七月近況

7.11
炮術は諸流の中、殊の外説明が詳細と云いますか叮嚀であると云えます。
その所以は、距離・薬量・玉目などの数値を詳しく伝えることができ、亦筒の仕様に至るまでも筆舌に尽すことが出来たからでしょう。


『百目玉鉄炮の注文書付』個人蔵



『酒井平吉政房書簡 六月廿一日付』個人蔵

[端裏]高槻
     酒井氏 鉄炮装申付方
      書状

當十一日附貴札今廿一日
相届拝見仕候如仰不勝
天氣御座候得共御惣容様
被成御揃弥御安泰被成御座
奉恐喜候拙家何も無難
罷在候間乍憚貴意易
思召被下候先便様参り
差上け申候所御落手被下候由
御丁嚀被仰下彼是天氣
悪く延引罷成候
一堺表にて被仰付置候御筒
此節錐入相済申候由被仰下
錜の儀彼是先方より申候由
何れ錜込候はては相保不申候
力ためし相済候上にて抜き巣中
改候て其後相堅め申候様被仰付
可被下候何分鳶尾不被成候年重り候はゝ
臺本荒れ候間此段得と被仰付
可被下候
一筒の内掃除の節弁利も宜敷様
申居候由此儀は抜き不申候ても
随分宜敷御座候何分六匁玉以上の筒は
皆鳶尾留に御座候先方にて細工六つ
ヶ敷候故彼是と申候に哉何れ私儀近々
堺表松本宇兵衛方迄用事
御座候に付罷出候積り御座候間
其節にても御筒仕立拝見可仕と
奉存候
一御筒出来の上中り様筒先き
六間土臺にて壱寸の星出不申候様
尤も三放御打し可被成候先は
貴報可得貴意幸便御座候故
即刻如此御座候乍毎
乱筆御高免可被下候恐惶
謹言

 六月廿一日 酒井平吉

朝比奈與兵衛様
     御報

尚々御家内様方へも此節
御見廻宜被仰上可被下候奉存候

*文末「可被下候奉存候」は「可被下奉頼候」の誤りか。



『酒井平吉政房書簡別紙 六月廿一日付』個人蔵

中り様薬弐匁七分込

 (図:一寸角)───如此御座候

一先達而参上仕候節焔硝
取候もの漸此頃拙家へ参り候に付
委細承合候所何れにも土地
の様子見分無之ては相分り
不申様申居候に付近々より此地へ
参り候様の積り御座候貴地邊
御見せ被成候はゝ何時成共被仰
越可被下候尤手間賃の儀は一日銀三匁つゝ
其余三度支度の由に御座候右の段
乍序鳥渡申上置候早々以上

  廿一日   平吉

  與兵衛様


 〇
私は草書を覚えるために、くずし字の辞典を長らく使用してきました。但し、字を調べるためではなく、行書・草書の字形を覚える為です。

いつものように、辞典の見慣れない字を書き寫しているとき、勃然として疑念が生じました。もしかして江戸時代の古文書に見られる行書・草書と、この辞典に載っているものは違うのではないか?と。

気付くのが遅いと思われることでしょう。

別の辞典を引っ張り出してみると、この辞典に載っている字形は、どれもこれも見慣れたものばかりです。翻って、いつも使っている辞典の方は見慣れない字形が多く見られます。

つまり、私が見慣れた字形は所謂「和様(御家流)」、見慣れない方は「唐様」を多く含んでいた、と云うことでした。

今になって思えば、道理で見慣れない字が沢山載っているわけです。

7.10
昨日に続き、朝比奈氏に関わる書簡です。

朝比奈與兵衛は種ヶ嶋流の筒を注文し、酒井平吉は注文を受けて度々書簡を致す。



『酒井平吉政房書簡 四月十三日付』個人蔵

 [前欠]
 知仕候御様薬□□□

貴札忝致拝見[以下欠]
暖和相成御惣容様方愈御安全
の旨奉賀候誠に先頃は参上仕
寛々得拝顔殊に御馳走に預り
千万忝奉存候同伴も有之別而
御世話に相成右人も御禮私より宜
申上候様被申居候帰宅後早速
為御挨拶書状御差出可申の所
日々炮術用繁に付乍存今日は
今晩はと延引相成候内預御紙面
御返翰に罷成失礼の段御厚免
可被下候
一鋳筒の儀先達而御問合に付
百目玉筒鋳立の儀并入用凡積
御面談にて申上置候所此度委敷
申上候儀致承知則別紙相認
入御覧申候
一右鋳筒にて数打候儀被仰下
拙家傳来の小石火矢流と申は数放
候ても筒あつく相成申事無御座候
他流の金合と違錬金の傳殊の
外委敷候故様し候儀決而無之候
夫故玉飛等宜敷先日申上置候
鉄筒の如く鋳候事無御座候先は
右御報為可得貴意如此御座候
猶重便に申残候恐惶謹言

 四月十三日 酒井平吉

朝比奈與兵衛様
     御報

尚々御家内様付文の通御礼
宜被仰上候可被下候隠居何も御加筆
被下申聞候所千万忝猶又宜様
申聞候

一高三方焔硝御取寄被成候段是又
 奉承知候

一久三郎様への御状其砌御届申上候随分
 御安全に御勤未た被成御儀内も御影にて
 拝見久右衛門様久三郎様懸御目大慶
 奉存候猶委敷儀拝顔の節万々御咄
 可申上候早々以上




『酒井平吉政房書簡 二月四日付』個人蔵

去月十七日附の貴札當三日
相達拝見仕候如仰未餘寒
退兼候得共弥御安康被成
御座珍重奉存候私宅何も
無難罷在候乍慮外御安意
思召可被下候扨は旧冬堺表へ
鉄炮新張申付候名前の儀
御尋被下當方へ出入いたし候
鉄炮師松本宇兵衛山田
五兵衛両人罷越申候拙者より
申付候は宇兵衛にて御座候御用
御座候はゝ御地へ罷出候様可申
付候哉と奉存候直段の儀は
銃匁玉筒にて五両位か銀にて三百目
弐百七拾目位に御座候御注文書
御渡の節にて無之ては相知不申候
先大躰右の通是迄申付候直
段如此御座候左様御承知
可被下候私儀も近々には左海
表へ四五日滞留にて罷出可申
と奉存候若御問合御座候はゝ
其節にても可申聞候間鳥渡御申
越可被下候先は御報右の段
為可貴意如此御座候恐惶
謹言

 二月四日 酒井平吉

朝比奈與兵衛様
     御報

 尚々大寒折角御自愛専用
 奉存候御追帋の趣拝見仕候
 蝦夷地一件の儀段々風聞
 には諸家様へ被仰付候様承知仕
 候得共旦那へは何の御沙汰
 無御座候七堂濱御筒様も
 御座候由二挺程様し申候由
 當地にても噂共御座候御地と
 御同様と奉存候猶跡よりと有之
 如此御座候以上

7.9
今日は息抜きの古文書です。



『龜井弥六信喜書簡 四月十六日付』個人蔵

[端裏]午の歳

 尚々圓形の圖存出し次第に認申候
 候に付 圖の麁末は御用捨御推覧可被下候

 御木刀弐本出来差登せ
 申候御落手可被下候一本をは
 少し細く仕候
一太刀の寸法書付懸御目申候
 府生殿へ被進可被下候長短は
 人々の器量次第にて御座候
一圓形書付懸御目申候當流は
 足を十文字に踏み申候十文字に
 ふみ申候はゝ三角の躰に自然と
 成申候三角に成り不申候へは
 本覚の曲尺出来不申候
 陰本覚を能御工夫被成候得は
 當りは無御座候
一一本にて立とは敵へ向き候
 足は進み足に付ふみ付
 不申心にて御座候片足は
 行ましきと踏留め申候
 心にて御座候圓形の圖府生殿へ
 被進可被下候二枚の圖
 他へ御見せ被下間敷候
 
右の思召にて府生殿御稽古
御心被附可被進候勘太夫方へも
御見せ可被下候以上

 四月十六日   龜井弥六

 朝比奈頼母様


龜井弥六と云う人の詳伝は未だ見ざるも、派一刀流の師範にして、高弟溝口新五左衛門より数えて五代目に当り、諱は信喜であったことが判明しています。乃ち文面に記される所の木刀云々、圓形書付云々とは同流の話しであります。

朝比奈頼母[1698-1772]は狭山侯の重臣。物茂卿に学び頗る書史に通ず。言う所聴かざるなしと伝えられるほど、侯に重用されました。在職五十年にして致仕し養拙斎と號す、明和九年歿、齢七十五。このように『河内名流傳』は伝えています。

計算すると、元禄十一年生れ、正徳二年に近侍の職に就き、宝暦十一年前後に致仕、明和九年歿。
五代北条氏朝侯、六代北条氏貞侯、七代北条氏彦侯の時期に該当。五代北条氏朝侯は伊東一刀斎に学び一刀流の皆傳と伝えられています。

文中に云う「府生殿」は、知らなければ誰かの苗字かと思うところです。しかし、同家の史料を見ますと、朝比奈府生泰憲なる人物が、龜井先生より傳授された傳書[寳暦三年七月付]の控えを作成しており、朝比奈頼母の血縁だろうと察せられます。おそらくは嫡子でしょう。

朝比奈府生が控えた龜井先生の傳書は寳暦三年七月付、「圓形書付」は免状の段階、朝比奈頼母の致仕が宝暦十一年前後、致仕して養拙斎を称した年は明らかでない、つまり本書簡は寳暦から明和の間に認められたという処まで分ります。
そして、こゝに端裏の「午の歳」を合せれば、本書簡は宝暦十二壬午年に書かれたと判明します。傳書についてもう少し史料を見れば、推定:宝暦十二壬午年四月十六日付と言えそうです。



『免状』個人蔵

これが書中に云うところの「圓形書付」です。

扨て、朝比奈府生より五代前の祖、朝比奈泰俊は古藤田勘解由左衛門に一刀流の免許を傳授されたと記されています。古藤田は小田原時代の家来と註あり、朝比奈氏はこの代から一刀流を伝承していたようです。

7.8
七月の初旬は、是迄サイトに掲げてきた漢文訓読の訂正をしております。
というのも、訓読は歴史的仮名遣いで行う、そんな初歩も知らずに訓読を掲げてきたからです。

とはいえ、歴史的仮名遣いで行う筈の現代における訓読の作法を調べていると、句読点を打ち、濁点を加え、促音・拗音を小文字で表記しています。どうも言行一致しない、半端な訓読の姿勢には首を捻るほかありません。

句読点は打たねばさすがに読みづらい、という理由からそれは傍に置くとして、濁点を打ち、促音・拗音を小文字にしたら歴史的仮名遣いとは言えないだろうと思い、訓読の一連の作業は江戸時代の訓読を参考にして行うことにしました。

例せば斯うです。この訓読は吉田奥丞の訓点・仮名に従いました。


『一刀流兵法別傳天眞傳兵法真劒拂捨刀之巻』個人蔵

蓋し善人は好て天道に則り,不善人は偏に人巧に趨[をもむ]く,今の兵法學者必すや策勵して真空を凝らし,技を空機に任せ,其の支體を虚にし,其の神丹を實にし,天真を得るを以て其の樂を為するは則ち生を養ふ所以にして,余 常に誨[をし]ゆる所なり,學者空機を識らさるして技を其の私智に任せ,其の臂力を恃みすること,天道に反戻[はんれい]し,虐暴[きやくぼふ]を果すを以て術を得ると為するときは,則ち生を害する所以にして,余 常に戒むる所なり,方[まさ]に今傳ふる所真劒拂捨刀は唯天に全きを以て術と為するのみ,古に曰く,全きを得る者は昌[さか]んにして,全きを失ふ者は亡ふと,先師...


