古文書の裏打ち(二)

前回掲げた「御付状」とは違い、こちらの手紙は表装されていませんでした。折り畳まれ保管されていたもので、そのまゝ虫に喰われ続けていたのです。そのため、はじめは披くことが出来なかったのですが、紙が弱っておらず喰われ方も悪くはないという素人判断にて自分で虫喰いを剥がすことにしました。この写真はその時撮ったものです。(特に失敗することもなく披くことが出来ました)

この手紙もまた、前回の手紙とあわせて裏打を依頼しました。きっちりと伸ばされた姿で返ってきました。

さっそく読み直してみると、以前は判読が難しかった文字も読むことができ、幾つかの誤読も見つかりました。
さて、その読み直しているなかで、紙片の配置を間違えている部分が二つあることにも気が付きました。おそらくは料紙の裏側などに引っ付いた紙片を張り直すとき本来の位置が分らなかったのでしょう。私が虫喰いを剥がして披いたものですから、正確な位置を把握しづらかったのだと思います。

 
 (写真左:実物 右:加工)

「致承知候」の「知」と「候」の間に不自然な墨がありました。これは左上の「知」の矢の下に寄せるべき部品です。少し残った墨は「候」へと続く連綿でしょうか。

    
 (写真左:実物 中・右:加工)

「相□候義も」の「候」へと続く筆は前字の終筆でなければならず、これでは不自然です。もっと不自然な点もあったので考え配置を変えてみたところ、「隙」や「構」とも見えます。「候」へと続く紙片は良いとして、その上の紙片がどうにも収まらず。上の紙片の尖端に僅かな墨がありこれは偏からの連綿に位置したとして、接続部から右に倒れたのだと仮定し元に戻したのが右の画像です。結局、知識が足らず正解が分りませんでした。

老舗といえども、文字の配置まではさすがに難しいようです。

『掲載文書』私蔵文書

古文書の裏打ち(一)

岩国の片山家を訪問した星野角右衛門、国元へ帰るとき「御付状」を所望します。和田哲也氏の著『片山家文書『肥州熊本星野角右衛門藝州広島岸源蔵参着記』について』のなかに、その「御付状」を所望したときの原文が掲げられておりこゝに引用しましょう。

「私国元罷帰候趣ニ付て,右之通是迄段々御懇ニ預リ,御入門御引渡等迄相済罷帰候段,何卒支配頭三井弥内と申もの御座候得バ,彼へ其段委細御付状態之儀ハ相成申間敷哉,猶又右不被相成趣二候ハゞ,私へ右之段御書記被下候様成儀,何卒奉希度」

これによれば、角右衛門は岩国訪問の修行の成果を「支配頭 三井弥内」へ宛てゝ「御付状」躰のものに認めて欲しい、無理であれば「私へ」認めて欲しいと願っています。現存しているのは角右衛門宛ての「御付状」です、支配頭へ宛てたものが作成されたのか、されていないのか定かではありません。けれども角右衛門宛ての「御付状」が有るということは、前文の通りとすれば支配頭宛てのものは作成しなかったと云う事になります。

この「御付状」は巻物として保管されていました。星野宣敏氏のときに表装されたのだと思います。ほかにも幾つか同様の表具が見受けられます。この表装ちょっと簡略なものでして、紙の端が折れたりして保管の状態に不安がありました。それに斯ういう簡略な表装ですから、傷んだ「御付状」を表装するときしっかり洗浄したのだろうかという心配もあり、修覆などを専門とする京都の老舗に剥がしと裏打ちを依頼することにしました。このとき特に洗浄は頼みませんでした。というのも、汚れているのはきっと折り畳まれた状態で水・湿気にやられた所為でしょうから、これ自体を綺麗にするのは多分無理だろうと思ったからです。尤も工程のなかで通常の洗浄はして呉れます。

これが返ってきた「御付状」です。依頼するときに気付いたのですが、この文書、はじめに端裏を裁断し、冒頭の餘白の狭さを補うため別の處から継ぎ帋を引っ張ってきていました。元の文書の姿を考えたとき、はたしてこの継ぎ帋はどうすべきだろうかと悩み、結局そのまゝにして、端裏を右に配置してもらいました。古今、表具された書状を見るに端裏は右配置が多いという印象があり、この方が落ち着くと思ったからです。(付け加えると、そもそも端裏は右に有ったものです) 想像するに、花押と署名を近接させたくて左配置にしたのだろうと思います。通常はその位置のまゝ裏表を反転させるのです。或いは裁断・反転させず、そのまゝ表装してしまう場合もまゝあります。

『掲載文書』私蔵文書

姫路藩士の日記 天保5年11月-12月

11月20日は惣社祭禮。

 十一月朔日 快晴
一 於 御本城 御馬印拝見 朝六ツ半時より朝上下ニ而罷出  *御馬印拝見
 御家老不残江御廻勤
一 境野大蔵殿休勤御免有之
一 寄宿寮昼前之内休ニ相成昼後有之當番
 同 二日 曇ル四ツ頃より雨夜五ツ時頃少々雷
一 学問所出席 寄宿寮出席
 同 三日 雷昼前迄降り
一 寄宿寮當番
 同 四日 村雨度々
一 寄宿寮當番
一 本堂之方句讀御人少ニ付手傳頼ニ罷出候
 同 五日 朝晴ル昼頃より時雨
一 寄宿寮出席
 同 六日 同前
一 寄宿寮當番
 同 七日 同前
 朝御厩出席
一 寄宿寮加番
 同 八日 同前
一 学問所出席 寄宿寮出席
 同 九日 同前
一 寄宿寮當番
 同 十日 晴ル
一 寄宿寮當番
 同 十一日 晴ル
一 寄宿寮當番
一 長澤大目付へ寄宿寮同勤之儀申立候處手傳より
 人を撰申立候様以催之助被申候ニ付右之趣寮當番
 石田氏へ申達置候事
 同 十二日 晴ル
一 寄宿寮當番
 同 十三日 晴ル
一 寄宿寮當番
 同 十四日 暁方雨天昼天氣
一 酒井出雲守様御隠居様御卒去ニ付昨十三日より十九日迄鳴物御停止
 之御觸来ル右ニ付惣社祭礼も延ル  *惣社祭礼延期
 同 十五日 晴ル
一 在番長屋之垣昨夜ニ致候
 同 十六日 晴ル
一 今日より大根洗致候  *大根洗い
 同 十七日 晴ル
一 寄宿寮朝之内出席
 同 十八日 天氣
一 寄宿寮當番
 同 十九日 天氣
一 寄宿寮當番
 同 廿日 天氣昼過少々□
一 今日より惣社祭禮ニ付廿二日迄諸向休ニ相成候  *惣社祭禮
 同 廿一日 晴ル
一 能番組  *能番組(能番付)
  繪馬   八嶋間那須語  半蔀   阿漕 祝言
    入間川      骨皮  牛盗人    岩舟
 同 廿二日 晴ル
一 御厩江昼迄出席
 同 廿三日 晴ル夜分曇ル
一 寄宿寮出席
一 畳屋今日より参候事尤両人  *畳屋
 同 廿四日 晴ル
一 寄宿寮當番
一 夜分四ツ半時過松平嶋圖殿御大病之由為知参り早速
 親人様被成御出候處誠ニ御急病ニ而内実者御事済
 之由ニ而翌朝卯ノ刻御廣メ有之事
 同 廿五日 晴ル八ツ時頃より少々時雨
一 朝御厩出席
一 寄宿寮へ昼後鳥渡罷出候八ツ時より於御厩在中之
 御預馬見分有之に見物ニ参候
 同 廿六日 晴ル
一 寄宿寮當番   松嶋氏着致候
 同 廿七日 天氣昼過少々時雨
一 寄宿寮當番
一 松平様御葬式 親人様御出被成候 但シ九ツ時事
 同 廿八日 天氣少々雷雨
一 学問所出席   御厩出席
一 昼後漬物致候  *漬物
 同 廿九日 天氣
一 終日漬物致候   煙草刻今日より両人参候  *漬物 煙草刻

