめて漢字の表記ぐらいは留意しようと思うのです。だから、「伝・傳」「剣・釼・剱・劒」「体・躰・體」「槍・鎗・鑓」などの相違にはさして頓着なく使っています。尤もその史料を紹介するときはその史料に随って書くことにしています。

表記といえば、現代においては見られない表現が、江戸時代の史料にはいくつか見受けられます。
たとえば、今回取り掛かった仙臺藩の石川家の記録には「傳談」「傳落」という言葉がありました。流義の傳授に関わる相談を「傳談」と云い、流義の欠落した部分を指して「傳落」と云ったようです。
また、以前取り上げた姫路藩の炮術師家の古文書のなかに「流外」と「流替」という言葉がありました。「流外に被成可被置候」これは他流の技法を自流外の扱いにするとき用いられています。「流替」は、不易流から西洋流へ流義を替えるときに差し出されました。藩が後ろ盾になってのことです。
ほかに、加賀藩の居合師家の記録『学校向達方等一巻留』には、「傳流」という言葉が見られます。「一 門弟之内流儀不得手ニ付傳流致度旨被申聞候人〃有之時ハ得与承り糺申分茂相分り居候得ハ致承知其段相達可申候」これは門弟の側から破門を希望したとき、平和的に破門を許可する場合に用いられています。
尤もこれらは極めて限られた史料を通してのみ知ることのできる情報であって、当時の広汎における認識は定かでありません。

さらに、今日言うところの師範に関わる表記について、「師範」「師範人」「指南役」「師役」「師家」「家元(家本)」等と云った言葉が江戸時代の史料に見られます。
これらをその都度使い分けるのは難儀なため、役儀として指南する師範を「師役」とし、それ以外の師範を単に「師範」としています。
また、その師範の家を指す場合は「師家」と云い、「師家」が代々流義を継承する場合においては「家業」と云います。なかんづく流祖以来の子孫が流義を継承している場合「家元(家本)」とします。「家元(家本)」の表記は江戸時代の幾つかの史料に見出すことができます。
(蛇足ながら、「師役」という言葉は熊本藩の記録に見られる表現で、他では見た記憶がありません。星野家文書での印象が強く、好んで用いています。「家業」というのは武藝について云うには不適当なように感じてはいましたが、鳥取藩の記録では「家業」という表現が使われています)

斎藤弥九郎の手紙、品川沖測量及大筒鋳造


『斎藤弥九郎書簡』個人蔵

[前欠]
一 来春はアメリカ軍艦
数艘渡来の趣専風聞
いたしロシヤ イキリス
各追〃渡来の風聞にて
有志の輩一同心配罷在
此末如何可相成哉何れ
にも士氣作興の時節
兵士は釼炮の二道
精練いたし□□随て
鎗馬水軍是又専務
の入用に御座候処兎角
一寸逃退候て尓今張込無之
輩も沢山にて難敷事と奉存候
御地は近頃殊外御盛の
趣松本氏より承知仕至極
の御儀と奉存候全御世話
御行届罷在候段奉感拝候
猶□□御引立等御骨折
の處奉祈候當今の
士風都下の様子等右
四人の者共より御承知可被下候
時に御案否も可相伺処
六月初異舩渡来より
此方大取込品川沖
浅深測量分間いたし
去月中より本郷於桜馬
場大筒鋳造相掛日〃
奔走いたし候不得寸暇
意外の御無音偏に
御海恕可被成下候忰義も
越前公より御頼にて罷越
留守にて是又御無沙汰
申上候右四人の義は
何分宜敷奉希候様此段
可得貴意候如此御座候猶
後便萬〃可申上候
    艸〃頓首