又は斯うです。


『楊心流柔説』個人蔵

柔術世に行われて尚し,平太左衛門武光信重,曽て其の術を仙兵衛大江義時に受く,義時初め關口流を學ふ,其の品件以て百數の多岐,傳受失すること易し,是に勞...


はたしてこれが最善なのか、今のところ確信はありませんが、とりあえずそのようにして順々に訓読を訂正して行きます。
斯うして出来た訓読文は、江戸時代の武道書の中にしばしば見受けらるゝものと似ており、違和感はさほど無いと思います。

*一部、史料の送り仮名・振り仮名に従って、濁点を加えることがあります。

 〇
進行が遅延している櫛渕家の史料は、八月に掲載することを予定しています。

 〇
読みたい書が山積しています。
史料の類いは、ぼんやりしていると次々に増え、一読んでいる間に十,二十増えるといった有り様。また、漢文に興味を覚えてからは、孫過庭の『書譜』、『唐宋八大家文読本』の中の曾鞏、『康有爲往来書信集』、『宋元明尺牘名品選』等を取りとめも無く読み散らしており、結局一つに集中できず、どうも能率のあがらぬこと甚だしいです。


『中国法書選 (38) 書譜;孫過庭』二玄社

『書譜』は漢文の勉強というよりも運筆の妙に感じ入り、書き冩していると愉快です。『唐宋八大家文読本』は訓点の打ち方がどうにも気に掛り遅々として進まず、順調に読んでいるのは『康有爲往来書信集』と『宋元明尺牘名品選』の二冊でしょうか。


『康有爲往来書信集』中国人民大学出版社

『康有爲往来書信集』を読み進めていると、否応なく簡体字を覚えなければなりません、お蔭で大躰覚えられました。訓読の方は、句読点が打たれている為簡単かなと思います。その点あまり勉強にはならないかもしれません、句読点の打ち方には注目です。主に見慣れない詞語を調べることに時間を費やします。

『宋元明尺牘名品選』は垂涎の逸品ばかりがおよそ原寸で載っており、現代に生れて良かったと実感します。

六月近況

6.29
『大江先生基業碑銘』や『藤田幽谷呈伯時先生書』に比べて、目下読み進めている尺牘は難読です。


『國島筈斎尺牘 致小竹篠崎賢丈』個人蔵

宏白有人与隣人語隣人又與其隣人語時々聞則畧不□隣人
隔土墻而直呼不顧人謂我狂宏知越子信久而小信知  賢丈亦久於
是乎有隔墻之聲而又如夫黄鳥宏自幽谷呼  賢丈已在為唯恐聲
之不相及焉亦唯陽春布和無鳥不鳴其鳴也求友聲之及不及又何自疑
也盖方今文明人皆欲盡其才以對膺焉故行者不遠千里遊道日廣
居者名都大邑坐致聲價是豈為聲之与遊不如此業不成也宏久
不能出一書且僻郷乏師友所謂逃空虚者聞人之足音而喜所以有隔
墻之聲也宏西遊不徧恵牚及奥羽而在江都有年其間事故為
崇所期不果遠家之後二十餘年向之所接宿儒名流多為古人其存
乎今者僅々也豈無人安和不有一見如舊識者也夫已有人而不来不
往無由相見則紙筆之末魚鴈之渺所頼是耳而又如夫明珠無固至
前人尚按剱況碔趺■石乎宏之於  賢丈會有隔墻之固庶哉
免按剱之怒也鳴乎  小竹賢丈人之在世幾何得其同志従其所
好又幾何宏徒俯仰乎世間年已過知命才益退學益癈歯髪
亦衰凡一身内外一無可言葉獨區々宿心未灰遂而  賢丈及此
唐突幸不深罪一恵回音継今通問左右

小竹篠崎賢丈
      侍史
               國島宏頓首再拝

    八月廿五日       (印)(印)

                   謹宣


 虫が少し舐めており、「分」「介」、或は「芥」。

 草冠に點・懸のような字と見えます。或は「蘇」。


宏白す,有る人隣人と語る,隣人又た其の隣人と語る,時々聞かは則ち畧[ほゝ]隣人不□,土墻を隔てゝ直に呼ふ,人は顧みす我を狂と謂ふ,宏知越子信久而小信知賢丈,亦た是に於て久し,隔墻の聲有りて又た夫れ黄鳥の如し,宏幽谷より賢丈を呼ふ,已に在りて唯恐聲の相及はさる為,焉[なん]そ亦唯陽春布和,鳥鳴かさる無きを其れ鳴や友を求むる聲の及ふや及はさるや,又何そ自らを疑はんや,盖し方今文明人は皆其の才を盡さんことを欲し,以て對膺す,故に行く者は千里を遠からすと道に遊ひ日に廣居する者,名都大邑に坐して聲價を致す,是豈為聲之与遊不如,此の業成らさらんや,宏久しく一書を出すこと能はす,且つ僻郷は師友に乏しく,所謂空虚に逃るゝこと人の足音を聞きて以てする所を喜ぶ,隔墻の聲有るや,宏西遊恵牚及ひ奥羽徧ねからす,而して江都に在りて年有り,其の間事とす,故に為崇期す所果せす,家を遠くして後ち二十餘年,向ふ所宿儒・名流に接すること多し,古人の為其の存[み]るや,今者僅々なり,豈無人安和,一見有らすして舊の如く識るものや,夫れ已に人有りて来す往かす,由無く相見れは則ち紙筆の末た魚鴈の渺所[音信断絶の比喩]ならず,是れのみを頼みて又た夫れ明珠の如く,固より前人に至るもの無し,尚を按剱し況んや碔趺[又は珷玞,似玉石]■石乎,宏の賢丈に於いて隔墻有りて會ふ,固庶哉,按剱の怒を免すや,鳴乎,小竹賢丈人の世に在りて何を幾[こひねか]ふや,其の同志を得て其の所に従ふを好む,又た何を幾[こひねか]ふや,宏徒らに俯仰するや,世間年已に過き命才益退學し益歯髪を廢すを知る,亦た凡そ一身衰へ内外一つも言葉に可なるもの無く,獨り區々として宿心は未た灰ならす,遂にして賢丈へ此に唐突に及ふ,幸ひ一恵の罪深からす,回音を今通に継ぎて左右を問ふ


文意を理解できない處は原文の侭です。

「隣人語る」「隔墻の聲」「友を求むる聲」、「方今文明人は皆其の才を盡さんことを欲す」「宏久しく一書を出すこと能はす」「僻郷は師友に乏し」「隔墻の聲有るや,宏西遊」「江都に在りて年有り」、「期す所果せす,家を遠くして後ち二十餘年」、既に舊知の人々とは音信途絶え、自らの衰えを感じる日々、無聊を託つ國島筈斎は舊知の篠崎小竹へ唐突に一書を呈したと云うことでしょうか。

「宏」と云うのは國島筈斎の諱です。號を書くのは失礼に当るので、本名を書くのが当時の作法です。通称が普通で、諱は厚禮、號は人によっては用いるといった印象です。もちろんそういった作法に頓着しない人も少なからずいたことでしょう。

國島筈斎より少し時代は下り、学者の芳野金陵が書中に語るところを引きますと、「人に贈候書柬[書翰]其外は皆名を相認候様可被成候,師友に号を認候事失礼に相當候御心得可被成候」、斯ういった忠告を相手にしています。何もこの記述に拠らずとも、実際の書簡を見て居れば成程合點のいくことです。

6.28
漢文の読解は、なんとなく古文書とは関係が無さそうです。しかし、古文書を読んでいると、漢文の読解が避けては通れない壁として立ちはだかることがしばしばあります。


『一刀流目録』個人蔵

武術の古文書に関していえば、漢文はしばしばどころか、頻りと現われて読解を阻みます。
それでも、短文であればどうにか誤魔化して体裁を整えることが出来ますが、前にサイトに掲げた『楊心流柔説』と『大江先生基業碑銘』は誤魔化し得ず、ずいぶんと腑甲斐無い訓読を晒すことゝなりました。

取り敢えず、原文は其の侭掲げており、これさえあれば間違いはなく、あとはまったく蛇足と思いつゝも、少しでも分り易ければと思い訓読を掲げることにした次第です。

然れどもその後、漢文を疎んずるの念慮を捨て置かれず、やはり此の侭ではいけないと本腰を入れて訓読に励むことにしました。

長らく更新が滞ったのはこの為です。

およそ二ヶ月でしょうか、思考錯誤をくりかえし、漢文が苦手という意識はやゝ薄らいだように感じます。尤も読解の技倆は一朝一夕に上達するものではないようです。

 〇
頃日は藤田幽谷翁の意見書?草稿を読んでおりました。




『藤田幽谷呈伯時先生書』個人蔵

文面に随えば、これは幽谷翁が立原翠軒翁に入門して五年後、すなわち天明八年十五歳のときの筆です。

何を述べているのかといえば、師へ日頃の恩を謝し、我が身をへりくだり、話しは本書の主旨『大日本史』の現状に及び、續史の必要を述べ、館庫に収められた書籍を制約なく読むことで續史を脩めたいと願っています。

訓読してみましょう。


伯時[立原翠軒]先生に呈するの書

小子一正,門下に業を受くこと茲に五年,先生教育の恩は大にして且つ深し,悉く之れを數ふれは則ち喙[くちはし]三尺有ることを願ふ,而して鹵莽滅裂[事を做すに草率粗疏]の性は時雨の化有ると雖も苗にして秀てす,故に學術に於ては芒々然,其の為す所を知らす,宋人其の苗の長せすして之れを揠[ぬ]く者を閔[うれ]ふか如く有り,毎に孔子を慕ふ,所謂狂者なり,嘐々然,古の人曰く古の人は狂簡を進みて取り言行を顧みす,何そ傷まんや,唯■■■■■受くのみ, 今茲春 先生の薦擧を頼み彰考館諸君子の後より得て遊ふ,小子の栄甚た莫し,焉[すなわ]ち時[これ]より厥[その]後,忽々にして五月を踰ゆ,毫釐の事業無し,以て先生に告くるへきものなり,然れは則ち一口の俸微かなるかな素餐のみと雖も,何そ以て先生に見[まみ]えて面白きか,然りと雖も小子竊かに思ふ所有りて,其の言の出てされは耻[はし]は其れこの躬に及はさるなり,夫れ彰考館は西山公の脩史を為す所として設くるなり,所謂「彰往考来」是れに於てをや在り,異邦の書は置きて論せす 本館蔵書の富は凡そ以て可なり,國史の採擇をする者の為,家乘[家譜]・野史及ひ雜説の書に至るまて咸備せさる莫し,當時諸先生相與し之れを抽んてゝ大日本史應永の歳を脩めて絶筆す,若し其の後事とすれは則ち諸讀編を附さん,○今や大日本史は志書と雖も未た記傳は就[な]らす,既に本館の士各其の先生と鈴木冨田二先生を得て,之れを惣裁と成さは則ち其の成功企足して待つへきなり,小子の如き者は實に本館の贅瘤たり, 何を以て明公進擢の恩・先生薦擧の意に報ひんや 盖し本館諸君子の以て先務と為す所は前史の志書に在りて未た逞しからさる續編なり,曩曰[往日]宿儒[声望ある博学の士]潜鋒[栗山潜鋒]先生有ると雖も,倭史後編厪々乎數巻あるのみ,且つ其の書は評論多く居りて事實を略す,亦敏感ならす,應永而来三百有歳,其の事の錯誤盖し鮮[すくな]からす,而して其の闕文に及ふこと亦多きや,豈に淺見寡聞,能く撰定する所ならんや,疑ふらくは則ち疑しきを傳ふ,以て龍門子の教へに従ひ,亦何そ傷まんや,或は日本史の作に曰く,大義の在る所昭々乎日月の如し,之れに續く者は蛇足なり,小子以為[おもへらく]然らすんは春秋聖人の筆削する所至れり盡せり,以て加ふへからす,然れとも子長史記を作らされは則ち白周以後の事は殞滅す,史記は良史なり,然るに孟堅漢書を作らされは則ち西漢の事は傳はらす,可ならんや,可ならんや,是れ小子竊かに續史を脩めんと欲する所なり,故に毎に本館に入り文庫の書を取りて之れを閲[けみ]す, 應永以来の事を纂録せんと欲す 而して其の書の多くは固より一見能く盡す所一閲能く記す所に非さるなり,且つ本館の故事は総裁の席事に非されは則ち借書三部を過きすして,本を写さんとすれは則ち之れを許さす,大率[おゝむね]史傳の取る所は家乘に在るを信とす,家乘は写本多し印行は少なし,宿志は之れ厚からさるを恐る, 亦脩史の大業や我未た之くの如く達成せす,未た期すへからさるなり 亦是れに於てをや,小子の言は耻[はし]に遑[いとま]あらす,其れこの躬に及はさるして先生に伏願し小子の 僭妄を責めす 進取に假借を得す,以為[おもへらく]狂童故に態と小子をして館庫の諸書を閲[けみ]せしむれは則ち幸いなること甚し,敢へて所望し敢へて腹心を布くに非さらんや。
 五月三十日   門弟藤田一正再拝