12月4日は学問所を欠席して煤拂いをする。17日は不易流の勘定事をする。
20日に餅を搗き、27日に松を建てる、そしえ大晦日は所々に廻り挨拶する。

 十二月朔日 天氣
一 寄宿寮當番
 同 二日 天氣
一 寄宿寮當番
 同 三日 晴ル昼過少々雷夜分曇ル
              五ツ過より晴ル
一 寄宿寮出席
一 長澤催之助より寄宿生御褒美申立候義内々沙汰有之
 此方よりも鈴木先生江餞別之事申談候
 同 四日 晴ル
一 学問所頼合   煤拂候
 同 五日 晴ル
一 寄宿寮出席
 同 六日 雨天
一 寄宿寮當番昼後頼合引
一 明七日御人揃見分可有之處雨天故夕方御延引ニ相成候段  *御人揃見分延引
 点懸觸来り候
 同 七日 天氣暮方より雨四ツ頃より晴ル
一 天氣ニ者候得共諸向休之達有之事ゆへ休ニ相成候
一 永田氏七ツ時頃着有之
 同 八日 天氣
一 学問所出席 寄宿寮出席
一 夜分野里在少々火事有之事
 同 九日 村曇り四ツ頃より少々雷八ツ過より晴ル
一 五ツ半時揃ニ而御人数揃見分有之  *御人揃見分
 親人様ニも五ツ時頃より御出張有之
一 御仲間六ツ時前より相集り候朝飯昼飯二度給候
 同 十日 快晴
一 寄宿寮出席
一 久助忰久吉一昨夜より参り今日おしめ致候事
 同 十一日 天氣
一 御厩出席 寄宿寮出席
 同 十二日 天氣
一 寄宿寮當番
 同 十三日 晴ル
一 宅ニ而下■致候
 同 十四日 晴ル
一 寄宿寮當番
 同 十五日 快晴
一 月次廻勤
一 大輪講出席 鬮當り
┌吾有 芦善乾之助 ┌麻寛 戸倉辰吉 ┌齋襄 朝比奈勝元
└知之氣      └之氣      └之氣
┌意必 片山庄助 ┌太宰 河合勧次郎 ┌鳳凰 太田誠次 ┌畏於 種村卯一郎
└之氣      └之氣       └之氣      └匡之氣
 同 十六日 昼過曇ル
一 学問所出席 寄宿寮出席
一 桐の馬場ニ而責馬出席  *桐の馬場責馬
 同 十七日 天氣
一 寄宿朝之内當番   夕不易流勘定事致候
 同 十八日 天氣
一 寄宿寮當番
 同 十九日 快晴
一 御鷹之鴈御拝領之御觸来り但シ御本城之御帳有之
一 寄宿寮當番
 同 廿日 天氣
一 学問所出席 寄宿寮出席
一 例年之通餅搗致候  *餅搗
一 御用召有之
  三十石 金原助左衛門 御目付役 川端戸右衛門
  御加増
一 夜五ツ時頃伊出井村出火有之
 同 廿一日 雨天
一 暁方七ツ半頃横手村出火有之
一 終日餅はやし致候
 同 廿二日 天氣
一 親人様并自分皆勤之御褒美有之  *皆勤賞
 同 廿三日 天氣
 同 廿四日 天氣
一 御用之儀ニ而御用場江罷出候處例年之通御褒美金壱両
 弐朱被 下置候
一 當十六日 若殿様少将被為 仰付候御觸来ル御本城御帳ニも
 早速罷出致候
一 内藤様御婚礼今九ツ時ニ有之
一 龜山領出火有之
 同 廿五日 天氣
一 若殿様恐悦ニ本城甚五左衛門江戸表へ罷出候御觸来ル
一 福田市大夫母病死致候
 同 廿六日 天氣
一 御加扶持金并格上ケ等御用召有之  *出世発表
一 おしめ張候  *おしめ張
 同 廿七日 天氣
一 松建候事  *松建
 同 廿八日 天氣
一 御褒美御土蔵ニ而自分罷出請取
 同 廿九日 昼頃より雪降り雨八ツ過上ル
一 御厩出席
一 針谷氏へ山田家四両貸候節之手紙持参ニ而九郎兵衛へ相渡ス
 同 丗日 天氣
一 昼後所々歳末廻勤

掲載史料及び参考資料
『天保五年日記』私蔵文書
『姫陽秘鑑』姫路市史編集室 姫路市
『姫路藩家臣録』姫路市立城郭研究室所蔵
『姫路城史』橋本政次著 名著出版
『姫路市史』姫路市史編集委員会 姫路市
『兵庫県史』兵庫県史編集専門委員会 兵庫県
『前橋市史』前橋市史編纂委員会 前橋市

姫路藩士の日記 天保5年9月-10月

9月6日は大日河原に於いて炮術稽古が行われた。これは特別なものであったらしく、前日に準備し、翌日には結果をまとめて不易流師役の森先生へ提出している。

 九月朔日
一 寄宿寮當番
 同 二日
一 学問所出席 寄宿寮出席
 同 三日
一 寄宿寮當番
 同 四日
一 寄宿寮當番
 同 五日 天氣
一 終日宅ニ而明日之拵致候  *明日之拵
 同 六日 天氣
一 於大日河原百目玉中筒ニ而六丁目當小町打致候ニ付出席 *大日河原に於いて百目玉中筒
一 学問所出席早引
 同 七日 晴ル
一 寄宿寮加番
一 昼後森先生方へ姿附等同勤同道ニ而致持参候  *森先生方へ姿附等持参
一 親人様鹿万津へ釣ニ被成御出候
 同 八日
一 学問所出席 寄宿寮出席
一 昼頃より重次 常蔵 召連鹿万津へ参候
 同 九日 昼邊より雨
一 礼廻
 同 十日 天氣昼過少々雨
一 寄宿寮當番
一 母人様金原家内同道ニ而富田観音へ被成御出候  *富田観音へ
 同 十一日 天氣
一 寄宿寮當番
 同 十二日 天氣
一 寄宿寮石田代番
一 昼後より笹沼 境野 同道ニ而鹿万津へ釣ニ参候
 同 十三日 天氣
一 寄宿寮當番
 同 十四日 天氣
一 寄宿寮加番
 同 十五日 天氣 夜五ツ時過より雨
一 家内召連鹿万津へ釣ニ参候吉田氏よりも同様 右之代惣之進分ニ而壱匁壱匁九分八厘
 同 十六日 天氣
一 学問所出席 寄宿寮出席  一 鉄屋与兵衛参り金子
                預ケ帳差遣置候事
一 夜分宅ニ而寮肝煎寄合致候事  *寮肝煎寄合
 同 十七日 快晴
一 寄宿寮當番
 同 十八日 天氣 夜分五ツ頃より雨
一 寄宿寮當番
一 寮諸生進学次席帳面根岸氏へ石田 河合同道ニ而差出候
一 母人様おたつ関氏より被揃鹿万津へ釣ニ参候
一 鈴□先生寮會之義豊田大目付へ頼置候處今日自分へ
 本堂ニ而先生承知ニ付手傳より本引合為致候様達有之
 多田氏より引合為致大学と相定り申候事
 同 十九日 曇ル少々雨四ツ過より晴ル
一 四ツ頃より鹿万津へ参候 親人様蔵之進も参り候 自分舩ちん
                         笹沼より壱匁三分
 同 廿日 晴ル
一 寄宿寮當番
一 山田氏法事ニ付家内不残参り候  *山田氏は義陳母方の実家
 同 廿一日
一 寄宿寮加番   夕宅ニ而繰形
 同 廿二日 晴ル
一 学問所出席 寄宿寮出席
一 昼前より常蔵召連笹沼同道ニ而釣ニ参候 笹沼より舩ちん八分
 同 廿三日 晴ル
一 寄宿寮當番
一 親人様関氏同道ニ而釣ニ被成御出候
 同 廿四日 天氣
一 寄宿寮當番
一 佐々木流ニ而火業致ニ付八ツ過より大日河原江参候  *佐々木流、大日河原
 同 廿五日 天氣
一 寄宿寮當番
一 奈良屋より銀切手四貫目差越 夕方内藤様へ御持参被成候
 同 廿六日 天氣
一 寄宿寮當番
 同 廿七日 晴ル
一 早朝より笹沼氏同道ニ而磯江ちぬ釣ニ参候供重次 常蔵参候
 白さ酒遣候笹沼壱匁弐分 磯ニ而酒遣候笹沼□五分
 同 廿八日 晴ル
一 学問所出席
一 彦平方ニ而宅杢馬稽古始致ニ付出席夜會之  *宅杢馬稽古始
 連中より肴遣候
 同 廿九日 晴ル
一 家内中召連鹿万津へ釣ニ参り候 舩ちん等自分
                   小遣ニ而遣候