九月八日 斎藤弥九郎

 黒川左右次郎様

尚〃折角時候御厭可然奉存候
乍憚其御社中様方へ
宜敷奉希候當方相應の
御用等無御座候□□


米国使節東印度艦隊司令長官海軍代将ペリーの退去より、斎藤弥九郎翁が手紙を認めた九月八日までの幕府の主な動向は下記の通り。

嘉永六年 『維新史料綱要』

六月十三日 幕府、米艦退去に依り、非常警戒を解き、内海警備を撤せしむ。

六月十四日 老中阿部正弘、海防掛川路聖謨・同筒井政憲を前水戸藩主徳川斉昭邸に遣し、米艦退去後の措置を議せしむ。

六月廿三日 幕府、三奉行・大小目付及海防掛に命じ、予め米国軍艦の再渡及諸外国船の渡来に対する措置を議せしむ。

六月廿六日 幕府、評定所一座・三番頭等に米国国書を示して意見を徴す。

六月廿七日 幕府、米国国書を溜詰諸侯に示して意見を諮ふ。

六月晦日 幕府、代官に命じて江戸沿岸の浅深を測量せしむ。

七月朔日 幕府、米国国書を諸侯に示して其要求の許否如何を諮る。尋で三日同じく高家以下布衣以上の有司に意見を徴す。

七月朔日 幕府、麾下士に諭し武備に習熟せしむ。

七月廿三日 幕府、令して海防施設に係る工事は普請停止中と雖中止すること勿らしむ。

七月廿五日 勘定奉行川路聖謨・韮山代官江川太郎左衛門、旗山・十石崎・富津間海堡築造の議に対へ、事歳月を要するを以て、寧ろ江戸近海の施設を急にするの可なるを論ず。

八月二日 幕府、勘定奉行松平近直・同川路聖謨・勘定吟味役竹内保徳・韮山代官江川太郎左衛門及海防掛に命じて、江戸内海に砲台築造の事を計画せしむ。

八月六日 幕府、韮山代官江川太郎左衛門の内願に依り、岡部藩に御預中の高島四郎太夫を赦し、其配下に属せしむ。

八月九日 幕府、米国国書に対する意見の提出を諸侯及麾下士に促す。

八月十日 幕府、江戸諸藩邸に於て四季空砲打調練を行ふを許し、且藩地に備へて猶剰れる銃砲を江戸に送致せしむ。

八月廿四日 品川台場築造位置を検分す。

八月廿八日 幕府、勘定奉行松平近直・同川路聖謨・目付堀利忠・勘定吟味役竹内保徳・韮山代官江川太郎左衛門等に内海台場普請及大筒鋳立掛を命ず。

八月晦日 露国舩一艘、北蝦夷地久春古丹に来り、乗員上陸営舎を構築す 松前藩主松前崇廣、報に接して戎兵を発す。

是月 幕府、湯島桜之馬場に鋳砲場を設く。

九月八日 幕府、江戸外郭諸邸に於ける調練の制限を撤し、専ら実用に力めしむ。


欠けた前紙には「右四人の者共」のことが記されていたようです。斎藤弥九郎翁の門下生でしょうか、「當今の士風都下の様子等右四人の者共より御承知可被下候」と江戸から下った様子であり、末筆では黒川左右次郎に「右四人の義は何分宜敷奉希候」と頼んでいます。
ときに斎藤新太郎もまた出払っており「忰義も越前公より御頼にて罷越留守にて是又御無沙汰申上候」、そのため一層ご無沙汰であったことが伝えられており、黒川左右次郎は斎藤父子と面識があったと捉えられます。力及ばず宛先の人物を詳らかにすることは出来ませんでした。文面から察するに遠方に住まう人物でしょう。
さて、手紙が認められた時、「来春はアメリカ軍艦が数艘渡来するとの趣、専ら風聞があります。ロシヤ・イギリス各追〃渡来の風聞にて有志の輩一同は心配しています。この末いかゞ成ることか」と都下身辺の情勢を伝え、「いずれにしても士氣を作興すべき時節」と武藝を盛んに行うべき論に移ります。「兵士は釼術・炮術の二道を精練いたし」、「鎗術・馬術・水軍もこれまた専務の入用」と自説を披歴、実際そのようにしようとしていたようですが、「兎角ちょっと逃げ退って、これから張り込みもない輩も沢山にて難しいことだ」と思い通りにはいかない様子です。
次いで、江川太郎左衛門の配下として「六月初めの異舩渡来より今まで大取り込み、品川沖の浅深測量や分間いたし、去月中よりは本郷桜馬場において大筒の鋳造に掛り、日〃奔走」と寸暇を得ない状況が伝えられています。
「品川沖浅深測量分間いたし」とは年表中の「品川台場築造位置を検分す」のこと、「去月中よりは本郷桜馬場において大筒の鋳造に掛り」とは「幕府、湯島桜之馬場に鋳砲場を設く」のこと。どちらも幕府が喫緊の課題として取り組んでいた海岸の防衛に関わる事です。