本文十一行目「可以告先生者也,然則一口之俸雖微乎素餐而已何面白以見於先生乎」

草稿の性質ゆえか私の無力ゆえか、文意を理解できず、すっきりと訓読できないところです。


こゝは見たまゝ記すと「唯受不朽發[或は叟]態[或は然]成[或は来]旨耳」。
「たゞ~のみ」の中身が判読できずお手上げです。

  

 

「本館蔵書之冨凡可以為」
「名子楚於禮儀青山」
「亦不敏感焉」
「宿志恐不厚之 我末如之達 亦脩史大業也其」
「成未可期也」 よく見ると最後に「也」が潜んでいます。

訂正された箇所は細字の草書で書かれており、抹消線と相俟って実に判読し難いです。


一見すると読み難いように感じる漢文であっても、一語一語を調べていけば、自ずから文意を理解でき、読み方もなんとなく判る、と云う手応えが最近の収穫です。

四月近況

4.7
この頃は不争軒史料に掛りきりです。
史料五冊のページは既に出来ており、あとは不争軒に関するページが出来れば掲げられます。

一橋慶喜公の動向を追っていると段々分ってきましたが、禁門の変が起るちょっと前に、不争軒が江戸へ戻ったのは實に悔やまれることでありました。御番方として活躍する絶好の機会に居合わせず、その後の京都に於ける一橋家の軍制改革からも外れてしまいます。そもそも江戸へ戻ったのは諸士撰御用を仰せ付かった為でしたから、そんなことを云っても詮無いのですが、この諸士撰御用が不首尾に終ったものですから余計に残念であります。

4.3
休日の川端通には花見をする人々が沢山居り、何やらその陽気につられて春だなと実感します。

三月の下旬はやゝ体調を崩していまい、しばらく休んでおりました。そろそろ活動を再開します。

三月近況

3.19
楊心流の史料を読んで以来、勘を頼りに書き下しているようではいけないと思い、一から漢文を勉強しております。

こゝで問題となるのは、江戸時代と現代の訓読法の相違です。時代を隔てゝいますので、やはり若干違うようです。適当な教材を知らないので、取り敢えずは江戸時代の文献を参考にして、一つ一つ拾ってみようと思います。

また、一口に江戸時代と云っても、学派によって訓読法が少し丈け違います。この点も考慮すれば、いかにもおもしろい課題となりそうです。

『大學』

 

 左:道春點 「先後する所を知るときは則(すなわ)ち道に近し」

 右:後藤點 「先後する所を知れば則(すなわち)道に近し」

武藝の書物を読んでいると、「則」が来れば「ときは」と読ませることが多いように思います。

古くは「ときんば」、次いで「ときは」、そして「れば・せば」と訓読にも変化があったようです。

傳書の成立年代を考えれば、「ときは」の方が多いのかもしれません。また、中には「すなわち」の読みを省略したものを見ます。

この辺は特徴が有り分りやすいのですが、置き字の扱いとなるや実に複雑です。

3.15
楊心流の史料二つを読み終えて、漢文に対する苦手意識が少し和らぎました。
しかし、未だ漢文と云うものがよく分っていません。ほゞ勘を頼りに読んでいます。分らないところは分らないまゝです。

昔の人のように、膨大な漢籍を読まなければ成らないかもしれません。

 「微壺餐之賜吾其土乎」
 「壺餐の賜なかりせば、吾、其の土か」

何を言っているのか分らないところです。

 「勉哉勿懈因為之説塞其所需云」
 「勉めや懈る勿れ、因て之が説塞を為して其の需むる所に云う」

言いたいことは分るのですが、こゝは語順が分らず、意味の通りそうな順に並べました。

3.7

曾て九條邸が在った処から、
御所を拝す。

 〇
先日少し触れた揚心流の『柔説』、漢文素人の私には荷の重い史料ですが何とか読み終えました。
書き下しは誤読に目を瞑り、なんとなく雰囲気が伝われば、と思い付け加えてあります。

3.3
江戸時代、頻りと目にする「金百疋」は「金一分」相当、「金弐百疋」は「金弐分」に相当します。
相当、と云う言葉を使ったのは、「金~疋」と書かゝれた包紙に入ってるのが「一分銀」であったりするからです。


『一分銀』個人蔵

たとえば、左の「弐分金」であれば「金弐百疋」、右の「弐朱金」二枚で「金百疋」です。


『二分金』『二朱金』個人蔵

「二分金」と左の「二朱金」には包紙に貼られていた名残り、糊が附着しています。

史料を見ている丈けでは、なんとなく実感に欠けるので購入しました。二分金は、簡単に調べてみると、従来は明治二分金だと信じられていたところ、本当は万延二分金ではないかと現在見直されている「止め分」です。現存数が多いのです。
あまり関係ありませんが、二代目宣猶の記録、天保六年九月二日の項に「真字弐分金通用御停止」の通達が書かれています。

「二朱金」はうっかりすると失くしそうなぐらい小さいです。万延二朱金です、天保二朱金の二分の一の重さです。

あとで探してみると、天保二朱金も出てきました。


『二朱金』個人蔵

並べてみると、少し厚みがあり大きいです。左:万延二朱金 右:天保二朱金
この万延二朱金二枚は、「金 百疋」と書かれた包紙に貼り付けられた侭です。

天保十三年に剣術師範が未使用の傳書を買ったとき「三枚継緞子巻物一巻」に「一朱」を払っています。「二朱金」であれば二巻買えた訣です。

また、神道一心流に入門する者たちが納めた入門金の下限が「一朱」でありました。
儀礼的なものですから、あまり金銭の多寡は問題でなかったと思いますけれども、壱朱が最低限の礼儀であったのかもしれません。入門金は、およそ壱分から弐朱が最も多く見られます。

あと、二代目宣猶の長男長次郎は、一ヶ月に「一朱」の小遣いを貰っていました。但し、もう少し多いときもあります。

一方、傳授を承けたあとに納める傳授謝礼は、「弐分」が妥当であったようです。切紙・目録・免許を問わずこの額が多く、慣例だったと察せられます。

一橋の殿様へ、櫛渕氏が武術を披露したあとに「郡内縞壱反代」として下されたのも「金弐分」でありました。

二月近況

2.28
翻刻したい史料が山積しております。

就中、林大學頭の懇望に依て書き示された『柔説』、大江仙兵衛の事跡を伝える『大江先生基業碑銘』の両書が白眉であります。
どちらも大江仙兵衛が関口流を学んだことが記されており、『基業碑銘』に於いては関口柔心に学んだとの話です。

「大江君義時通呼仙兵衛肥前佐賀人也善手搏師事關口柔心勉彊不息殆廢寝食自命其術曰楊心流」

この両書には、彼の秋山四郎兵衛に関する記述が一言も見当たらず、大江仙兵衛が楊心流を称したとの記述で一致しています。

2.19
神道一心流の二代目宣猶の時の金銀出納帳面より、武藝に関する項目を抽出。幾つかの発見がありました。たとえば、薙刀の門人に女人がいたとは知りませんでした。また、上州利根郡下川田村・今井村と云った在所からの入門金や傳授の謝礼が届けられている点に目を引かれました。あとは傳書の用意についてゞす。

天保十二年
七月四日  金弐朱  上刕群馬郡中山村林若狭取立入門金、美濃吉・与太夫
十月五日  壱朱   石岡庄次郎入門に付
十月五日  三朱   稽古始入用

天保十三年
正月廿六日 金弐両壱分弐朱  御厩稽古始に付入門并外より祝義
二月朔日  三朱   御厩稽古神文金
三月二日  金弐分  薙刀御覧相勤候に付被下之
三月二日  金弐朱  武術御覧打太刀相勤候に付長次郎へ遣す
三月二日  金壱朱  武術御覧相勤候に付拝領物被仰付表坊主へ祝儀として
三月六日  弐朱   近藤徳太郎・同与五郎入門に付
三月廿四日 入門金弐分弐朱  和平司・深代徳右衛門出府 深代取立、下川田村・今井村
三月廿四日 金弐分  目録・哥目録傳授謝礼、和平司より受取
三月廿六日 金弐朱  高野清女薙刀入門に付
四月朔日  金壱朱  都甲ぎん女薙刀入門に付
四月朔日  金壱朱  塚田すま女
五月    壱朱   入門板垣玄貞
七月十五日 三両弐分壱朱  中元祝儀門人中より
九月六日  弐朱   入門浅見猪之助
十月十三日 弐分壱朱 緞子巻物九巻
十月    壱分   三枚継緞子巻物四巻、一巻壱朱つゝ
十月    百六十文 小奉書十三枚
十月    三十九文 帖入十三枚
十月    廿六文  水引十三把
十月    六十四文 朱肉練り直し
十月廿六日 百六十文 備十三居
十月廿六日 神酒   一合
十一月五日 金壱両弐分  御厩三人より馬場籠蔵を以去る廿六日哥目録傳授謝礼持参候事
十一月十三日 四朱  金入巻物弐枚継、青梅や
十二月十六日 壱貫百四十文 御厩稽古納に付餅菓子一人へ七つつゝ数二百丸やへ申付る
十二月廿八日 弐両弐分壱朱と四百文其外共  諸門人より歳暮祝儀

こゝには記していませんが、天保十二年は道場移転につき諸費用が随分と列挙されており見どころです。
このほかには装身具、着物や佩刀の入用を見ると、宣猶と子の長次郎がどのような着物であったか、どんな拵の刀を差していたのか何となく分ります。

宣猶を例に出すと、
刀の鞘は虫食塗(壱朱と百廿四文)、脇指の柄は片手巻(弐朱と百文)。また、小柄・下緒(三百三十二文)を買っていることから、刀か脇指の鞘には小柄を差していた様子。