先月と同様、八月も頻りと釣りに出掛ける。
 9月7.12.15.19.22.23.27(ちぬ).29日

そして十月は釣りのほか、息子蔵之進(6才)を連れての外出も多く、茸狩りや角力見物などしている。

これまでの記録に見られる息子蔵之進と出掛けた日を挙げると下記の如く、やゝ特別な出来事に関してのみ記録していた様である。
 1月3日 佛参
 1月10日 舞稽古開キ見物
 3月13日 出羽守様御通り拝見
 3月15日 国分村へ鮒釣
 7月13日 佛参
 8月1日 囃子見物
 9月19日 鹿万津へ
 10月2日 大日河原へ
 10月15日 茸狩
 10月18日 角力見物
 10月28日 舩場御坊へ8

 十月朔日 晴ル
一 寄宿寮當番
 同 二日 晴ル
一 寄宿寮當番
一 小屋関流ニ而小丁打致ニ付昼過より蔵之進召連大日江参候  *小屋関流
 同 三日 晴ル
一 寄宿寮出席
一 菖蒲植替致候  *菖蒲植替
 同 四日 晴ル
一 寄宿寮當番
 同 五日 雨天晴ル
一 寄宿寮當番
 同 六日 天氣
一 学問所出席 寄宿寮出席
 同 七日 雨天
一 寄宿寮當番
一 仙石道之助様御隠居様御卒去ニ付今七日より九日迄鳴物
 御停止御觸来ル
 同 八日 曇り少々之雨
一 寄宿寮當番
 同 九日 晴ル
一 朝宅素讀 昼後寄宿寮出席 八ツ時頃より本堂へ
 例之通罷出試之本打候  *試之本打
 同 十日 晴ル
一 寄宿寮當番
一 素讀試ニ付本堂へも罷出候  *素讀試
 同 十一日 晴ル
一 暁七ツ時前より西光寺野へ母人様本間家内同道ニ而
 御出ニ付自分も才領ニ罷越夜六ツ半過帰ル
 同 十二日 快晴
一 学問所出席 寄宿寮へ八ツ時より出席
一 真字弐歩来未九月より御停止ニ相成候旨御觸来ル  *真字弐歩
 同 十三日 晴ル
一 寄宿寮當番
 同 十四日 晴ル
一 寄宿寮當番
 同 十五日 晴ル
一 月次廻勤   昼前より蔵之進召連茸狩ニ参候  *茸狩
 同 十六日 天氣八ツ過より雨
一 学問所出席 寄宿寮出席
 同 十七日 快晴
一 寄宿寮當番
一 鉄屋与兵衛早朝参り吉則 賀光之脇指代金拾三両  *吉則・賀光之脇指代金
 貸置候
 同 十八日 晴ル
一 寄宿寮當番   一 昼過より蔵之進召連角刀[力]見物ニ参候  *角力見物
 同 十九日 晴ル
 御厩出席
一 寄宿寮出席
一 松岡氏今昼時頃帰着致候
 同 廿日 晴ル
一 学問所出席
一 四ツ過より笹沼氏同道ニ而鹿万津へ参候
一 三浦与三右衛門御袋 佐治清次郎御袋 昨夜病死致候
 同 廿一日 晴ル
一 寄宿寮當番
 同 廿二日 晴ル
一 学問所出席 寄宿寮出席
一 山田法事ニ付男子之分昼時家内夕天野氏へ参候  *山田法事
 つね
一 常と唱候文字御差各之御觸来ル  *常と唱候文字
一 根岸源太兵衛御袋病死致候
 同 廿三日 晴ル
一 寄宿寮當番
一 高須公 長澤氏 渋川氏 馬場氏 長谷川氏 三森氏  *高須公帰着
 中村氏 新美養子等 今日八ツ時過帰着被致候
 同 廿四日 快晴
一 寄宿寮當番
一 伊奈平八今四ツ時過帰着被致候
 同 廿五日 晴ル
一 御厩出席
 同 廿六日 夕方雨
一 寄宿寮當番
一 御例坐御休勤之御方今日御免有之 籠谷市之進
                 大橋定之進 上文同様
                 室賀官八
 同 廿七日 天氣
一 寄宿寮當番
 同 廿八日 天氣
一 学問所出席
一 昼前より蔵之進召連舩場御坊へ参候
 同 廿九日 天氣
一 寄宿寮當番
 同 晦日
一 寄宿寮當番
一 今村糺 御留守居 石井郡助 御弓矢方 被 仰付候

掲載史料及び参考資料
『天保五年日記』私蔵文書
『姫陽秘鑑』姫路市史編集室 姫路市
『姫路藩家臣録』姫路市立城郭研究室所蔵
『姫路城史』橋本政次著 名著出版
『姫路市史』姫路市史編集委員会 姫路市
『兵庫県史』兵庫県史編集専門委員会 兵庫県
『前橋市史』前橋市史編纂委員会 前橋市

姫路藩士の日記 天保5年7月-8月

七月も寄宿寮、学問所、炮術と文武共に出精する。但し、炮術はこの月にて終いとなり、八月からは繰形稽古にかわる。

これまでの炮術出席日
4月 1.4(休).10.13.19.20.28日
5月 2(休).8.11.14.17.26日
6月 2.8.11.14.17.23.26.29日
7月 3.6.9.12.18.24.27日

 七月朔日 快晴
一 清水邊暑氣見廻ニ廻勤并月次廻勤
 同 二日 快晴
一 寄宿寮當番
 同 三日 快晴
一 寄宿寮當番   夕炮術出席
 同 四日 快晴
一 学問所出席   寄宿寮出席
 同 五日 快晴
一 寄宿寮當番
一 昼後より手野川へ鮎打ニ福嶋傳九蔵 石川金次郎同道ニ而参り夜五ツ時過帰り
 同 六日 快晴
一 寄宿寮當番   夕炮術出席先生出席有之
 同 七日 快晴
一 七夕之礼廻勤
一 例年之通墓所花生切ニ而夕方三ヶ所共遣候尤景福寺江者
 自分も参候事
 同 八日 快晴
一 学問所出席
 同 九日 快晴
一 寄宿寮當番   夕炮術出席
一 針谷氏同道ニ而案内より天野氏へ参り山田氏暮之事引合致候
 同 十日 朝曇り昼前より快晴
一 寄宿寮當番
 同 十一日 快晴夕方より風強く村曇り
       夜分少々之時雨
一 燈籠等終日張候  *盂蘭盆会
 同 十二日
一 学問所出席   夕炮術出席
 同 十三日 晴ル
一 京口御門固
一 親人様昼前ニ御佛参 自分夜ハ蔵之進召連佛参
 同 十四日 朝曇り
一 母人様御辰夕方より佛参
 同 十五日 朝曇り昼前之内少々雨
       昼後晴ル
 同 十六日 曇り八ツ半頃より少々雨
一 太二助 鹿助 今日より出勤
一 理左衛門義 内藤様御出府之御供様被申付候
 同 十七日 晴ル夜分四ツ頃雨
一 寄宿寮當番
 同 十八日 曇ル昼過少々遠方ニ而雷鳴
       夕方より雷鳴雷雨
一 寄宿寮當番   夕炮術出席
 同 十九日 朝曇り四ツ頃より晴ル夜分雷鳴雨
一 寄宿寮石田代當番
一 昼過妻鹿しま来 堀江鮒釣ニ参候重次被連参候事
 同 廿日 曇り四ツ過より雨夕八ツ半過より晴ル
一 学問所出席
 同 廿一日 夕八ツ半過より遠方ニ而雷鳴少々
一 寄宿寮當番
 同 廿二日 夕七ツ過少々雨
一 寄宿寮當番
 同 廿三日 晴ル
一 寄宿寮當番
 同 廿四日 晴ル
一 学問所出席 寄宿寮出席 砲術出席
一 笹沼氏宅ニ而豊田 境野吉 自分會主ニ而鱣給候  *鱣 たうなぎ
 同 廿五日 晴ル
一 寄宿寮當番
 同 廿六日 晴ル
一 学問所出席
一 鹿万津江豊田 笹沼同道ニ而網打ニ参候  *鹿万津へ網打
 同 廿七日 早朝少々雨
一 寄宿寮出席   夕砲術出席
一 内藤御二男本城氏江養子願済
 同 廿八日 晴ル
一 学問所出席
 同 廿九日 晴ル
一 寄宿寮當番