此の手紙には、単なる剣術家ではない斎藤弥九郎翁の真面目が見られます。

参考資料
『維新史料綱要』維新史料編纂事務局

伝書の用意(三)、宇都宮藩

前回に引き続き「伝書の用意」について。
今回は関連する史料を掲げます。


『居合剱術傳書四巻』個人蔵

江戸時代の後期かと思しき桐箱に収められています。おそらくは伝書の製作とあわせて誂えられたものでしょう。居合の”居”の字は、中が”立”の字に書かれており、居合と立合の意をあわせたのでしょうか。

各巻はこのように判・印を欠いています。
当初私は、この伝書が藩主へ披露するために作成されたのだと考えました、だから判・印を敢えて欠くのだと。
しかしそれが思い違いであることは間もなく分かりました。
その答えは忠恕公にあります。
渡邉量平が下野宇都宮藩の剣術師役であったことからして、忠恕公とは同藩の藩主戸田忠恕公のこと。公は天狗党の乱のとき責任を問われて藩主の座を退けられ隠居させられます。ときに18才。
こゝに掲げた伝書は、そのような出来事があったから未伝のまゝ保管されたのではないかと思い至りました。或いは、公が22才の若さで早逝する慶応4年5月までには戊辰戦争があり、そのごたごたがあった為に傳授が延期されたとも考えられます。こちらの方が有力かもしれませんね。すなわち、未伝の理由は披露のために作成されたからではなく、そういった藩主の事情によると見て良いのではないかと思います。

今回の「伝書の用意」というテーマに従えば、この未伝の伝書は藩主の側か師役の側かどちらが用意させたのか明らかにすべきですが、その手掛かりはなく果たせませんでした。

最後に、戸田忠恕公の武藝履歴というのは今日伝えられておらず、こゝに掲げた四巻によって忠恕公が直心影流・林崎甚助流居合の免許を相傳されるほど武藝を嗜まれていたことが明らかとなったのは幸いでした。ほかにも執行されていたのではないかと思います。

伝書の用意(二)、尾張藩

前回に引き続き、伝書の用意に関わる手紙です。
今回も弟子の側で伝書を用意しており、当時はひょっとすると弟子の側で伝書を用意することが珍しくはなかったのかもしれません。あるいは普通のことだったのか、誰も研究していないことですから、その辺の事情は確たることが分りません。

さて、手紙を認めたのは表具屋であり、山鹿流の傳書三巻の製作について述べています。書中、山鹿流云々とは触れられていませんが、元は伝書と同じ箱に入れて保存されていたのです。この伝書三巻は弘化・嘉永の年紀、巻子装、料紙は上下境界引、表具裂は無く昔は有ったのだろうと思います。
年紀に隔たりがある、しかしまとめて製作される。これは当時において、珍しいことではなかった筈です。というのも、そういった年紀の隔たりがあるにもかかわらず、装幀が同一のものを少なからず見かけるからです。