着物は下記の如く記録されています。元から持っている着物もあるでしょうから、これだけでは何とも言えないですが、少しく傾向は見て取れそうです。思いのほか頻繁に買っています。

天保十二年
正月  素袍(三朱)
    縞袷羽織(壱分壱朱)
閏正月 太織縞羽織、太織御納戸小袖
二月  御納戸太織小袖(壱分)
三月  紙布夜着(壱分壱朱)
四月  藍縞袷羽織・藍縞袷長着(壱分壱朱二百文)
    紬単物(三朱と三百九十二文)
五月  絽羽織・かすり湯衣(三朱と弐百)
    肩衣(弐朱)
    縮縞帷子(壱分)
    紋付帷子(弐朱と二百四十八文)
六月  縮縞帷子・薩摩帷子(壱分)
    紋絽帷子(壱分)
八月  縮縞帷子二・晒丸二つ帷子一(壱分弐百文)
    紬縞単物(三朱弐百文)
    木綿袷二・藍縞羽織・太織御納戸
    肩衣昌平紋
九月  秩父絹裾廻し切七尺五寸(七百四十文)
十一月 肩衣(金壱分)
    湯衣二つ(壱分)
    革足袋(七百文)

天保十三年
二月  紬紋付(壱分弐朱と壱朱)
四月  紬単もの(壱分三百文)
六月  裏革草履(壱朱)
    袴
八月  夏袴二行と帷子二つ(三朱)
九月  薩摩帷子(三百文)
    夏袴(五百文)
十月  羅紗男帯(三百文)
十二月 素袍・長上下(金壱分)
    虎はく男帯(七百文)

息子長次郎の分はそうだと書いてありますので、これは宣猶自身が着用する衣服でしょう。普段着と平常勤務用、それと殿中にて着用する改まった着物があったのだろうかと想像します。

天保十二,十三年丈けでも結構な情報が得られますので、あと十数年分の記録を見れば相当な情報が得られる筈です。

支払いは、反物を購入し仕立てに出すとき支払うのか、出来上ってから支払っているのか定かではありません。江戸時代のことですから、仕立てに出してからさほど時日は掛らなかったと思われます。

2.16
今年に入ってから、はや一ヶ月餘が経ちました。
翻刻に次ぐ翻刻の日々で、本を読んだり、草書を眺める時間が減っております。
然れども、翻刻に没頭していると、是まで気付かなかった己の盲点が見えるようになってきました。

たとえば、「頃」「比」の草書です。本来「比」とすべきところを、迂闊にも「頃」と翻刻したことが幾度かあったと記憶しています。大しくじりです、今更すべてを見直すのは大変な手間です。

それと、「奉存候」「被存候」は改めて考えると判別の微妙なところです。執筆者にもよりけりですが、大幅に省略されるともうお手上げです。

あと、「之」か「候」なのかという実に悩む、と云うかどうあっても判別出来ぬということがしばしばあります。是も又、執筆者の書き癖で、誰もがそうではないのですが、「候」へと続ける余韻が長く垂れて「之」に見える場合、「之」と読んでも正しいときは手詰まりです。

これはきっと誰もが悩むと思われるのは、「候に付」の「に付」「候付」の変化です。定形だから筆が飛んで縮まっているのか、態と略しているのか、「候」と「ニ」の判別は最早本人に聞かなければ分らないのではないか、という気さえします。不争軒日記をずっと読んでいると気付きました。この人は丁寧に書く人で、きっちりと「候に付」と三文字が識別できるように書くのが普通です。ところが、何かの拍子に筆が飛ぶのかして「に付」「候付」といった具合に二文字しか書かぬことがあります。でもきっとこれは「候に付」の積りで書いているなと分る訣です。翻刻するとき、勝手に一文字補って三文字にするわけにはいきませんが、そうすると、「ニ」とも「候」とも見えるたゞの点をどちらの扱いにすべきなのか困ります。一流の翻刻家?はどのように処理しているのでしょうか。

不争軒日記の中で、「刀之助」という人名が数度登場します。これについて、当時「刀」か「力」かと他人から問い合わせられた紙面が残っておりました。「刀之助」と書かれていますが実は「力之助」が正しいようです。しかし、はっきりと「刀」と書かれているものですから、翻刻するときはどうすれば良いのだろう、と頭をかゝえます。

 〇 雑感
「者(は)」「茂(も)」「而(て)」「越(を)」など、平仮名扱いの文字を漢字表記で翻刻するのはどうなのでしょう?
しばしば本を読んでいると見掛けるのですが、これらの平仮名を漢字表記で翻刻しているにも関わらず、「可(か)」「多(た)」「堂(た)」「久(く)」「里(り)」「毛(も)」「利(り)」「奈(な)」「不(ふ)」等の平仮名を漢字表記にせず平仮名表記にする、その差はどこからくるのかという違和感を覚えます。素より基準は無いので各人の翻刻に拠るわけですが、平仮名・漢字の表記を分ける理由が見た目の問題なのだとすれば、その線引きは極めて曖昧でありますし、読み易さを考えるならば平仮名はすべて平仮名表記した方が良いとも思います。

2.13
汝を顧みるにかたちは人に似て、目に見る事なく、耳にきくことなく、鼻に嗅ぐ事なく、口に云う事なく、本より七情の氣もなく、唯茫然として立ぬ、そも汝が名はいかに

 有とすればなし又なしとすればある 月だにうとき夜半の影法師

ある時、井鳥景雲翁 建部流雲に謂いて曰く、吾子は師役なり、今当国の武術盛んに行われるは、他国他流の人来りて師役と仕合試みを望む者ありて、吾子これに当らば真剣の勝負と心を決すべし、遠慮会釈すべからず
徹上徹下克ち尽すべし、半上落下にして置くべからず、然らざれば彼立直して二の目を打つことあり

また、当流は上段より打つものと人多くおもえり、仕合試みを為す者は必ず上を防ぐべし、然るに我が流義の主なれば、上より打ちてその勝負に関わらずと云うは、愚昧の至りなり、上を専ら防がば腹心を指すべし、猶その機に応ずべし、一々死法を立て守るべからず


今日は『史料輯録』を更新しました。サイトの更新は久しぶりのことです。『史料輯録』に於いて紹介したい書簡は山のようにあるのですが、今一つ周辺情報足らずに保留となっています。今回は、一雲翁か景雲翁のどちらを載せようかと悩み、しかし一雲翁の書簡は読みが万全ではないので止めにし、景雲翁にしました。

書簡の類いは是迄に数多く目にしてきましたが、一雲翁の書風は格別の風韻を具えています。御家流に何かゞ混ざっている様です。

2.11
今日も神道一心流の道場移転を、江戸切絵図にて辿っておりました。初代虚中軒が小川町において稽古を始めてから、三代目不争軒の時までに八度、道場は移転されました。最後の地は牛込山伏町で、こゝは現在 市谷小学校がある場所です。天然理心流の道場があった甲良屋敷とは目と鼻の先です。

また、曾て道場があった下谷御徒町・下谷山下八軒町・下谷三味線堀は、東叡山寛永寺の目の前にあり、後に徳川慶喜公が大政を奉還し謹慎した大慈院があり、更に少しゝて上野戦争があった場所でもありますから、一橋家の臣たる櫛渕家には縁の深い土地です。

この下谷の辺りに一橋の御屋敷は無さそうなのですが、どうしてこの地に道場を構えたのでしょうか。二度目に移転した小川町広小路は御屋敷から程近く納得です。しかし、また下谷に戻ります。七、八度目に移転して道場の在った牛込は一橋の御屋敷に囲まれているので、こゝは便利だったろうと思います。

二代目宣猶が九死に一生の病に罹り、遺言書(天保八年五十八歳のとき)まで認めたのは谷中の三崎町に居たときでした。こゝは東叡山寛永寺の北西、奥まった所にあり、下谷よりも随分と不便そうな場所です。宣猶は遺言書の中で、次男長次郎に対し長唄・三味線などの遊藝に走り大小さえ差さずに外出する近辺安御家人の真似を決してするなとか、辺鄙なところで稽古に来る者もいないなどゝ、こゝの風俗の悪しきことを散々に愚痴っており、よほど気に入らなかった様子です。

なぜそんな辺鄙な処に移転したのかといえば、例の薗原騒動にて外聞を失い、人氣の無いこの地へ越してきた訣です。実に多難、不遇の時期でありました。

薗原騒動で引っ込んだ谷中三崎町の時期は金子にも窮乏しており、後ちに牛込へと移転したのが九年近く後のことですから、宣猶は土地の風俗を嫌いながらも身動きが取れなかった様です。その当時、「暮し方も直り金子が出来たなら、方角を吟味し、今少し繁華の地へ引き移り道場を建て、稽古して呉れるよう頼む、其の許(次男長次郎)の祖父様が開いた神道一心流をなにとぞ後世へ残し弘めて呉れ」と遺言しておりました。
結局、宣猶は病から立ち直り、自ら牛込移転を果しました。土地の世話をして呉れたのは、牛込近所の一橋邸の人です。

2.7
不争軒史料五冊目の翻刻を終えました。次いで不争軒のページを作り始め、もうしばらく日数が掛りそうです。

2.3
安政の大獄によって謹慎中の一橋慶喜公御詠。

  皆人のうかるゝ頃に我は只 獨物うき春にそ有ける

  なみた川水増にけり春の日に 結ふ氷のいつか解なん

不争軒の日記、安政七年二月十七日の項に録されていました。
慶喜公の謹慎は同年九月四日に解かれるのですが、この御詠のころは鬱屈として前途に希望を持てなかった様子です。

 〇
不争軒の門弟にて免許を相傳された志田純一郎という人物がいます。この人は不争軒が支配する組の士であり、神道一心流の教授方も勤めており、日記には頻りとその名が見られます。不争軒と行動を共にすることが多く、また代理で書類の申請をするなど、とても頼りにされていた人物と察せられます。追々出世して、御一新のころは不争軒と同じく教衛隊の頭取へと進みました。
今日、日記を読んでいて、ふとネットで検索してみると志田鉀太郎の実父であることが分りました。鉀太郎が生れた日は、不争軒の日記にも記録されています。

2.1
近況と題し乍ら、今年に入ってから更新が滞っております。
というのも目下、櫛渕不争軒の史料翻刻に力を尽しており、且つ過日体調を崩し、いよいよ滞っている次第です。

翻刻している史料は思いのほか多く、史料四冊の翻刻を終え、内三冊の校正を終えたところです。もうしばらく時が掛りそうです。

 〇
神道一心流といえば、やはり初代の虚中軒が有名であります。しかし、その英名に隠れたものか史料が乏しいためか、三代目の不争軒を知る人は少ないでしょう。私はそれが残念でなりません。

三代目不争軒は、文政二年二代目宣猶の次男として生れ、一橋慶喜公・一橋茂栄公に仕え、明治二年卒中のため急逝しました。櫛渕家は初代以来、番方(武官)の家でありましたが、泰平の世であった為、初・二代のころは番方として活躍する機会は得られなかったようです。しかし、追々幕末になると世上騒然となり、主君が彼の慶喜公であったこともあり、櫛渕家も番方の本分たる御警衛などに忙しくなって行きます。この辺りの情況が、不争軒の史料には如実に現われており、面白いのではないかと思います。惜しむらくは、御一新を迎えて間も無く、不争軒が世を去ってしまったことです。亡くなる直前は一橋家の教衛隊二番隊頭取を勤めておりましたから、存命であればきっと何かしら活躍したのではないかと思います。