七月七日は五節句の一つ七夕、七月十三日~十六日は盂蘭盆。
三俣家においては七夕の日に礼廻り、十三日は父子で佛参などする。
八月朔日は正月に次ぐ節日、八朔。義陳は息子を連れて囃子を見物に行った。

七月の末から「網打」が数度行われている。知人らと鹿万津に赴き何を獲っているのだろうか。網打は7月26日、8月2.8.27日の四日行われ、3日には笹沼氏と網を調え、23日にも笹沼氏の宅にて網に岩縄を付けるなどした。7月5日に「鮎打」と書かれているから、これら「網打」とは鮎を獲ることを指したものか。
この網打のほか、7月24日は鮒釣、8月14日にはちぬ釣、15.20.27.29日にも釣に出かけている。3月15日の鮒釣以来久しぶりの釣である。

 八月朔日 夕七ツ自分雷鳴雷雨
             暮方晴ル
一 礼廻勤
一 昼後蔵之進召連天野氏へ囃子見物ニ参候
 同 二日 晴ル
一 学問所出席 寄宿寮出席
一 昼頃より笹沼閏次同道ニ而鹿万津へ網打ニ参 夜四ツ時帰ル  *鹿万津へ網打
一 今日より長屋ニ而小町打宝ぐし[?]直しニ懸候
 同 三日 晴ル
一 御厩出席 寄宿寮出席
一 笹沼氏同道ニ而表屋へ参り網糸調候夜分重次帰りニ
 原助方へ遣候
 同 四日 晴ル
一 寄宿寮當番
一 藤屋へ金拾両取次ニ而遣置候十一月ニ元利入
 同 五日 晴ル
一 寄宿寮當番
 同 六日 暁方雨上り五ツ頃より雨天
御厩出席
一 学問所出席   寄宿寮出席
一 夕方より風荒吹追々増夜四ツ時頃より追々強く相成九ツ時頃  *嵐
 嵐強く八ツ時前より追々弱く相成候
 同 七日 晴ル
 同 八日 晴ル
一 寄宿寮當番
 同 九日 晴ル
一 早朝より重次召連鹿万津へ網打ニ参候夜六ツ半時帰ル
 同 十日 暁前少々雷鳴雷雨早速
      はれる
一 寄宿寮當番
一 豊田氏より犀角帰り少々長澤氏へ用立候事
 同 十一日 六ツ半頃より雷鳴雷雨
一 寄宿寮出席   夕宅繰形稽古
 同 十二日 村曇り
一 寄宿寮當番
一 鉄馬より晩方脇指壱本并刀柄前太三持参ニ而金参両遣候   *脇指壱本并刀柄前
                   十一月ニ元利入
 同 十三日 雨天
一 寄宿寮當番
 同 十四日
一 学問所出席
一 昼頃よりちぬ釣へしあん橋へ参候  *ちぬ釣
 同 十五日 八ツ時前時雨
一 次並廻勤
一 昼過より常蔵召連妻鹿へ釣ニ参候
 同 十六日 天氣
一 学問所出席   寄宿寮出席
一 今日より寄宿寮終日ニ相成候
 同 十七日 天氣暮過より雨
一 寄宿寮當番
一 鉄屋与兵衛方へ夕方より天野氏同道ニ而参り夜食給候  *鉄屋与兵衛方に於いて夜食
 同 十八日 雨天
一 寄宿寮當番
一 菊屋永助より兼音之刀柄出来参候  *兼音之刀柄出来
 同 十九日 雨天
一 昼後寄宿寮出席
 同 廿日 天氣
一 学問所出席
一 四ツ時頃より妻賀江釣ニ参候尤壱人ニ而  *妻賀江釣
 同 廿一日 晴ル
一 寄宿寮當番
一 鉄与[鉄屋与兵衛]江金五両貸候并先方より新渡器越候  *鉄与へ貸す
一 京都へ染物頼遣候  *染物頼
 同 廿二日 四ツ頃より雨八ツ邊より晴ル
一 寄宿寮當番
一 鉄与[鉄屋与兵衛]より夜分昨日之しがみ金物取ニ越ニ付早速遣候尤使  *昨日之しがみ金物
 塗師屋太助并太三参候
 同 廿三日 晴ル夜分少々雷鳴
一 佐良和乳母病死之由申来ルニ付銀札弐匁米弐朱遣候
一 網岩縄等付候尤笹沼宅ニ而  *網岩縄等付
 同 廿四日 天氣
一 学問所出席 寄宿寮出席
 同 廿五日 天氣
一 寄宿寮當番
 同 廿六日 天氣
一 寄宿寮當番
 同 廿七日 天氣昼八ツ半過より雨
一 早朝より網打ニ参り 親人様もちぬ釣ニ御出暮方ニ帰ル  *ちぬ釣
 同 廿八日 快晴夜中少々雷鳴
一 学問所出席
 同 廿九日 晴ル
一 鹿万津へちぬ釣ニ 親人様御出ニ付自身も参り六ツ半過帰ル  *ちぬ釣
 同 晦日 天氣夕方前より曇ル
一 寄宿寮當番
一 大輪講出席鬮抜
一 御鷹野雲雀御拝領之御觸来ル

掲載史料及び参考資料
『天保五年日記』私蔵文書
『姫陽秘鑑』姫路市史編集室 姫路市
『姫路藩家臣録』姫路市立城郭研究室所蔵
『姫路城史』橋本政次著 名著出版
『姫路市史』姫路市史編集委員会 姫路市
『兵庫県史』兵庫県史編集専門委員会 兵庫県
『前橋市史』前橋市史編纂委員会 前橋市

姫路藩士の日記 天保5年5月-6月

 五月朔日 晴ル
一 寄宿寮當番
 同 二日 晴ル昼前より曇り八ツ頃より雨天
一 学問所出席 寄宿寮出席   炮術休
 同 三日 雨四ツ前より晴ル
一 九ツ半過より村角 折井 関 笹沼 辰右衛門 自分 野里御門
 より出馬ニ而鹿万津へ参り八ツ半過帰り
一 寄宿寮江出席夫より河合宅へ肝煎寄合致候  *肝煎寄合
 同 四日 晴ル
一 寄宿寮當番 例の通り昼迄
一 親人様之刀柄鉄屋より出来参候  *親人様之刀柄
 同 五日 晴ル
一 礼廻勤   昼後小川氏へ舞囃子見物ニ参候  *舞囃子見物
一 親人様昼後大日河原江稽古見物ニ御出被成候  *稽古見物
 同 六日 曇ル時々少々雨
一 寄宿寮出席當番
 同 七日 晴ル
一 御厩出席 四ツ過より寄宿寮出席終日
一 寄宿寮引後寮中ニ而手傳肝煎相談事致候事  *手傳肝煎相談
 同 八日 晴ル昼前より曇り少々雨
一 学問所出席 寄宿寮出席 七十三 炮術出席
 同 九日 雨天夜九ツ前より晴ル
一 寄宿寮當番
 同 十日 晴ル
一 寄宿寮當番
 同 十一日 晴ル
一 寄宿寮石田氏代番昼迄   夕炮術出席
 同 十二日 晴ル
一 学問所出席 寄宿寮出席
一 昼後より御持組見分見物ニ参り夫より青木組見分同断  *御持組見分見物
 同 十三日 天氣
一 寄宿寮當番   夕方肝煎中寮江寄合致候
 同 十四日 天氣
一 寄宿寮當番   夕方炮術出席
 同 十五日 曇り八ツ過より晴ル
一 月次廻勤
一 八ツ時細野新四郎葬礼ニ出候 尤十二日ニ病死之事
 同 十六日 晴ル
一 学問所出席 寄宿寮出席 八十
 同 十七日 晴ル
一 寄宿寮出席   夕炮術出席
 同 十八日 晴ル
一 学問所出席 寄宿寮出席  昼後西寮ニ而相談有之事
一 鉄屋より脇差弐本越候  *脇差弐本出来
 同 十九日 少々雨四ツ頃より晴ル
一 寄宿寮當番
 同 廿日 晴ル
一 学問所出席
一 組之者鉄炮見分被成候  *組之者鉄炮見分
  幕一走 渋紙弐枚 手桶壱ツ 杓 茶碗弐拾 茶■
  せんべい 土瓶弐ツ 炭取ニ而炭 煙草粉盆 三ツ
  合羽籠ニ而
  火縄代三拾匁 小頭へ八匁   觸へ 三匁
  四ツ星六人 四匁  三星拾壱人 三匁ツゝ  子供 三人扇子料
                        弐匁ツゝ
  玉数九拾六 外ニ弐ツ
見物 沼田権三郎 岩松九■衛門 酒井八郎左衛門 関十郎太夫
   小屋左次右衛門 福嶋長助 福田市太郎  *小屋左次右衛門 山鹿流兵学師範を継いだ家柄 代不明
 同 廿一日 晴ル
一 寄宿寮當番
一 句讀初 進学次第并出入之書付長澤氏へ 石田福田  *句讀初
 両人ニ而持参致候
一 本堂肝煎當番江出入之書付河合氏持出候事
一 素讀生者寮肝煎より追而可申聞候事
 同 廿二日 晴ル昼頃より曇り七ツ頃より雨
       夜分大雨
一 学問所出席 寄宿寮出席
 同 廿三日 雨 夜分晴ル
一 寄宿寮當番
 同 廿四日 天氣
一 寄宿寮當番 今日より百日目之替り
 関二一郎 籠谷左和太 清野九十一郎今日より出席
 同 廿五日 天氣
一 寄宿寮當番  朝倉萬吉 渋川辰次今日より
 出席致候事
 同 廿六日 天氣
一 学問所出席 寄宿寮出席  炮術出席
 同 廿七日 天氣
一 寄宿寮出席
 同 廿八日 曇ル夜分雨天
一 学問所出席
 同 廿九日 雨終日曇ル
一 寄宿寮當番八ツ過より石田氏へ頼引候 薬三服
一 伊奈平八 長澤小太夫 渋川又八 出府被 仰付候
 同 晦日 雨天
一 学問所出席   母人様薬三服ツゝ今日より