表具屋の仕事の範囲はどのようなものだったのでしょうか。
手紙を読むと「尚々被遣候御手本巻物壱巻御戻し申上候」の一文があることから、表具丈けの仕事ではなく、渡された手本に従って全て表具屋任せで製作されたことが分ります。その工賃は「壱巻ニ付代弐匁七分ツゝ」と、さほど高くはなかったようです。

次に伝書の製作を注文した桑原権之助という人物。この人は尾張藩の郷士にて、織田・徳川に仕えた由緒ある家柄、代々が桑原権之助の名乗りを世襲したそうです。
先述のとおり、この人は山鹿流の師範ではなく、山本多右衛門という軍学師範に学んでいました。



『森太兵衛書簡』個人蔵

桑原権之進様 表具師 森太兵衛
     御報

前書難有拝見仕候然者
巻物三巻御注文被下
難有奉存候壱巻ニ付
代弐匁七分ツゝニ而仕立
差上可申候當春も彼是
多忙罷在候間何連来月已後
ナラテハ出来不仕候間左様御承引
奉願上候先者右御報旁
恐々頓首

正月五日

尚々被遣候御手本巻物壱巻
御戻し申上候御落掌可被下候以上

伝書の用意(一)、姫路藩

姫路藩の初代藩主酒井忠恭公(古岳院)が無邊無極流鎗術を稽古していたおり、御相手を勤めていた平林儀助があやまって君の御手を強く痛め夥しい血が流れた。
この出来事があって皆が肝を冷やしていたところ、酒井忠恭公が公儀の鎗術師範 山本嘉兵衛へ「およそ稽古は少しも控えなく力量一杯に致さねば宜しからず、大方は控えめに致すゆえ大名藝と申して真のところは出来兼ねず、彼(平林儀助)がようなる向う見ずな者がいなければ私の稽古も上達しませぬ」と話した。
いかゞすべきかと恐れ入っていた平林儀助は、この御意を伝え聞き有り難いことだと思った。『姫陽秘鑑』

この逸話は、酒井忠恭公が無邊無極流を熱心に学んでいた当時の状況をよく伝えています。
また、次代の藩主酒井忠以公(超宗院)もまた公儀の山本嘉兵衛に師事し皆伝を伝授されました。

さて、こゝに紹介する手紙は、公儀の鎗術師範 山本嘉兵衛に宛て、用意した印可の巻物九巻に名前と判形を下さるよう願い、あわせて略儀であることを詫び、且つ神文も九通送った旨を述べたものです。但しこれは下書。
私はこの手紙を読むまで、傳書というものは師範の側で用意するのだと無意識に思い込んでいました。というのも、あまり斯ういったことは記録に残されないからです。
しかし調べてみると、姫路藩の御流儀である無邊無極流に関しては「御流儀鎗術印可被下置候節之事」という定があり、家中の士で鎗術印可のときは以来巻物を自前で拵えるべき旨が藩内に布達されていました。惣領分や御中小姓には代金壱両が藩より下されます。

 御流儀鎗術印可被下置候節之事
 一御家中之者槍印可被下置候節巻物以来自分ニ而拵可申
 候惣領分御中小性巻物代金宛被下置候旨被 仰付
 候段松平島図申渡之              集書



『金原浅右衛門書簡下書』個人蔵

 猶々向暑□□[之節]折角
 御自愛被遊候様ニ奉存候
 乍序時候御容躰も相伺
 申上候猶追〃對弁ニ申上候
 以上

一筆啓上仕候先以而暑
相募候得共益御勇健被為成
御座目出度御儀奉存候且亦
先達而御流義御鎗御傳授
被下候面〃今度御印可御巻物
相認候ニ付差上申候御名前
御判形被遊被下候様ニ仕度候勿論
巻数九通り遠路之儀ニも
御座候間入器一ツニ相包差上申候
略儀之段偏御用捨被下候様ニ
何茂宜申上呉候様呉〃申聞候
神文茂九通相添差上申候
何分可然様奉頼上候此段
為可申上捧愚札候恐惶謹