 〇
不争軒が在京していたころの日記には、新撰組の近藤勇や沖田総司が登場します。なにほどの記述もありませんが、両者と会ったことや、餞別に酒を送ったことなどが記されています。以前から知り合いであったのかもしれません。
不争軒の道場は牛込早稲田に在り、安政六年の類焼による移転後は牛込山伏町に在りました。
どちらにしても、天然理心流の道場があったとされる甲良屋敷と間近でありましたから、両者に面識があったとしても不思議ではありません。また、片山庄左衛門とは舊知であったらしく、この人が上刕高崎の蓮雀町平野方に寄寓していた際の住所や、壬生新徳寺に寄寓していた際の住所が夫々の日記に控えられています。

 〇
このほか、渋沢成一郎や渋沢栄一といった、後ちに名を成す人たちも少しだけ登場します。不争軒が鎗釼見分御用・諸士撰を仰せ付かって江戸へ舞い戻った少し後に、渋沢両人も人撰御用を仰せ付かって江戸に下ってきます。その時、渋沢両人を他の人へ引き合わせたり、宿所の手配に関わったりします。渋沢両人を引き立てた平岡圓四郎も度々登場します。

また、ほとんど名を知られていないながら、当時討幕を画策していた脇坂圓蔵の名がしばしば見られます。圓蔵は元刈谷藩士、久坂玄瑞らと計って脱藩し、長井雅楽の暗殺を画策するなど志士として行動していました。しかし、どういうわけか一橋家の臣となり一刀流師範役を勤めておりましたから、不争軒とは同じ剱術師範同士、何かと顔を合わせる機会が多かったのではないかと思います。後ちに圓蔵が新政府に御雇となったときは、不争軒が事後処理を担当していた様子です。

それにしても、討幕派であった渋沢や脇坂が、御三卿の一橋家の臣というのはちょっと面白いですね。渋沢両人についてはその伝記に経緯が明らかです。脇坂の方はどうやって一橋家に仕えたのかよく分っていません。

 〇
不争軒には兄斧太郎がおり、通常は家督を相続しない立場でありました。しかし、兄斧太郎が勘当された為、不争軒が跡を継ぐことになります。

この兄斧太郎は遊芸に耽るあまり勘当された、とこれまで宣猶の遺言書から推し量って説明がなされてきました。なるほど、たしかに遊芸に走っていたことは確かでありましょうが、しかしこれが勘当の直接的原因ではなかったのです。この程、不争軒史料を調べている中で、父宣猶の史料も調べていたところ、兄斧太郎が町人と諍いを起し、その罪の重さから宣猶が子の斧太郎を公の場から退けたことが分りました。名目は病いの為です。
宣猶はしばらくの間、斧太郎に懇々と説教し、その性質を改善しようと努めましたが、ある日忽然として姿を消してしまいます。宣猶は直ちに在所の縁者へ向けて斧太郎に構うなとの通達を出しますが、ある縁者の一家が世話をしたとのことで、斧太郎はその所において微塵流を教えていたそうです。
詳しく書くと長文になってしまうので、いずれ記すことにしましょう。

あと、不争軒の死因は従来不明とされてきましたが、卒中であったことが判明しました。その当時「卒中」と診断されており、何人かの醫師に診せても手の施しようがない情況であったことなど記録されています。

正月近況

1.15
正月五日より取り掛かっていた日記三冊の翻刻が出来ました。
この三冊は、以前より掲げている三俣氏の日記ではなく櫛渕不争軒の日記です。
実はあと二冊の翻刻が残っていますが、そろそろ眼の疲労が著しくなり、一旦休憩せざるをえないようです。

翻刻の済んだ三冊に関しては、これから校正や註釈を加えるなどして、後日掲げる積りです。

 〇 「太田幾右衛門への相伝書について」
過日、「御意見・御感想」よりメッセージを下さった方へ。
先ず御返事が延び延びとなり失礼しました。メッセージ投稿は返信先が分らないため、此処に記します。
太田幾右衛門と名取敬純の子弟関係は、掲げている柳生心眼流の傳書のほかには確認できず、したがって太田幾右衛門がどのような経緯を以て名取敬純と交流したのかも今のところ明らかではありません。
折角の御文面に対し、何ら実のある事を応えられず申し訳ありません。

十二月近況

12.31
サイトのデザインを変更しました。
以前のトップページは単に目次といった味気ない構成でありましたが、徐々に内容も増えてきましたので今回は「諸家文書」と「家文書」に分けて構成しました。ちょっとページが長くて、一覧出来ず見づらいかもしれません。
あと、各ページに配した凡例を回収してトップページに配し、出来るかぎりこれを基準として翻刻する積りです。

12.24
ただ今、サイトのデザインを変更しております。
全ての作業が完了するまでは掛り切りとなり、年内の更新は休みます。

12.18
土佐藩士島村衛吉の鏡新明智流皆傳については、これまで安政四年のことゝ説明がなされてきました。しかし、安政四年は目録の傳授であり、皆傳は安政六年であったと、新たに見付かった史料によって確かめられました。この史料は桃井直正が書いたものですから、これ以上の根拠は無いと思われます。
二日前サイトに掲げました。これから図に翻刻を加える積りです。

なお、桃井直正・島村衛吉の伝記は已に流布しているのでそこには触れず、島村衛吉の剣歴に焦点を絞って記しました。

12.11
久しぶりの更新です。
秦篆千字文を書写したり、江戸時代の書論を読むなどして、しばらく武藝史料を翻刻する透きがありませんでした。
そろそろ鏡新明智流の伝書を翻刻し、簡単乍ら人物の伝記を附して掲げようと算段しております。


『鏡新明智流書物』個人蔵

「鏡新明智流撃劒始祖」
「桃井姓源直正印」

この印文は秦篆に近く読み易かったです。しかし、世間の印文すべてが秦篆で書かれているわけではないので、ちょっとづゝ字形が変り、草書と同じく経験を積まねば他の読解は成らないでしょう。

草書の勉強から暫く遠ざかり、秦篆を一通り覚えてみると、草書の読解力が向上しておりました。どういう仕組みなのかと考えてみるに、字形の変化する幅を拡く知れば草書を判別する幅も拡がるのだと思います。

十一月近況

11.25
こゝ半月ほど手掛けていた大坪流の馬書をようやく掲げることが出来ました。翻刻自体は滞りなく済んだものゝ、人物の略伝に手こずった為今日に至りました。
実はこの馬書を受け取った人物のことも分っています。されども、複写を依頼した資料が待てど暮らせど届かず、仕方なく後日追記することにしました。

11.14
長文史料の翻刻は暫く休もうと考えていましたが、連日翻刻を続けています。
今回取り掛かっているのは、未だ翻刻したことがない馬術の傳書です。書かれていることが(私にとっては)目新しいので意気揚々と取り掛かったのですが、二巻目の翻刻に凡そ八時間を費やしたとき(全文校正も行い)はさすがに参りました。今日で六巻書の内四巻が出来上り、あと二巻です。


『手綱の目録の事一』個人蔵

この馬術の傳書は慶長年に書かれたもので、仮名遣いを主にしており、且つ言葉遣いが古く、読めない字よりも意味の分からない言葉に幾度か足止めを余儀なくされました。
 ゆくやかに(緩やかに)
 すくやかに(健やかに)
 しつくる(躾くる)
 いかし馬(厳し馬)
 なけひらむ(鳴け怯む)
 ひつて(引手、轡の部分)
 ひきく(低く)
 けて(蹴て) けめば(蹴めば)

どうやら、この六巻書というものは、片口の馬・なへさす馬・手綱をこす馬・こは馬・いかしの馬・人おとす馬・あかり馬・人くらふ馬・とふ馬・はね馬・物見る馬・人引馬など、何らかの癖をもつ曲馬・過馬をいかにして扱うかということに重点が置かれています。
斯ういう馬は斯うして対処する、斯ういう馬に乗るときは斯ういうことに注意する等々、実に詳細な話しです。先人たちが積み上げてきた経験・工夫が網羅され研究され、新たな工夫や発見が加味されているのだろうと想像します。

11.10
「真極流柔術の手数書(一)」の翻刻が出来上りました。しばらく長文の翻刻は休みます。

 〇 読み
毎日のように史料を読んでいても、未だに何と読むのだろうか?と分らない言葉が度々あります。
以前、姫路藩士の日記を読んでいるとき、「被給候」という言葉があり、読み方が分らず戸惑ったものです。「被給 たまはられ」かな?と思いました。
後々この読み方を見付けたところ、「被給候 たまはり候」「被送給 おくりたまはり」等と書かれていました。往来物では「給 たまは」「被 り」と読み仮名が振られています。

11.9
丁度良い機会なので「真極流柔術の註釈書(一)」の翻刻に取り掛かりました。三割ほど出来ています。
なお、「註釈書」という名称を「手数書」に改めました。

11.7
「真極流柔術の註釈書(二)」の翻刻が出来ました。

 〇 読み
昨日に続いて語句の読みです。調べれば調べるほど難しさは増します。

「被」という字は、「被仰付 おおせつけられ」「被成下 なしくだされ」のように、下の字から返って「~られ」などゝ読みます。ところが、中には「るゝ」という読み方もあります。
「被恵厚賭之段 こうふをめぐまらるゝ」「被誡置也 いましめおかるゝなり」

江戸時代は濁点をつけましたが、現代においては濁らない字もあります。とても紛らわしいです。
「令啓達候 けいだつせしめ」「調達 てうだつ」「末筆 ばつぴつ」「萬福 ばんぶく」「已下 いげ」「無異 ぶい」「無懈怠 けだいなく」「貴殿 ぎでん」

「御」の読みも難しいです。「御」は「お」「おん」「ご」「ぎょ」などの読み方があり、これははたしてどこで判断するのかと首を捻る語句があります。
「御慶 ぎよけい」「御供 おんとも」「御籏本 おんはたもと」「御勤仕 ごきんし」「御出 おんいで」「御訪 おんとふらひ」「御序之刻 おんついでのこく」「人々御中 ひとびとおんなか」「御目見 おめみへ」「御懇之御意 ごこんのぎょい」

江戸時代と一言で云えどもその期間はとても長く、おそらくは読み方も変化していったと思います。今回例に挙げた読みは、天保以降の往来物です。四,五冊を参考にしました。これらの読みが間違いなく正しいというのではなく、斯ういった読み方もあったという例です。

11.6
「史料輯録」は区切りの良いところで一旦止め、目下「真極流柔術の註釈書(二)」を翻刻しています。既に八割方出来ているので二三日中には完成するでしょう。

以前載せた「真影山流居合の註釈書」は縦書に改めました。
この手の史料はかなりの長文につき、以前のデザインではずっとスクロールしていかねばならず面倒でした。縦書でコンパクトに収められたので、読み易くなったと思います。

 〇 読み
古文書を読むとき、未だに確信の持てない語句が幾つかあります。
「然者」、これは通常「しかれば」と読み、江戸時代の人もそう読んでいますが、先日読んだ各務支考の書簡において「しからは」と平仮名で書かれた処があり、これは勿論漢字にすれば「然者」ですから、どちらの読みも有り得たのかもしれません。

読み方を確認するときは、第一にその史料が書かれた当時の書物を頼りにします。
たとえば、「往来物」には読み仮名が附されており、これは結構民衆に浸透していたのではないかと思います。およそ考えた通りの読み仮名が振ってあるのですが、たとえば「申入候訖」には「もうしいりさふらひをはんぬ」と振られています。「もうしいれ」では無いのです。たしかに「頼入候」なら「たのみいり」と読んで「たのみいれ」とは読みそうにありません。しかし、現代では「申し入れ」の読みが浸透しておりどうなのでしょう?