5月12日に「御持組見分」が行われ、義陳は見物に行く。御持組というのは御持筒組のことで、殿様直轄の鉄炮隊を指す。
そして、5月20日には「組之者鉄炮見分」が行われた。その日に持参した品々が挙げられていることから親父の支配する鉄炮隊だろう。お茶に加えてせんべいも持参しており、何やら長閑な様子である。褒美を与えられた者たちのなかに子供が三人もいることから、過酷な訓練というわけはなかったようだ。
なお、鉄炮隊は関流仕様の鉄炮を用い、打ち方などもそれに準じたものか、運用は山鹿流であった。

5月15日、大日河原に於いて親父の鉄炮隊は奉納のため五寸角を撃った。見物に同行した義陳も急遽撃つことゝなり、鉄炮を取り寄せて四発撃ったと云う。

 五月[六月]朔日 晴ル
一 御觸左之通
 殿様 御参勤之御時節相成候處未御不快中ニ付去ル
 十五日 御参勤之御禮以御使者御献上物無御滞相済
 候之由申参候間此段為心得申達候様月番本多意氣揚殿
 被申聞ニ付申達候已上
   五月晦日   大目付
 同 二日 晴ル夕方より曇ル
一 学問所出席 寄宿寮出席   炮術出席
 同 三日 天氣七ツ過より雨天
一 寄宿寮當番
 同 四日 雨天
一 寄宿寮當番
 同 五日 雨天
一 寄宿寮出席   薬今日より弐服ツゝ
一 小泉新平句讀時役被成御免候
 同 六日 晴ル暑気相増ス
一 学問所出席 寄宿寮出席
 同 七日 朝之内少々曇り晴ル
一 寄宿寮當番
 同 八日 晴ル
一 寄宿寮當番   夕方炮術出席
 同 九日 晴ル朝之内誠ニ少々雨
一 灸治致ニ付諸方へ出不申候
一 昨夜前田氏ニ而女子出生
 同 十日 時曇り昼前少々雨早速上ル
一 寄宿寮當番河合代   薬今日ニ而休
 同 十一日 晴ル
一 寄宿寮出席   夕炮術出席
一 長澤小太夫 伊奈平八 渋川又次 等夜分出立致候
 同 十二日 晴ル
一 寄宿寮當番
一 屋根屋今日より参り候
 同 十三日 天氣
一 寄宿寮當席出席
 同 十四日 晴ル   母人様今日ニ而休
一 寄宿寮當番   夕炮術出席
 同 十五日 晴ル夕方少々雨
一 月次廻勤
一 昼後 親人様御同道ニ而大日河原へ組之者奉納五寸角拾ツ打致ニ付
 見物ニ参候自分ニ茂鉄炮取よせ五寸角四發打候 [角図]
 同 十六日 暁前雷鳴雷雨五ツ時過少々雨昼前より晴ル
一 寄宿寮當番 今日より半日ニ相成り候事
 同 十七日 晴ル □□□□□[夕方より少々]雨
一 宅讀致候   昼後炮術出席
 同 十八日 晴ル
一 寄宿寮當番
 同 十九日 晴ル
一 寄宿寮當番   塩硝合□□□[今日より]始ル出席  *塩硝合始ル
 同 廿日 朝晴ル五ツ半頃より雷鳴雷雨昼頃より上ル
      夜六ツ過より大雨五ツ頃上ル
一 学問所出席
一 塩硝合出席
 同 廿一日 朝曇り
一 寄宿寮當番   塩硝合出席
 同 廿二日 晴ル
一 寄宿寮當番
一 大河内二衛門殿御■番可被成御勤被 仰蒙有之
 同 廿三日 天氣
一 暑気見廻ニ廻候  夕炮術出席
 同 廿四日 晴ル多分少々雨
一 寄宿寮當番
 同 廿五日 晴ル
一 寄宿寮當番
 同 廿六日 天氣
一 □□□□[学問所出]席 寄宿寮出席  夕炮術出席
 同 廿七日 天氣
一 寄宿寮當番
一 昨日伊奈鉄蔵病死致候
 同 廿八日 快晴
 御厩出席
一 学問所出席
一 昨夜高須兵次殿 内藤甚之丞殿 長澤催之助 京都より
 御帰着ニ付御次ニ罷出候
一 今朝五ツ時伊奈氏葬式之處 学問所日故昨夜山田善五郎迄断□□
一 龍野ニ而花火有之ニ付今宿村外□□見物ニ参候  *龍野ニ而花火
 同 廿九日 快晴
一 早朝伊出井村於鉄炮場野口定次郎弐貫目玉之渡し致ニ付見物ニ参候
一 寄宿寮出席   夕炮術出席

4月に始められた炮術稽古はその後頻繁に行われている。稽古の仔細は記録されていない、清水鉄炮場に於いて射撃訓練をしたものかと想像する。

炮術出席日
4月1.4(休).10.13.19.20.28日
5月2(休).8.11.14.17.26日
6月2.8.11.14.17.23.26.29日


 国立公文書館所蔵-天保国絵図

6月29日、伊出井村の鉄炮場に於いて野口定次郎が弐貫目玉を試みたものか、「弐貫目玉之渡し致ニ付」というのはちょっと意味が解らない。この人は野口弐貫五郎の親戚であろうか。

掲載史料及び参考資料
『天保五年日記』私蔵文書
『姫陽秘鑑』姫路市史編集室 姫路市
『姫路藩家臣録』姫路市立城郭研究室所蔵
『姫路城史』橋本政次著 名著出版
『姫路市史』姫路市史編集委員会 姫路市
『兵庫県史』兵庫県史編集専門委員会 兵庫県
『前橋市史』前橋市史編纂委員会 前橋市

姫路藩士の日記 天保5年3月-4月

3月は酒井忠学公の正室 喜代姫に女子が生れる。喜代姫は将軍 徳川家斉公の娘である。懐妊のときは、幕府から本丸近辺の諸屋敷・寺社・町家に火の用心の觸が出された。
「御帳附」というのは、本来は謁見して御祝などするかわりに帳面に記帳することを云うらしい。藩主不在のときに行われる。これは重要な儀礼であったらしく日記に度々見られ、欠かさずに登城している。