    金原浅右衛門
 月日     名前判

山 嘉兵衛様  宗豊(判)
   御披露


金原浅右衛門の名は、明治2年の『巳年増減替〆帳』によれば高二百六十石、幕末に海防のため出兵した藩兵名簿の頭取にもその名を見出せます。

卯可巻物を無事受け取ったものは、その御礼を認めました。これは下書です。


『河合五郎三郎書簡下書』個人蔵

一筆啓上仕候薄暑
之節益御勇健可被為成
御座恐悦奉存候此度
御流儀御印可御傳授
被成下右御巻物拝受仕
過分至極
難有仕合奉存候乍憚
右御禮為可申上捧愚札候
恐惶謹言

     河合五郎三郎

嘉兵衛様
   参人〃御中


この後、山本嘉兵衛は贈られた御肴代の御礼を認めた筈です。


話しは戻り、印可巻物を自前で拵えたときの史料が現存しています。傳書に書かれる人の画は、本来意味深いものでありますから門弟に任せず、師の側で作成すべきものであったと思われます。しかし、時代が下るにつれて形骸と化してしまい、門弟任せの伝書作成も行われるようになったのでしょう。尤も門弟の側も忠実に写そうと努めたらしく、下書の中には「十文字少先上げ認むべし」「鑓先少し下げ認むべし」「先生巻物切先上る」等の注意点を記した紙片も入れられています。


『無邊流印可下書』個人蔵

参考資料
『姫陽秘鑑』姫路市史編集室
『姫路藩家臣録』姫路市城郭研究室所蔵

伯耆流居合の伝書


『當流介錯口傳聞書』個人蔵

先日、『肥後熊本藩星野家文書』のうち『伯耆流居合免状』『當流居合傳授巻物之寫』『當流居合身之金意味聞書』『當流介錯口傳聞書』『居合兵法歌之書/應變之圖説』『自臨巻目録』『伯耆流居合目録』の翻刻が出来ました。
片山伯耆守の『伯耆流居合免状』は谷忠兵衛に傳授され、その後の経緯は不明ながら星野家の所蔵に帰す。
『當流居合傳授巻物之寫』『當流居合身之金意味聞書』『當流介錯口傳聞書』の三冊は、星野角右衛門が作成した天明二年九月の『先祖附』と紙が似ていることから、矢張り角右衛門の代に作成されたものだと思います。『當流居合傳授巻物之寫』は自身に傳授されたものでしょう、残念ながら原本の所在は明らかでなく、斯うして冩が現存していることは幸いでありました。
二代目星野龍助の代に「防州岩國 片山友猪之助方へ居合流儀筋問い合せのため自勘にて罷り越し、それぞれ相正し極意判物等も請け取り」と記録された極意判物が『居合兵法歌之書/應變之圖説』『自臨巻目録』のことです。

この伯耆流居合の翻刻を終えたところで、他家に所蔵されていた伯耆流の伝書が在ったことを思いだし、急遽翻刻を進めました。
これは寛文十二年十一月の伝書ゆえ、祖伯耆守よりさほどの年月を経ておらず、古体を留めている点、実に良き史料だと思います。

さて、星野家と追加した伯耆流の伝書のうち「當流居合序」を比較すると、若干の相違があることに気付きます。両者を見比べると、何を言いたいのか分り易いのではないでしょうか。
たとえば、寛文拾二壬子暦十一月吉日のものは「我不勝感激尓向上之一流」とある部分、寛保元辛酉歳十二月のものでは「我不勝感激授爾向上之一流」と記されています。爾=尓、「尓」と「授爾」、相手を指す「なんぢ」に後者は「授」が加えられています。よって、「我れ感激に勝へず、尓(なんぢ)向上の一流、能く之れを用いれば」と「我れ感激に勝へず、爾(なんぢ)に授く向上の一流、能く之れを用いれば」という様な違いが見られます。「授」の一字が有った方が分りやすいです。