また、往来物における「差出 さしいだす」「可出 いだすべし」「出向 いでむかひ」「御出 おんいで」「可罷出 まかりいでべく」などを見ると、「出」の読み方も現代の人とは違います。昔の人は「出」の字を「出(い)だす」「出(い)でる」のように読むのが普通で、現代のように「出(で)る」とは読まなかったようです。いつの間にか「い」がつづまって無くなり、「出(で)る」「出(だ)す」に変化したのだろうと想像します。
 後々調べてみると別の往来物では「差出置候 さしだしおき」との読み仮名もあり、どちらの読みが普通だったのか悩みます。

あと、意表をつく読み方も多くあります。
「日外 いつぞや」「今朝 こんてう」「昨今 さくこん」「明日 めうにち」「近来 ちかごろ」「今日中 こんにちぢう」「逐日 おひじつ」
この辺は意識しないと、つい現代の読み方「今朝 けさ」「昨今 さっこん」「明日 あす」等と読んでしまいますが、昔は違っていたのかもしれません。

とはいえ、往来物が当時の教科書的存在であったならば、その時の民衆が実際に読んでいた言葉とズレがあったとも考えられます。斯ういった不安を解消するためには、やはり実際の史料、書簡などから逐一読み方を収集する必要があるでしょう。時々、平仮名で書いたり、送り仮名を付けたりするので、本当はどのように読んでいたかを考える手掛りになります。

11.3
先日のこと。辻月丹に関わる手紙があります、辻記摩多が書いたようです、興味ありますか?、と知人に聞かれました。勿論、私は是非とも見せてほしいと懇願し、翌日の再会を約す。帰宅後は、記摩多とは二代目の人だろうか、それとも後代の人だろうか、と考え楽しく過しました。


『酒井忠擧書簡』個人蔵

さて、翌日披見したところ、記摩多が書いたのではないと直ちに分り、ちょっと戸惑いましたが、改めて見れば辻月丹老宛ての手紙です。差し出したのは酒勘解由とあり、前橋藩(厩橋藩)の家老だろうかと思い、いざ文面を読んでみると、どうやら越中守が辻月丹父子の剣術を見てその感謝の言葉を水野壱岐守に取り次がせた、それで酒井勘解由は辻月丹にそのことを伝え、且つ後日会うことを確認し、辻記摩多らに贈り物をしたと書かれているようです。

後々調べてみると、勘解由とは酒井忠擧公が隠居後の名乗りでありました。世間的な評価のほどは分りませんが、在り来たりな辻記摩多の手紙よりもむしろこちらの方が良かったと思います。先々月末に「酒井忠擧公平常の御行跡」を書いたばかりで、忠擧公と縁があります。

註 水野壱岐守とは、正徳二年二月十二日壱岐守に叙任した水野忠定。越中守とは、享保元年四月九日越中守に叙任した細川宣紀でしょう。この直前に松平定重が越中守でありましたが、当時の書中において名字を書かず単に「越中守」といえば、細川家を指すと考えるのが妥当です。
いずれ調べ終えたら「史料輯録」に載せます。

十月近況

10.28
新たに「史料輯録」という項を立ち上げ、こゝ暫くは掛かり切りです。
武藝とはいさゝかも関係ないので、おそらくは誰も興味がないだろうと思いつゝ、しかし読解力を磨くには良いとも思い続けています。たとえば、普段はしない訳文の作成ですが、いざ訳すとなると意外にも難しいのです。これは実に迂闊でした。翻刻だけして、何となく分った気になっていた訳です。

訳文の作成が難しい点は、その前後の事情を知らないことです。何のことを言ってのか分らないところは、前後の文脈を推し量り辻褄を合わせます。正解は無いので、経験丈けが頼りです。間違っていたらすみません、と謝るほかありません。

書面を訳していると、些細な言葉にも敏感になります。おかしいなと感じたときは、やはり翻刻が間違っているということがしばしばありました。

また、訳したあとで調べものをしていると、これはそういうことかと判明することもしばしば。たとえば、桂太郎の書面に「脱艦」という言葉があります。私は艦を降りたことを云うのだろうと思っていましたが、これは「旧幕府の脱走艦」を指しています。海に面していない福島城下でなぜ艦を降りたのかと疑問に思っていたところです。
武田耕雲斎の書面においては「攘夷」という言葉があります。歴史に疎く、異国船を打拂う類いの攘夷を想像していましたが、この当時の局面で耕雲斎が云う「攘夷」とは「鎖港攘夷」を指しています。知らないとは恐ろしいことです。全然意味が違ってきます。

10.14
しばらくサイトの更新が滞っておりました。どうすればサイトの縦書レイアウトがきれいに表示されのかを模索していると、答えの出ぬまゝ思いがけず時間ばかりが経ってしまいます。


『新天流巻』個人蔵

今日は新天流の傳書を載せました。下絵に特色があります。始めに摩利支尊天を配し、次いで天から太刀を持って舞い降りる烏天狗、そして鼻高天狗と烏天狗が太刀をとって立ち合う姿五図が描かれ、鳥居と社殿で終ります。


『新天流巻』個人蔵

10.4
傳書の翻刻は少しく滞り、こゝ数日は日記や手紙の翻刻に専念しています。

下に掲げたのは、安政三年の江戸滞在時期に姫路藩士が執筆した日記の一部です。
出府の命によって江戸に着き、そろそろ炮術の稽古を始めようかという頃で、炮術師範という立場であり乍ら、銃の的張りをしています。斯ういった下準備の作業は、弟子に任せてしまいそうなものですが、意外と師範自ら準備することが多いです。あるいは、弟子に手伝ってもらうこともありました。


『江戸日記』部分 個人蔵

  等へ通達致候事
一 本多氏肩衣并お□[房]きせる出来
一 青山氏へ土産為持巣鴨へ□吉遣候事

   同廿八日曇天朝の内少々小雨
         夕方晴る

一 従姫路去る六日日附手紙届く
一 中目付出立に付石田勘九郎岩松氏への二色繪遣
一 八寸銃的張致候事
一 お松春二芳賀同道両国芝居行

   同廿九日晴る

一 昨晩飯田丁中坂辺出火 御上屋敷へ出る
一 御手筒掛に付四時より終日出席
一 喜多猪介へ都筑氏への盆并本多氏肩衣
  頼遣置候

   同晦日晴る

一 終日銃的胡粉引五寸角張不残仕立
一 荒木氏今日立の由為助に手紙頼候


『江戸日記』部分 個人蔵

   十月朔日晴る朝五時過地震

一 御側稽古終日

   同二日晴る夜四つ時過少々地震

一 御繰形 御稽古昼後今日より始る
一 柴田十郎左衛門并惣之進お房より十六日付届く
一 御法事御香奠本約出役へ相納る

   同三日曇る夕八時過より雨

   同四日晴る

一 昼後桐久并友吉方へ手土産持参
一 廣大院様十三廻御忌明五日より十日迄於
  増上寺御法事有之旨御觸有之

   同五日曇る昼前より晴る

一 志賀氏同道深川邊へ廻り帰り懸川端屋
  にて酒給候事

九月近況

9.29
上野厩橋藩の五代目藩主酒井忠擧公に関する記録をサイトに掲げました。
この記録の中に、忠擧公の剣術・槍術修行の記事があります。

剣術は新陰流、槍術は無邊無極流。

江戸表においての稽古は一ヶ月のうち六日稽古し、剣術は出淵道仙父子(子は出渕三郎兵衛)を召し寄せ、槍術は無邊無極流の山本加兵衛父子・その弟子を召し寄せた由。国元においての稽古は一ヶ月の内十二日と不意の稽古があったそうです。

また、家中の士の稽古を見るのに熱心だったようで、長刀棒の術まで何流に限らず見分し、師範の者であれば家来は素より他国からの牢人者も召し出し拝領物等もあったとされています。

以前から調べている不易流砲術の創始者竹内頼重もまた、斯ういった熱心な忠擧公の招きに応じたものかと合点のいく話です。しかし現代人の私からすると、家中の士をさし置いて、藩主が牢人武藝者を優遇しては家中の反発が起らなかったのだろうかと不思議です。

9.22
御意見・御感想を下さった方へ
御親切にありがとうございます。御書面、帰宅後早々に拝読し、御教示の『面影草』を確かめました。仰せの如くと思われ、不読の箇所氷解致しました。また、その語句についても御示諭の趣、ありがとうございます。御厚志の段、感謝致します。因幡拝


 
左『面影草』個人蔵  右『面影草』東京国立博物館蔵

ちからをもさそく[も:脱字]いらてぬけ行を
 まことの力とおもひ知へし

なぜ六文字なのかと思っていた処は、「も」の字が脱けていました。

また、当初は「さそく」の「そ」は、もしかすると「い(居・以)」と読み、「さいく(細工)」ではないかと思いましたが、子細に比較していくと、これは「そ(曽)」で間違いないと分りました。
「さそく」とは聞いたことのない言葉です。これについて、今村嘉雄氏の著書『武道歌撰集』に、「さそく(早足:はやわざのこと)」との説明が為されている由、先述の「御意見・御感想」の方より情報がありました。

9.14
およそ半月を費やし「杉浦素水の書簡」改訂が出来ました。書簡と云うものは読み切ることが難しい、と改めて感じました。そもそも、当事者ではない無関係な現代人が読むのですから、前後の事情、当事者らの背景など全く知らないわけです。書面に現われる些細な用件が実は重大なことかも知れません。そして、書簡には普通年紀が書かれていませんから、一つ一つ周辺情報を収集し、その背景を考え、前後を固めて行き、年紀を特定し、そこから何が読み取れるのかを考えます。

つまり、当事者らが共有し理解していたであろう情報を100%とすれば、現代人の私が書簡を読むとき、30%位まで情報を復元出来れば上出来、読み切れたと言えるでしょう。30%でも難しいかもしれません、特に有名ではない人物は周辺情報が得られず、考察も浅い段階までしか叶いません。とはいえ、ほとんどは私の力量不足と云えるでしょう。

斯ういう作業を踏まえて、相曽一弘氏の著書『大塩平八郎書簡の研究』を読むと実に驚かされます。これほどの考察が可能なのか、と天を仰ぐような気分です。

 〇
杉浦素水の書簡について書いているとき、傳書の日付をどう扱うべきか悩みました。この日付の通り弟子に傳授した(面と向って渡した)、と云う訳ではないからです。

たとえば、杉浦派の一刀流では傳授日が一応決められていますし、直接渡せない場合は人を介して後日その人の手元に渡ります。

改めて傳書の年月日とは何か?を考えると、弟子に傳授する(手渡す)日付ではなく、その傳書を傳授することを師が認めた日付(傳授日)ということでしょうか。文章を書いていて不都合なのは、「傳授された」と云うと、師から弟子へ直接渡したように読み取れる点です。
「杉浦素水の書簡」では、江戸に住む師杉浦素水から綾部に住む弟子への傳授について頻繁に触れなければならず、この言葉の表現に苦しみました。