 三月朔日 曇ル
一 寄宿加番   夕繰形
一 御本城江罷出御帳ニ附候  *御帳附
 同 二日 天氣
一 学問所出席 寄宿寮出席
一 昨夜豊田氏ニ男子出生 五十嵐氏ニ女子出生
一 昨今雛之餅諸向江差遣候事  *雛之餅
 同 三日 終日曇ル
一 礼廻勤
一 昼邊より金原氏家内 関氏家内 吉田氏家内
 ■松御袋御出ニ候 魚やおじゆん参候
 同 四日 快晴
一 寄宿寮當番
一 今日より厩普請相始申候尤普請中関氏へ馬  *今日より厩普請
 預ヶ置申候大目付江も内々咄置候事
 同 五日 曇ル四ツ前より雨
一 弓術見分出席  *弓術見分
一 昼邊より寄宿寮出席
 同 六日 晴ル
一 鎗術見分出席   夕繰形  *鎗術見分
一 松屋江持参候白塩硝別テ七貫目取候  *白塩硝
 同 七日 快晴
一 寄宿寮出席
 同 八日 曇ル
一 寄宿寮加番
 同 九日 晴ル
一 昼後寄宿寮出席
一 吉田家内母人様お辰蔵之進八家より曽根寳殿江御出  *曽根寳殿
 同 十日 曇り夕七ツ頃より雨
一 寄宿寮加番
一 當二日 姫君様御安産之御觸来ル右ニ付麻上下着用ニ而
 御本城江罷出御帳ニ附候  *3月2日喜代姫が女子を生む、名を喜曾と云う
一 近江屋ニ而火口硫黄五百九十目調置候代銀八匁八分五厘  *火口硫黄
一 堺屋よりも同断弐斤差越候処壱斤取置候
一 大工今日壱人来り今日ニ而休
 同 十一日 曇ル
一 寄宿寮出席
一 今暁兵次殿 甚之丞殿 源十郎京都江出立
 同 十二日 天氣
一 寄宿寮當番
一 明夜出羽守様加古川御泊りニ付同苗江御馳走ニ可罷出旨
 御物頭月番より申来ル
 同 十三日 晴ル
一 親人様朝五ツ前より加古川江御出被成候尤供人江朝飯給候
一 寄宿寮出席
一 夕八ツ時邊より蔵之進召連出羽守様御通り拝見ニ出候
 同 十四日 晴ル夕七ツ頃より曇ル
一 寄宿寮加番
一 親人様加古川より九ツ半前御帰宅被成候
一 若黨理左衛門 原助両人江弐百文江も[ヅゝ]被遣候事尤
 出羽様より御會釈御座候ゆへ之事
 同 十五日 村曇り七ツ頃時雨夜分晴ル
一 月波廻勤
一 昼邊より蔵之進召連国分村江鮒釣ニ参候
 同 十六日 晴ル
一 学問所出席 寄宿寮出席 繰形
一 山田善五郎今日より仁壽山へ罷出候
 同 十七日 晴ル夕八ツ半頃より曇ル夜五ツ前より雨天
一 寄宿寮當番
 同 十八日 晴ル昼事より曇り八ツ邊より雨七ツ頃より晴ル
一 学問所出席 寄宿寮出席
 同 十九日 曇り昼後より晴ル
一 寄宿寮加番 四十度
 同 廿日 快晴
一 学問所出席
一 塩硝合今日より相始候  *塩硝合始め
 同 廿一日 快晴
一 寄宿寮當番
一 水野出羽守様御卒去ニ付鳴物御停止之御觸来ル
 同 廿二日 快晴
一 学問所出席   塩硝合ニ出
 同 廿三日 曇り昼頃より晴ル夜分曇り
一 終日塩硝合ニ罷出候
 同 廿四日 曇り昼邊より雨天
一 学問所出席   塩硝合ニ罷出候
 同 廿五日 終日雨天
一 寄宿寮當番 昼後頼合 塩硝蔵へ罷出今日ニ而仕舞  *塩硝合終り
 同 廿六日 晴ル
一 学問所出席 寄宿寮出席
一 昼後御厩ニ而責馬致候   夕繰形
一 河合惣兵衛方ニ而男子出生
 同 廿七日 曇ル夜五ツ時頃より雨天
一 福田軍十郎 設楽倭左蔵鎗術数入身有之出席  *鎗術数入身
一 寄宿寮八ツ時より當番
一 松平左仲殿御死去
 同 廿八日 雨天昼邊より上ル
一 御七夜御祝儀之恐悦へ御本城へ罷出御帳附候  *御七夜:喜代姫の七夜の祝
一 学問所出席   昼後蘭植替致候  *蘭植替
 同 廿九日 晴ル
一 寄宿寮昼後出席
一 役人町出頻数等其外家事ふ取しまり御叱御心付ヶ等有之候事
 同 丗日 晴ル夕八ツ邊中雷鳴
一 寄宿寮當番
一 与兵衛方より先日之書付差越親人様之御刀鮫之事  *親人様之御刀鮫
 申越候ニ付即国俊之刀替鞘之侭ニ而柄外シ差遣候
一 明日より清水鉄炮場出来ニ付稽古相始り候旨森先生より  *清水鉄炮場出来
 福嶋長助へ演説御座候由ニ而通達有之
一 御尋者之御觸来ル

3月1日、はじめて「繰形」の稽古が行われた。これは鉄炮を操る形の稽古であったらしい、どのようにして稽古したのか詳しいことは記録されていない。次いで、炮術に関しては3月10日に火薬を購入、20日から25日の五日間にわたって塩硝合に出席している。翌月の砲術稽古開始にあわせての準備であった。当時は四季打勝手が免されていないため、決められた時期に稽古せねばならなかった。この事は30日に師役の森先生が福嶋長助へ伝え、そこから門人らに順達されたようだ。場所は清水門内にある清水鉄炮場において。

3月2日「一 昨今雛之餅諸向江差遣候事」、先月丗日宅にて拵えた菓子とは雛の餅のこと。前日に配ってしまうようだ。

3月2日「厩普請相始申候尤普請中関氏へ馬預ヶ置申候」、こゝで云う馬とは持馬のこと。三俣家では寛政10年3月12日の達を以て従来の預ケ馬は御免となり、持馬の扱いとなった。これは知行高の問題で、三俣家の知行が加増された為、藩の補助がある預ケ馬を免ぜられた。そのかわり従来の御預馬飼料は増し、一ヶ年金拾両が下されることになった。藩は以降、財政の逼迫によって預ケ馬を減少させる達を度々出す。

 四月朔日 晴ル
一 月次廻勤
一 寄宿寮昼前出席 五十   夕炮術稽古出席  *炮術稽古始め
一 境野氏へ先達而より頼之木柄脇指差遣候
一 前々御觸有之通他所者長逗留無之様御觸面有之
 同 二日 薄曇り
一 学問所出席
一 松平葬式四ツ時自分罷出候 帰り後風邪ニ而打臥  *風邪始り
 同 三日 薄曇り夕方雨少々
一 寄宿寮頼合   今日より杉氏薬貰候   薬三服
 同 四日 薄曇り昼邊より晴ル
一 学問所頼合   炮術頼合   薬五服
 同 五日 曇ル昼頃少々雷鳴
一 寄宿寮へ頼手紙差遣候   薬五服
一 馬飼料今日請取
 同 六日日 晴ル昼頃より雷鳴後より雨夕方晴ル
一 学問所頼合   薬五服今日ニ而休  *風邪終り
 同 七日 晴ル昼邊より曇り夕七ツ頃より雨夜分大雨
一 寄宿寮當番
 同 八日 雨天昼邊より晴ル
一 寄宿寮當番
一 大橋傳右衛門夕七ツ半過病氣差重り之為知来ル早速病死之由
 同 九日 晴ル
一 御厩出席 寄宿寮昼前出席
一 今日家内不残高濱江金原大河内吉田家内等同道に□□
 五ツ半頃より罷出夜六ツ半前帰り候若黨理左衛門重次両人
 同 十日 晴ル
一 学問所出席 寄宿寮出席 炮術出席
一 大橋氏葬礼八ツ時両人共出候
 同 十一日 晴ル
一 寄宿寮當番
 同 十二日 晴ル
一 寄宿寮當番
一 素讀試有之  *素讀試
 同 十三日 晴ル
一 寄宿寮出席 御厩出席   炮術出席
一 喜曽姫君様御事御嫡女之御事ゆへ姫君様与可被称旨  *喜曽姫君様御嫡女
 御觸有之
 同 十四日 曇り昼前より雨天
一 学問所出席 寄宿寮出席 五十五
一 角田先生へ吉田氏之墓書相頼候事
 同 十五日 雨天
一 月次廻勤
 同 十六日 晴ル
一 寄宿寮出席當番
一 吉田鉄太改名願之通孫右衛門と被 仰聞候
一 鉄屋江赤金拵之柄并鍔永助ニ頼差遣候  *赤金拵之柄并鍔
 同 十七日 晴ル
一 寄宿寮出席當番
一 鉄屋より国俊之刀差越候  *三月丗日依頼の国俊出来
 同 十八日 晴ル夕方曇ル
一 学問所出席 寄宿寮出席
 同 十九日 晴ル
一 御厩出席   炮術出席
 寄宿寮出席
一 福田氏より鉄炮代之内金四両請取  *鉄炮代之内金
 同 廿日 曇り夕八ツ頃より雨
一 寄宿寮當番
一 河合藤太世話之鉄炮代金弐両壱歩當人持参之由  *鉄炮代金
 同 廿一日 雨八ツ過晴懸ル暮方より雨
一 寄宿寮當番 六十
一 姫君様御七夜御祝儀之節 若殿様被成 御拝領物候
 為御禮被成 御登城候様御用番松平周防守様より
 依御達當朔日被成 御登城於 御黒書院右御禮無
 御滞被 仰上被為蒙 御懇之上意 御手自御慰斗
 被成候由 御觸有之   御本城御帳有之事
○親人様大日河原江組之者稽古御見物ニ被成御出候  *組之者稽古見物
 同 廿二日 村天氣
一 学問所出席 寄宿寮出席 炮術出席
一 御本城ニ罷出御帳ニ附
一 鉄屋より鮫鞘之刀并親人様之巾着出来参候  *鮫鞘之刀并親人様之巾着
 同 廿三日 曇り五ツ晴ル
一 寄宿寮河合氏代番
 同 廿四日 天氣 夜九ツ頃より雨
一 寄宿寮當番
弐歩金五十両之内
一 鉄屋与兵衛方より印籠并金之馳持参ニ而金五両
 貸候   右六月六日ニ元利入
一 鮫鞘之刀小口切直し遣候  *鮫鞘之刀小口切直し
 同 廿五日 雨天
一 寄宿寮昼後出席
 同 廿六日 曇り昼過ぎより晴ル雨天
一 寄宿寮當番
一 本堂之方御人少ニ付角田氏より頼越ニ付五ツ半頃より本
 堂之方へ素讀済候上出席候
 同 廿七日 曇り昼過より晴ル
一 御厩出席
一 武金次郎 根岸増之丞鎗術数入身致候付四ツ過より夕方迄
 出席致候事
 同 廿八日 晴ル
一 学問所出席   炮術出席
 同 廿九日 天氣
一 寄宿寮當番
一 御本城江罷出御帳附