「寛文拾二壬子暦十一月吉日」

夫當流居合謂者古今絶唱也
我從幼少有志於武道而雖學
他流之利方数百流目無決座中
勝負慶長元丙申暦正月擇吉日
良辰而清身正心而参籠愛宕
山七日七夜時夢中有一老僧来
推予枕子曰汝爲厲武道来于
茲嗚呼深哉有其志我不勝感
激尓向上之一流能用之則途中
受用縦雖逢異國之樊噲張良
其勝必況又於吾朝哉此叓可秘云云
言訖不見夢覺而思之誠如幼
夢中到今此儀一点更不違是
以傳之世人加之慶長十五年庚戌
中呂八日参内 禁中遂一巻
帝王云云即感其叓書伯耆二
字以賜予誠是天鑑無私者也
我此夢想之一流順行逆行得
大自在傳授門弟子可秘可保


「寛保元辛酉歳十二月」

夫當流居合謂古今絶唱也我従幼少在志於
武道而學他流之理方數百流因無決座中之
勝負慶長丙申年孟春撰吉日良辰七日
七夜参籠愛宕山云云寅時夢中有一老僧
来推予枕子曰汝為勵武道来茲嗚呼深哉
有其志矣我不勝感激授爾向上之一流克
用之則途中一更用譬雖遇異國樊噲張良
其勝必矣況又於我朝人乎此事可秘言畢
不見矣夢中至于今此儀一事更不違是以
傳之於世人加之慶長十五年庚戌中呂八日参
禁中遂一奏
帝王云則感其事書伯耆二字以賜予誠是
天鑑無私也余夢想一流順行逆得大自
在傳授之門弟子可秘可保


「他流之利方数百流目無決座中」「他流之理方數百流因無決座中」、「目」と「因」の違い、「目」は誤字か。


「寛文拾二壬子暦十一月吉日」

夫れ當流居合と謂うは古今絶唱なり。我れ幼少より武道に於いて志有り、而して他流の利方数百流目を學ぶと雖も、座中の勝負を決すこと無し。
慶長元丙申暦正月の吉日良辰を擇びて身を清め心を正して愛宕山に参籠す。七日七夜時夢中に有て一老僧来り推予す。枕子曰く「汝、武道に厲む爲于茲(ここ)に来る、嗚呼深き哉其の志有り、我れ感激に勝へず尓(なんぢ)向上の一流能く之れを用いれば、則ち途中受用、縦い異國の樊噲・張良に逢うと雖も其れ必ず勝つ、況んや又吾が朝に於いてをや。此の叓秘すべし云云
言い訖り見えず、夢と覺て之れを思う、誠に如幼夢中今此の儀に到り、一点更に違わず是れ以て世人に之れを傳え、加之(しかのみならず)慶長十五年庚戌暦中呂八日、禁中に参内し帝王に一巻を遂ぐ云云、即ち其の叓に感じ伯耆二字を書し以て予に賜う。誠に是れ天鑑無私というものなり。我が此の夢想の一流、順行逆行大自在を得る、傳授門弟子秘すべし保つべし。


「寛保元辛酉歳十二月」

夫れ当流の居合は謂く古今絶唱なり。我、幼少より志在り武道に於ける他流の理方数百流を学ぶ。因て座中の勝負を決すこと無し。慶長丙申[元]年孟春の吉日良辰七日を撰み、七夜参籠す愛宕山云云。寅ノ時夢中に有って一老僧来り推予す、枕子曰く「汝、為武道に勵む為茲に来る、嗚呼深き哉其の志有り、我れ感激に勝へず爾(なんぢ)に授く向上の一流、克く之れを用いれば、則ち途中一更用、譬えば異國の樊噲・張良に遭うと雖も、其の勝つこと必せり。況んや又我が朝人に於いてをや。此の事秘すべし」と言い畢り見えず。夢中于に至り、今此の儀一事更に違わず、是れ以て世人に之れを伝え、加之(しかのみならず)慶長十五年庚戌中呂八日、禁中に参り遂一帝王に奏す云。則ち其の事に感じ伯耆二字を書し以て予に賜う。誠に是れ天鑑無私なり。余の夢想一流は順行逆大自在を得る、傳授の門弟子は秘すべし保つべし。