たとえば、従来は傳書の日付に従ってこの通りに書きました。
 綾部藩士志賀幸助は、寛政五年八月十五日、師の杉浦素水より『八風切紙』を傳授されました。

しかし、上記の書き方では不十分です。
 綾部藩士志賀幸助は、師の杉浦素水より『八風切紙(寛政五年八月十五日付)』を傳授されました。
傳授日の問題を考えると、このように書くのが自然でしょうか。
私が避けたいのは、誤って読み取られることです。寛政五年八月十五日、綾部藩士志賀幸助は江戸に出府しておらず、江戸の杉浦素水から直接傳授された訳ではないのです。先記の文面だと、江戸に居る杉浦素水から寛政五年八月十五日に直接渡されたかのように読み取れます。

9.9
現代においても、書籍・教科書・新聞・漫画に至るまで大半の文章は縦書きです。現代人は縦書きに慣れ親しんでいます。然るにインターネットは横書きがほとんどです。
以前から感じていた引っ掛かりはこれだったのかと昨日思いつき、早速ページの縦書きを試みました。
とりあえず「岡田十松の書簡」を変更しました。序でに片仮名や而・与・者などを平仮名に変更。
書き換えていて思いました、縦書きだとすらすら読めるのです。特に翻刻文は、横書きと縦書きでは比較にならぬ程読み易くなりました。そして、無い知恵を絞って、本のように体裁を整えれば、より一層読み易くなると考え試みました。また、予期せぬことながら、携帯電話なども縦画面ですから、縦書きが読み易いのです。なぜ三年間も、このことに気付かなかったのかと悔やまれます。

しかし、ネットの縦書きは未開拓と言いますか、システムが完成されていません。たとえば段組すると、二段目からの縦幅が本来の縦幅の指定には無いため、次の要素と被ってしまいます。JavaScriptでこれを回避する方法が紹介されていましたが、私には難儀です。手動で段組みしました。動作に不都合が無いよう、最低限の設定で構成した積りです。

 〇
はじめ縦書化に取り掛かった「杉浦素水の書簡」は、文面の訂正をしている途中、史料の見方がとても甘いと分り、大幅な訂正に入りました。腰を据えて史料を考察するのが苦手な性質ですから、どうも見方が甘くて困ります。今は相曽一弘氏の著書『大塩平八郎書簡の研究』を傍らに置き、どうすれば改善されるかを模索しております。

9.2
先日掲げた竹内流の伝書は二月廿四日付。廿四日という日付には意味があり、どうやら愛宕信仰と関係があったようです。小川博毅氏の著書『美作垪和郷戦乱記』の中に、愛宕神と竹内久盛の話しがありました。

9.1
長谷川英信の伝書をサイトに掲載しました。居合ではなく剱術です。伝書を伝授された者の主家と、あわせて長谷川英信の主家も判明すればと意気込んで探しました。しかし、未だ両者の足跡は掴めていません。

越後国ではないかと見当をつけています。最も有力と思われたのが越後中将、松平光長公の家中です。結果から述べますと、下記の分限帳に両者の名前を見出すことは出来ませんでした(後述の近藤氏もそうです)。

「松平越後守三位中将光長家中并知行役附」
「越州高田御家中(分限帳)」
「松越後守源光長公惣家中知行高諸役附」
「松山并福山江御供名面帳・柳原分限帳順席表 元禄2年改」
「中将様越後高田御住来御行列帳」
「享保11年津山藩分限帳」
「享保12年御減甲二付御暇人名帳」

時代が古いわりに情報が充実しており、これで見付けられないということは、見当外れか浪人、或いは傳授された者は又家来ということでしょう。このほか越後の大名を数家探しました。

 〇
越後に見当をつけた理由は、同じ出処の日本覺天流の伝書にあります。その奥書に「其後不圖於越後国遇定春先生依為當流中興之元祖復得彼直伝者也」と書かれています。はじめ田邊八左衛門に同流を学んだ近藤吉左衛門尉は、その後ふと越後に来た小笠原定春に直伝を承けたとの記述です。つまり江戸詰ではなく国詰であり、近藤氏は越後の大名に仕えていたと考えられます。
この伝書は誰に傳授されたものか分りませんが、時代は寛文11年、近藤吉左衛門尉の子二人が連名で認めたものです。

 〇
田邊八左衛門に日本覺天流(もしくは行覺流)を学んだ、という記述「素於田邊八左衛門尉長道先生門下学習於當流年久終其功為就成至其道極」も手掛りになると思いました。同流の免許に至るまで田邊八左衛門に師事したとすれば、田邊八左衛門の足跡を辿ることで目当ての人物に辿りつけるかもしれません。越前福井藩・小浜藩・加賀藩・彦根藩・尾張藩も視野に入れ、各分限帳を調べましたがこれも空振りでした。

 〇
長谷川流兵法剱術、書中の図についての奥書に興味をひかれました。「この圖、悪敷きとて必ず本圖を以て書き替えること無かれ、口傳を以てその理叶い難き故、具(つぶさ)に圖を以て剱術本末道理を相傳すべきため此くの如くなり」と云い、口傳よりも重きを置いた図であることが書かれています。成程丁寧に書かれており、子細に観察すると、全文が同一人の筆によることが分ります。断定は出来ませんが、やゝ特長のある書風からして、図も含めた全文が長谷川英信の自筆と見て良いでしょう。

八月近況

8.22
竹内流の伝書を載せました。
松野主馬頭とは誰だろう? 数年の間思い出す度に探しておりましたが、今以て見付けられていません。

手掛りは幾つかあります。
長井左五右衛門信正より松野平助へ相伝の剱術書数巻、南蛮流小鉄炮の伝書、松野加兵衛と染め抜かれた籏差物、そして松野主馬頭、作州垪和と関係あり。

明治時代の後裔が垪和の近郷に住したことゝ、慶長の松野主馬頭が竹内久勝より傳書を相傳されたことは、地域に共通点があります。
岡山藩(池田家)・津山藩(森家)が近く、この辺でしょうか。

8.18
先日より取り掛かっていた眞極流柔術の傳書の翻刻が出来ました。
現存するのは此の五巻のみですが、昔は他にも在ったのかもしれません。
未だに仮名書の読解には慣れず、読むのに苦労しました。読み終えた今も、おそらく違うのではないかと思う字が幾つかあります。

これは『面影草』の序です。


『面影草』個人蔵

予、竹馬にむちうち雪をまろかし、小学に師に随う事をも露弁え侍りざりし頃より、武藝に便りあらん事をもとめ、朝な夕な寝ても覚めてもこれをこいねがい侍りし。漸く志学のとし猶武道に執し、そのみなかみ[水上・源]を尋ね、その極まれる所を探ること、劒術と言い鎗と言い棒と言い居合と言い柔と言い取手と言い、皆なその事を学ぶと言へども、生れたち頑なにしてそのまことに及びがたし。ほしゐまゝに言わんば、大空をうかゞい、井の内の蛙の大海を知らざらんが如し。さりとて志の励ます所、片端三十字一文字に綴りて、後のこれを学ばんものに借りの助けともなれかしとて、硯の塵拂い千切れたる筆して、もしほ草かき集め言の葉に顕わし侍れば、これを詠むにその面影浮かぶようなればとて、面影草と言うことのならじ。


  
『面影草』個人蔵

ちからをも さそくい■■く ぬけ行を
 まことの力と おもひ知へし

『面影草』の読めない一首、七文字または六文字の可能性もあり。
「さ■くい■■て」「さいくい■■て」「さいくいらかし」「さいくいらて」。「佐居くい良天」と見えます、しかし踊り字が挟まっているかもしれず、意味も通らず悩みます。
和歌に慣れた人であれば即答できると思いますが、私には難しいです。

後日、友人に相談したところ、読めない部分の一文字目は「さ」でなく「あ」ではないか。又、別の人に二文字目は「そ」ではなく「さ」か云われ、とりあえず七文字のところを六文字として意味の通るようにすると、「あさくいらで」に落ち着きました。「力をも浅く要らで抜け行くを、まことの力と思い知るべし」、力を込めるなという教えでしょうか。



『面影草』個人蔵

なましゐに 稽古かほする やはらをは
 おの物なり 心やすかれ

「おの物なり」は六文字、意味が通らず一文字脱落かと思います。
「やはらをは」は、「やつらをは」とも見えます。



『柔勒肝要集』個人蔵

一柔といつ[ふ]は何やうなる事を先に
 ならひて可ならんや
 答言人をとりひしく事と覚力を
 以せんとすれはみなりきみといふものに
 なり行まことの力にあらす手を以
 せすあしをもつてせす惣躰を和して
 心をいふになしかたちを邪曲にせす

上に掲げた『柔勒肝要集』に、「つ」と書いてあるが「ふ」と読むべきではないかと思う箇所がありました。



『柔極意手数之巻』個人蔵

一 そもそも眞極流柔は神道の根元なり。然らば則ち當流の根本は日之下流・荒木流捕手、右二流兼用して寛永三年眞極夢仁齋入道藤原清定、則ち眞極流新流を建て天下に弘む。兵術事傑士なり。

 〇
以前に紹介した成田高重若かりし頃の伝記をふと思い出しました。身分と稽古の関係には興味があります。

稽古のとき「歴々の侍は打倒し蹴ころし當り倒すことならず」、ゆえに「棒振りの商人、或るいは百姓・日用取の類いの下々、力量の立つ氣成(氣丈)者を懐け集めて懇ろにして」「常にねぢ合い蹴倒して自分の稽古をし給う」。


一 尊師高重、若かりし時ほ棒振りの商人、或るいは百姓・日用取の類いの下々、力量の立つ氣成者を懐け集めて懇ろにして、これに酒食を与え銭衣等をとらせてこれを朝夕夜の如くし給う。皆人これをさして朋輩と出合わず、下々を友とし給うを謗(そし)る、これ全く吉しと思い給うにあらず。歴々の侍は打倒し蹴ころし當り倒すことならず。この者共に酒等与えて常にねぢ合い蹴倒して自分の稽古をし給う。又、居合に大鐔を工夫して貫せ給う。これ又、常に不怠力能くする強勢氣象の者なければ、これを以て怠らず執行させ、強力氣勢強くその志有る者は請身を傳へむ有るなり。凡そ請身は強力にあらざれば徳少し故に、高重一代餘多の弟子有りといえども、或いは強力なれば■だにして稽古怠り、或いは能く執行をなす者は弱力にして躰骨その器にあらず、終に師に似たる者その出来ざる者なり。後来、強力器用にして正直にして勇有る者有らば、この態を傳へてこの態を執行すれば自力一倍には成るなり。(『四天流組討註釈書:尊師高重の伝記』)

8.16
今日は鎌田魚妙の手紙について書きました。いつもながら取り留めも無く不味い文章で申しわけなく思います。取り敢えず、周辺情報を少しく揃えてありますので、必要なところを汲み取って下されば幸甚です。

堀川物か?と鑑定を依頼された魚妙、結果は「堀川物」でなく「末左」と云う。先方(小浜藩)はこれがどうも不服であったらしく、改めて公儀の御研師 竹屋喜四郎に鑑定を依頼したところ、研ぎが悪しく少し分りかねますが一躰宜しく見え、伝えられた通り「國廣」にも見えますが本阿弥に相談しますとのこと。この刀には昔の本阿弥の鞘書があり、「高田」と極められていたようです。竹屋喜四郎と本阿弥が相談した結果、昔は研ぎ悪しくようやく「高田」くらいに見え、今は研げば「國廣」と云っても良いとのこと。