4月27日、鎗術数入身が行われた。これは無邊無極流の行事にて、当事者に対して門弟たりが次々と入身を仕掛けるというものだ。三俣家においてもこの千入身を行っており、後に藩から褒美が下されている。

日記に度々登場する鉄屋与兵衛。三俣家の刀に関する仕事を引き受けている。
「兼定」「国俊」は共に有名工。
「鮫」については、単に柄の鮫というのではなく、どうやら鞘に着せているらしい。そういった拵は少なからず現存しており、度々目にする機会がある。手間のかゝる仕事であり、それなりの身分の武士が佩いたものだろうか。稀に大小共に鮫着を見る。以下、鉄屋の用件抜粋。

2.21
一 与兵衛兼定之代金致持参候
2.25
一 鉄屋与兵衛夕方参り舊鮫之共拵頼候共之外拵付之共
 弐本遣候
3.30
一 与兵衛方より先日之書付差越親人様之御刀鮫之事
 申越候ニ付即国俊之刀替鞘之侭ニ而柄外シ差遣候
4.16
一 鉄屋江赤金拵之柄并鍔永助ニ頼差遣候
4.17
一 鉄屋より国俊之刀差越候
4.22
一 鉄屋より鮫鞘之刀并親人様之巾着出来参候
4.24
弐歩金五十両之内
一 鉄屋与兵衛方より印籠并金之馳持参ニ而金五両
 貸候   右六月六日ニ元利入
一 鮫鞘之刀小口切直し遣候

掲載史料及び参考資料
『天保五年日記』私蔵文書
『姫陽秘鑑』姫路市史編集室 姫路市
『姫路藩家臣録』姫路市立城郭研究室所蔵
『姫路城史』橋本政次著 名著出版
『姫路市史』姫路市史編集委員会 姫路市
『兵庫県史』兵庫県史編集専門委員会 兵庫県
『前橋市史』前橋市史編纂委員会 前橋市

姫路藩士の日記 天保5年1月-2月

天保5年は酒井忠實公(祇徳院)の治世二十年目にあたる。襲封前には七十三万両あった負債を殆ど償却して一部を残すのみであったと云う(『姫路城史』)。翌年4月に隠居する忠實公はこの時すでに老いのためか持病の足痛と疝癪が悪化していた。前年の5月には国許に帰ることを幕府より許されていたにもかゝわらず、この持病がために滞府の届をなし江戸に居続けた。結局、天保5年の3月、更に滞府を願い次の参府まで居続け、そのまま5月に参勤した。つまり、こゝに紹介する日記が執筆された天保5年の姫路は藩主不在であった。

日記の執筆者は三俣義陳と云い、姫路藩士 義武(24才)の長男として文化4年(1807)7月21日姫路に於いて生れた。
母は同藩士 山田益興の娘。当時健在であった祖父義行(54才)が出生届を行った。奇しくも同月24日曾祖父の義豊が93才で歿した。

先ず義陳の出生より今回紹介する日記の天保5年に至るまで、家譜に記された主な出来事をこゝに挙げる。

 文政4年(1821)15才 不易流銃術に入門 袖附
 文政6年(1823)17才 前髪
 文政7年(1824)18才 関十郎太夫正舛の娘と縁組 不易流銃術目録
 文政9年(1826)20才 婚姻
 文政10年(1827)21才 摂州西成郡の御手当と不易流炮術の火業細工を命じられる
 文政11年(1828)22才 無邊流鎗術千入身を行う 不易流銃術世話役となり免許となる 大蔵流弓術出精により褒美を下される
 文政12年(1829)23才 長男義章が生れる
 天保1年(1830)24才 摂州西成郡の御防御人数大筒下役を命じられる
 天保2年(1831)25才 偶数の日の句讀手傳を命じられる

そして、日記が執筆された天保5年(1834)、義陳は28才。
父義武は51才、家督以来、名君酒井忠實公に仕え、高四百石、御物頭・勘略奉行を兼任していた。

天保五午年
  日記

      前橋天川町入口左側
           高橋清三郎
       但シ江戸より入口ニ而左側之裏家

 正月元日 天氣
一 年礼廻勤親人様御若黨理左衛門宜様取次厚助重次
 同 二日 晴ル
一 親人様外側御廻勤
 同 三日 晴ル
一 自分蔵之進召連佛参致候  *蔵之進は義陳の子、このとき6歳
 同 四日 晴ル
一 昼後より不易流手傳世話同道ニ而先生宅江参り稽古始メ  *不易流銃術
 廿一日と極メ廻章出候
 同 五日 晴ル
一 御厩乗初出席 天野宅稽古始出席  *御厩乗初
一 宅之居合稽古始有之  *柔新心流居合
 同 六日 雨天
一 江戸江年始状認候
 同 七日 晴ル
一 景福寺へ昼前致佛参候 昼後町廻り致候  *景福寺:酒井家の菩提寺
 同 八日 晴ル
一 鹿万津へ遠馬へ参候連中 境野象之助 秋間八太郎
 豊田精蔵 笹沼閏次 坂井金三郎 五十嵐辰右衛門 自分
 同 九日 天氣夕方より雨天
一 河合小太郎殿暁七ツ時御出立 両人共御見立テニ出候  *暁七ツ時:午前4時頃
一 組之者へ具足披キ御酒被下有之
 同 十日 雨天
一 天野氏ニ而昼後より舞稽古開キ有之親人様并自分蔵之進
 見物ニ参候  *舞の稽古開きにつき父・子・孫が三代揃って見物に行く
 同 十一日 暁前より晴ル
一 小役人等御用召有之
 同 十二日 晴ル
一 学問所稽古始出席 鎗術同断  *無邊無極流鎗術
 同 十三日 度々村時雨
一 二月末舩場御蔵より出候旨御觸来ル
 同 十四日 同断
一 学問所出席
 同 十五日 村天氣
一 御弓場始延引ニ相成候
 同 十六日 天氣
一 学問所出席
 同 十七日 雪氣
一 御厩出席
 同 十八日 晴ル
一 学問所出席 寄宿寮出席
一 御弓場始有之 左之通
  太郎                 扣
   金澤鉄次郎 生形舞太郎 都筑誠九郎 犬塚秀三郎
○●○           次郎
○●○出渕新三郎 井上源之助 本多甲子之助 芳賀岩吉
一 細野幸助御中小姓被召出候
 同 十九日 雪氣
一 寄宿寮出席
 同 廿日 天氣
一 学問所出席 寄宿寮出席
 同 廿一日 晴ル
一 弓術稽古始出席 寄宿寮出席 不易流稽古始出席  *大蔵流弓術
 同 廿二日 晴ル夕方より曇り夜中より雨
一 学問所出席 寄宿寮出席
一 乳母夕方より不快ニ付休ニ遣候
 同 廿三日 雨天
一 御人数御見分可有之処雨天ニ付御延引ニ相成右ニ付諸方休候有之
 同 廿四日 天氣
一 学問所出席 寄宿寮出席 夕鎗術出席
一 御用意騎馬被 仰付候有之
 同 廿五日 晴ル
一 御人数揃御見分有之候但シ九ツ時揃右ニ付諸方休ニ相成候
 同 廿六日 晴ル
一 学問所出席 寄宿寮出席
 同 廿七日 曇り夕七ツ前より少々之雨
一 鎗術出席 寄宿寮出席
 同 廿八日 晴ル
一 鎗術出席 夕弓術出席
 同 廿九日 晴天
一 御厩出席 寄宿寮出席 夕鎗術出席
一 大工瀬衛より金子弐拾両持参致候