斯ういった伝書を見るに、当時の人たちは師から相傳された伝書を全く其の侭写さず、その代その代の師範の宰領で何かしら文言を変化させる傾向があったように思います。こちらの表現の方が分りやすいだろうと親切心が働いた結果かもしれません。
「参内 禁中遂一巻 帝王云云
「参 禁中遂一奏 帝王云」
この部分は、一巻を遂げたのか、逐一奏したのか悩みます。「寛文拾二壬子暦十一月吉日」の方に従えば、居合の一切を披露仕遂げたと解することができ、「寛保元辛酉歳十二月」に従えば、流儀のことを逐一奏上したと解せます。或いは、単純に「巻」と「奏」を筆写のとき書き損じたように思いますが、どちらが正しいのか分りません。

扨々、両者の伝書は流祖の次代から別系に分れたとはいえ、文言におよそ差異が少なく、初代が与えた伝書はこの通りであったのだと察せられます。
 幼少より武道を志し他流の理方数百流を学ぶ、慶長元年愛宕山参籠、夢中向上の一流を授けられる、慶長十五年参内 帝王より伯耆の二字を賜る。
伯耆の二字を賜ったことから伯耆流と称したのでしょうか。なぜ伯耆なのか、いろいろと不思議です。

杉浦素水の書簡再編集

こゝ一ヶ月ほどかけて取り組んでいた「杉浦素水の書簡」の再編集がとりあえず完了しました。以前は年紀の特定をせず曖昧なまゝ放っていましたが、これではいけないと奮起し、今回は全く一から翻刻を打ち直し可能なかぎり年紀を特定しました。決して無理はせず憶測を除きその根拠を記しています。新たに史料が手に入れば、その都度加筆していこうと思います。

「杉浦素水の書簡」は『丹波綾部藩田口家文書』に属するもので、遠隔の門弟であったことが幸いし、まとまった形で保管されていたものです。この田口家は杉浦素水から五代下った九代目杉浦景高にも師事しており印可を相傳されているのですが、どういうわけか杉浦景高からの書簡は現存していません。散逸したか、あるいは失われてしまったようです。

「杉浦素水の書簡(白井勘右衛門・胤之書簡を含む)」には注目すべき点がいくつかあり、特に気になるのは1)傳授状況に関する記述と、2)師家の相続に関する記述です。1)印可を相傳されていなければ独立して弟子取りをし伝書を相傳することは出来ない、けれども中途の免許を相傳されていれば師家の名のもとに門弟を取り立て指南したり、師家の名によって伝書を相傳出来た。その辺りの機微が書面に表れていました。2)笠間藩の杉浦家は初代杉浦三郎太夫以来一刀流を継承しており、それを家業とする師家であったゝめ、跡継ぎを誰にすべきかというのは重大な問題でした。当主は大勢の門弟たちをも引き継ぐわけですから、普通の武士の代替りとは違って藩の対応も特別であったようです。そういった様子が書簡に記されています。

話しはかわり、相蘇一弘氏の著書『大塩平八郎書簡の研究』の一巻を読み終えました。原文に目を通し解説を読むたび、これほどの分析を実行した氏の偉業に感嘆せずにはいられませんでした。また、大塩平八郎とは斯ういう人物だったのかと、原文を読むにつけ面白く、一等印象に残っているのは先祖が東照神君ゟ拝領した弓の話しです。大塩平八郎は家柄・血筋というものに結構こだわりがあり、なかんずくそれを象徴する拝領の弓は一つの拠り所であったように思います。つまり、後に兵火をあげることになりますが、徳川家に異心を抱いてはいなかったのでしょうね。これから二巻三巻を読むのが楽しみです。