魚妙、竹屋、本阿弥、一連の手紙はどうやら一口の刀に附されていたようです。

8.13
眞極流柔術の傳書を一つ載せました。この傳書は通常の形式とは違うかもしれません、或いはこれが通常でしょうか。通常の形式と違うかも?と思う理由は、傳授を承けた石川光實が二十年以上前に別人(実父)から免許を承けているからです。二十数年後に傳落を補うため改めて山崎景憲に師事したのですが、一から修行した者へ与える傳書と書き出しが違うのではないかと思います。

8.12
「伝書の用意(四)」が出来ました。
今回取り上げた史料には、伝授の裏事情も記されており興味深い内容でした。
御大仁様への緩い伝授、史料で斯ういった事実を確認したのは初めてゞす。

 〇
伝書八巻の書写料が金壱分=四朱(二朱金なら二枚、一朱金なら四枚)です。
一朱はおよそ四百文に相当するでしょうか。

天保4年江戸詰武士の帳面より
 50文 物さし
 100文 耳かき
 200文 うなぎ
 280文 そろばん
 288文 氷餅
 1朱 轡
 1朱 下緒二組
 1朱120文 味噌六升
 1分1朱 帷子
 1分2朱 下緒二筋

尤も書写料は謝礼程度の扱いだったと思います。

 〇
伝書の年月日、これは融通が効くようです。以前から気に掛っていました。今回の史料には「先年帰京後
御宅へ御礼に罷出候年号にて御傳授仕候」と云うように、伝授する日=傳書の日付ではなく、随意に決められています。つまり、伝書の年月日通りに傳授が行われたとは限らないのです。しかし、ほとんどの場合そういう実際の処は記録されていませんから判断の仕様がありません。

8.10
中臣流手裏釼の伝書の翻刻が完了しました。片仮名の判別は意外と難しいです。


『中臣流聞書』部分 個人蔵

○弓に二本弦をかけ皮にて玉のふくみをこしらへ引しほるときに
 前の方ふくらみ引くなり左なけれは己■かいなを玉にて打ぬくゆへ
 なり井んさいくうの如くにつるを引へし

8.9
昨日、嬉しいメッセージを頂きました。御親切に有り難う御座います。
御蔭様で暑さを忘れ、史料解読に専念出来そうです。

 〇
今日は中臣流手裏釼の傳書を二つ読みました。
曰人が開創の流義にて、滅多に傳授しなかった為か文面は整備されていません。しかし、それがかえって真率を感じさせます。
入門して稽古に通い、数年にわたって傳授を承ける通常の諸流義とは違い、手裏釼と云う特性ゆえか短期間に傳授を行うようです。短期間で教えきれないところは傳書に詳述する、そのため傳書の内容が充実し混雑するのではないかと想像します。又、傳書によれば稽古自体は弟子に委ねられていました。

「幼稚より心懸けて自分の覚悟に工夫したる心妙釼なれば、必ずしも他に教へる事を禁ず、一人一傳たるべし」

「右九曜打たるゝ手もとならば指南たるべし、毎夜千打おこたるべからず、七星打たれぬうちは指南無理なり」

「人前にてなぐさみには一本も打つべからず、名を発するが油断なり、あの人手裏釼打などゝ云はれては人用心をなすなり、人に何とも知られぬが秘事云々、也人に知られざるを以て上手とす、人に業を見せぬが傳授なり、下手にても勝なり考へるべし」

「釼の数二十本を以て五度打てば百本なり、一夜千打すべし、夜中的しづまりてよし、音なき様に布を後に張りて的をかくべし、柱中星よし」

記録には残らないことですが、手裏釼打と知られぬようにしている曰人と弟子の石川光實は如何にして知り合ったのでしょうか。石川光實の方がその存在を知り得ないとすれば、曰人が後継者たるべき人物を探していたのかもしれません。


『中臣流手裏劒卯家之巻』部分 個人蔵

傳授を承けた石川光實は、藩へ提出する履歴書に手裏釼のことを書いておらず、師の教えを守り秘していました。

8.6
請求していた資料が届きました。目を凝らし探したものゝ、流祖の足跡は掴めず空振りでした。もう少し範囲を広げてみます。
分限帳など地道に調べていますが、あと二十年三十年と経てばネットで簡単に検索できるようになるのでしょうか。今でも、熱心な機関は積極的に史料を公開して呉れています、実に有り難いことです。
分限帳といえば、諱を照合できない点不便で仕方ありません。俗称・名乗りは、諱にくらべて頻りと改名しますし世襲もあり、はたして目当ての人物その者か決め手に欠けるからです。

 〇
丁度良い史料が見付かったので、「伝書の用意(四)」を書いています。半年ぶりの続きです、近々掲載する積りです。

8.3
国友一貫斎の手紙を読みました。手紙というより、副簡というべきしょうか。天地のことを語っています。一貫斎にしか語れない、天体観測の知識・経験を基にした天地論です。手紙を受け取った炮術師役は、一貫斎の話しを読んで何を思ったのか興味が湧きます。

8.2
七月下旬はこれといった更新も出来ず終いでした。
水面下では、史料を探す・読む・調べるを繰り返し、好調に過しております。
いくつかの発見がありました。目下、資料を請求し周辺情報を集めています。

江戸時代前期の流祖の足跡を掴むのは容易いことではありません。史料に恵まれるか恵まれないか、偶然の要素が多分にあるでしょう。今回の件では、ある流義の流祖の足跡を追っています。その足跡を直接掴めたわけでなく、関係を示唆する史料が見付かりました。このきっかけが無ければ、調べようとは思わなかったのです。自分の予測が当るか外れるか、資料が届いてみないと分りませんが、届くのを楽しみにしています。

 〇
大切にしていた史料が虫に喰われました、残念でなりません。
梅雨時に孵化し、成虫となって包紙を破っていたところを見付けました。
この史料は三年前に購入したものですから、今更どうして虫が出てきたのか不思議です。三年の間に度々この史料を読んでいますし、保管に関しては史料自体を別紙で包み、さらに保管用の箱に収納していました。後から卵を産み付けられたとは考えられず、三年間卵のまゝ眠っていて今になり孵化したと考えるのが妥当しょうか。一年、二年は安全であった史料も、三年目には虫に喰われることもある、これは良い教訓となりました。

 〇
史料についた虫の卵は専門業者の燻蒸でも死なゝいことがある、とその筋の人から聞きました。元々水分の無い紙を喰う虫ですから、その卵も何年間かは眠ったまゝ過すことが出来、ある日突如孵化することもあるのかもしれません。
毎年のように成虫となった虫を見かけます、虫が活発化する時期は決まっているようで梅雨時に集中いています。斯ういった虫の習性を考慮すると、史料の点検は梅雨時に行った方が効果的であるかもしれません。

 〇
虫といえば、紙魚は傳書の題箋を好んで食べます。題箋が食べやすいのか、それとも題箋に附された糊の成分を好んでいるのか定かでありませんが、大事な部分を狙って食べているようで困ります。先日傳書を買いました、八巻まとめて桐箱に収められたものです。この題箋が全て紙魚に喰われていました。一体どこから桐箱に侵入したのか、これまた不思議です。

鎌田魚妙の尺牘、末の左類に 被存候

今回は『新刀弁疑』『本朝鍛冶考』を著した鎌田魚妙翁の尺牘です。


『鎌田魚妙書簡』個人蔵

山口信八郎様 鎌田三郎太夫

追日暖和に御座候御安泰
奉欣喜候先頃の御挨拶
被入御念候御義忝承知仕候
又若州より御頼の由にて揚ヶ物
愚案可申上旨委細承知
仕候如仰堀川物に相見候得共
少々古き様にて末の左類に
被存候何れ御佩刀に被成候て
宜敷奉存候刄能く物切れ
可申候御返答認懸候所
人来多早々以上

三月廿七日

尚々 御道具返上仕候以上


「若州」「山口信八郎」、この二つの言によって若狭小浜藩の士 山口信八郎宛ての尺牘と分ります。また、この事を裏付けるように、一連の尺牘の中に同藩士 針ヶ谷権左衛門宛ての尺牘も有りました。年紀は定め難く、明和から寛政までとしか云えません。山口信八郎については少しく履歴が判明しています。

山口信八郎の師にして父の小野忠市郎(道煕)は、酒井忠貫公若年のころに御傅役を勤めました。信八郎は忠市郎の後継者として門弟となり明和7年(1770)忠市郎歿後に家業(学者として講書指南・読書指南)を相続し、弐拾五人扶持・御馬廻・牛込御文庫御預を命じられます。同年御廣間勤御免、安永2年(1773)講書且讀書を繁多に務めるにつき御文庫御預御免。(記録はこゝ迄)

山口信八郎、尺牘の頃は酒井忠貫公に仕えていたと考えられます。書中「若州より御頼の由」とは、酒井忠貫公の依頼のことか、敬称を欠くため同藩士の依頼を指したものか。「揚ヶ物」とは、おそらく「摺り上げ物」(無銘)のことを指すのでしょう。

尺牘は訳すと斯ういう文面です。


日を追って暖和になりますね。御安泰のこと欣喜に思います。先頃の御挨拶、御念の入ったことで忝く承知しました。
また、若州より御頼みとのことで、揚ヶ物(摺上げ物)について愚案を求められていること委細承知しました。仰せのごとく堀川物に見へますけれども、少々古き様にて末の左類に思われます。いずれ御佩刀に成されて宜しいと思います。刄能く物切れるでしょう。御返答を認め懸けのところ、人来多く早々。以上
三月廿七日
尚々、御道具は返上します。以上


「刄能く物切れ可申候」、これを剱相と云います。
魚妙翁の『新刀弁疑』に「剱相は、剱徳の奥秘ばかり知るべきにもあらざれども、大意の所は金氣の躰全く磨(とぎ)を俟(ま)たずして鉄の乾潤を知り、試しを俟たずして物よく切るゝを知る」と述べられています。所謂、武家目利というものでしょうか。

 〇
「相剱之道」と云い、魚妙翁は寛政四年から歿するまで四十九名の弟子を取りました。現存する起請文によって確認出来、萩藩のほか旗本や数藩の士が名を列ねています。但しこの起請文一通丈けとは限らず、他にも弟子がいたと思います。

この当時の一般の剱相といえば占いのごときもので、目利もいっしょのように扱われていたそうです。魚妙翁が嫌うところでありました。その様相もまた『新刀弁疑』の記述に拠れば、「剱相は猶目利の如し。共に刄の徳を尋ねるなり。世にいう所は剱の長短によりて吉凶を示し、或いは刄の模様を以て吉凶を示し、或いは逆足乱は悪し、のたれ刄にして鎺本の刄締りて細く又帽子美しく締りてなどやかなるものを吉剱とす。或いは一通りうち見て刄の成・不成にも疵の有無にも拘らずして福禄壽や病難等をいろいろ言葉を巧み、吉凶善悪を云うこと人々異なり。か様の輩(ともがら)、小利を貪り人心を迷わすの甚だしきなり。心あらん人、歯に懸くべきにもあらざるべし」と。


『吉凶剱之巻』個人蔵

吉凶剱相の史料は相当数が現存していると思います、私の手元にも二,三冊あります。これを見れば魚妙翁の言うことも合点がいきます。刀のこの部分に斯ういう所があれば弓箭にかゝるとか、水難火難絶えずとか、現代においては荒唐無稽なことですが、当時はそこそこ通用していたらしく魚妙翁がわざわざ批判する訳です。

 〇
魚妙翁より時代が下って天保12年、子か孫か鎌田三郎太夫の名が分限帳にあり、百五拾石・諸奉行格・京都御留守居を勤めています。

参考資料
『小浜市史 藩政史料編二』小浜市史編纂委員会