今日は午後から京都へ行き、古文書の修復を依頼してきました。今は繁忙期にて出来るのは数か月先とのこと。ほかにも丁寧な説明をうけ、そのなかで大型スキャナの話しに興味をひかれました。今度、屋敷図の修復とあわせて依頼してみようと思います。

さらに話しはかわり、『経武舘に於ける多宮流』が一通り出来ました。一度見返してみると幾つも間違いが見付かり、この様子だとまだまだ間違いがあるように思います。あと、若干の解説と写真を加えなければなりません。
藩校の管理下に入った生沼氏の多宮流は、学校よりさまざまな通達を受けます。文久二年ともなれば時勢容易ならずと武藝の慣習にも学校の意向が介入するようになります。たとえば、他流の稽古見学を許す、勝負稽古を推し進める、師範人・指引人への訓示などがそうです。また、より一層稽古に励んでいるものなどを藩が積極的に把握しようという動きも見られます。幕末に武藝がはたした役割の一つがこゝに表れており、面白いのではないでしょうか。

富士谷御杖の手紙、七神三段之圖


『富士谷御杖書簡』個人蔵

愈御安泰奉恭悦候
然者私
神学之圖かねてこしらへ
罷在候處弥成就仕
神道之奥區これ尓尽
申候即
七神三段之圖たて御座候
これを今晩持参仕候間
圖説仕候今夕ハ少し御用
御座候とも御繰合御出席
被遊可被下候誠ニこれ尓
つけ候而も
神道之妙理難有事ニ
御座候晩程寛〃御胸懐を
被開候半と乍憚奉存候
何卒大井氏なとも今夕ハ
せひ出席乍恐御申遣し
可被下候古事記一部
ミな此圖へはゐり申候
実ニ手の舞足のふむをも
しら寸御座候難有儀ニ
御座候右申上度萬事
晩刻と今日ハ暮を待申候以上

 十九日

山脇大國手  成元


この手紙には神道研究への熱意と悦びが溢れています。
「七神三段之圖」、これがいよいよ出来たので今晩持参して図説しよう、少し用事があっても繰り合わせて出席せよと強く勧めます。
手紙を認めたのは富士谷御杖と云う(成元とは御杖翁の実名のこと、このように實名を記すのは最も厚礼)江戸時代中ごろの学者にて、主に国学・国語学・神道・歌学を研究した人物としてその名が知られている。
現今それら数々の著書をまとめた『新編 富士谷御杖全集』が刊行されており、その中の『古事記 首』に「七神三段圖」が収められているようです。私はまだ見たことが無くはっきりとはしないものゝ、これすなわち文中の「七神三段之圖」そのものではないかと考えられます。

富士谷御杖翁は、もと皆川家の人にて皆川春洞の二男として生れました。彼の高名なる皆川淇園は御杖の実兄です。御杖翁は皆川家を出て柳川藩の富士谷氏を継いで富士谷千右衛門となり高二百石の禄を食みます。文政二年七月の侍帳のとき京詰でありました。
書中「何卒大井氏なとも今夕ハせひ出席乍恐御申遣し可被下候」と誘うように頼んだ大井氏とは、淇園・御杖の師たる大井蟻亭のことかもしれません。
宛先の山脇大國手というのは御杖翁の生没年と地理的な条件(書面は今夕の用事を知らせているから遠方とは考えられない)からして、醫師 山脇東海かと目星を付けています。山脇東洋の孫にあたり、父は山脇東門、東海自身も法眼に叙せられていることから、大國手の敬称は相応しいのです。
御杖翁と山脇東海のつながりは史料のうえに見出すことはできません、しかし書面を見るかぎり余程親しい間柄だったことが分ります。

掲載史料及び参考資料
『国文学大講座 第17』日本文学社
『国文学研究史』野村八良著