義陳は当年28才とはいえ、父が健在であったから役目には就いておらず、このように年始から学藝・武藝に日々勤しんでいた。

頻りと出席している「学問所」とは「大手学問所=好古堂」のことにて、文化13年閏8月手狭となった総社門内から櫻町大手下馬先屋敷に移転し拡張された学校のことである(後の天保十三年仁壽山黌の廃止にともない大手門西方に新築される)。度々出席している「寄宿寮」というのも学藝に関わるもので、文化8年好古堂御長屋を学寮とし、林点派・嘉点派、隔日に読書・会読等をさせたていたようだ。「偶数の日の句讀手傳」に任じられていた義陳は、この通り偶数の日に好古堂へ出席し手伝いをしていた。

武藝の方では「鎗術」に最も力を入れており、12日の稽古始に出席し、月末は24.27.28.29日と立て続けに稽古している。この鎗術とは酒井家の御流儀であった「無邊無極流鎗術」のことにて、公儀の鎗術師役山本家も関わり比較的身分の高い武士が稽古していた。義陳の家においては祖父・父もまた無邊無極流を執行し山本家より印可を相傳されており、殊に熱心に執行したものと思われる。鎗術のほかには「大坪新流軍馬」「大蔵流弓術」「不易流銃術」などを執行しており、この年までに大蔵流弓術・不易流銃術は免許を相傳されていた。


『分間江戸大絵図:貴9-48』天保4年(1833)-国立国会図書館所蔵

山本嘉兵衛の屋敷は小川町表神保小路にあり、五百坪。これを『分間江戸大絵図』に見れば、酒井家の御屋敷から神田橋御門を出た北西に位置していた。山本嘉兵衛が酒井家屋敷へ出張し指南したのだろう。

「不易流銃術」は『姫路城史』でも触れられていない知名度の低い流派ではあるが、藩の砲術七流のうちでも関流に次ぐ勢力があったのではないかと思う。そもそも関流と不易流は共に元禄のころ酒井忠挙公によって御家に取り入れられた流派にて、性質が異なることから上手く棲み分け存続してきた。殊に不易流は時々の藩主の手厚い庇護を受けており、同流九代目・十代目の師役は酒井忠學公(謙光院)・酒井忠宝公(緝光院)・酒井忠顕公(顕徳院)に指南しており、酒井家の御流儀と云うべき格のある流派であった。こゝに挙げた以前の藩主も同流を学んでおり、文久2年11月29日の史料には「御上御前代様多クハ不易流被遊候故御流儀と相唱餘流ゟハ御扱ひも違ひ御手宛等被下置候事も御代ニより有之候事ニ御座候、當時ハ御模様も相変り候へとも前ニハ御旗本御備御秘事臺玉業等一切不易流之事ニ御座候」と記されている(御模様も相変り、とは西洋流の擡頭によって不易流が御減流となったことを指す)。尚、日記の執筆者である義陳が、後に同流最後の十代目師役となる。

 二月朔日 晴ル
一 月次廻勤 弓術出席   夕宅ニ而繰形稽古
一 家内不残天野氏江年始旁囃子見物ニ参候
 同 二日 晴ル
一 学問所出席   別當弥助へ暇遣候
一 昼後より鹿万津へ遠馬へ参候連中 五十嵐昌左衛門 高須吉之丞
 村角郡一郎 境野彦次郎 笹沼閏次 辰右衛門 自分
 同 三日
一 御厩出席 寄宿寮出席 弓術出席之処好古堂
 肝煎當番より御用之由ニ而人参り候ニ付早速召出候処左之通
 當寮肝煎役被 仰付尤御懸り意氣揚殿より可被 仰付処  *寄宿寮肝煎役となる
 今日御出席無御座ニ付肝煎當番原田四郎左衛門より
 被申達候右ニ付東寮當番石田金八江懸合南寮へも
 罷出候処宇津木氏へも被 仰付候由ニ而左之通廻勤致候事
 内藤様 本多様 村角 小川 長澤 其外 肝煎同勤
 手傳江参候
一 授読同勤江廻章出候
一 唐人止宿ニ付親人様町廻り被成候
 同 四日 晴ル
一 御厩出席 寄宿肝煎見習出席
 同 五日 晴ル
一 寄宿寮加番へ出席
 同 六日 晴ル夕方より曇ル夜分晴ル
一 寄宿寮當番出席   夕繰形稽古
一 力丸五左衛門殿百石御加増 伊奈平八帰役
一 籠谷弥太郎方へ雛申遣候
 同 七日 晴ル
一 寄宿寮出席   夕鎗術終日ニ付罷出候
 同 八日 晴ル
一 寄宿寮加番
一 石田屋敷之芍薬取ニ参候  *芍薬
 同 九日 晴ル
一 寄宿寮當番
 同 十日 晴ル
一 学問所出席 寄宿寮石田氏代り當番
 同 十一日 晴ル
一 寄宿寮加番
一 出渕三郎兵衛 河合小散殿妻昨十日病死致候
一 野里おゝの町夕七ツ前よりより[誤字]出火親人様御火見番ニ付
 早速御出張被成候
 同 十二日 晴ル夕方より曇り夜中より大雨
一 寄宿寮當番
 同 十三日 村時雨
一 寄宿寮出席   夕賭弓稽古出席  *賭弓(のりゆみ)
 同 十四日 晴ル
一 寄宿寮加番
一 夕大輪講鬮當り 石田金八 戸倉辰吉 河合勧次郎 鳥山龜弥
         柴田九郎助 片山庄助 利根川弥作
 同 十五日 曇り昼後村時雨
一 月次廻勤   夕賭弓稽古出席
 同 十六日 晴ル
一 寄宿寮當番
 同 十七日 晴ル夕方より曇り夜分風強く
       少々雨足遅延
一 御厩出席 寄宿寮出席
一 針谷氏御家内年始ニ御出有之
 同 十八日 晴ル
一 寄宿加番昼時より引 夕賭弓見分出席
 同 十九日 晴ル
一 寄宿寮當番
 同 廿日 晴ル
一 学問所出席 寄宿寮出席
一 昼後天野宅ニ而百射致候
一 内藤甚之丞殿より呼ニ参り罷出候處吉田氏へ的矢御約束  *的矢御約束
 之由被仰鉄太よりも右之義手紙ニ而申越ニ付一手差上申候
 同 廿一日 曇り夕方より雨
一 寄宿寮加番
一 針谷氏へ天野氏同道ニ而山田家之身代并諸書付
 致持参相渡し申候
一 与兵衛兼定之代金致持参候  *鉄屋与兵衛、兼定の代金
 同 廿二日 少しツゝ雨昼前より上り晴ル
一 寄宿寮當番
 同 廿三日 天氣
一 味噌搗込致候   夕弓術出席
 同 廿四日 曇り七ツ頃より雨天
一 学問所出席 寄宿寮加番
一 江戸表御中屋敷御類焼ニ付御本城江御機嫌窺ニ罷出可申
 御觸来ル早速御帳ニ罷出附候
一 関氏養子頼相済
一 福嶋長助御武具方本役被 仰付候  *福嶋長助
 同 廿五日 曇ル
一 寄宿寮當番
一 鉄屋与兵衛夕方参り舊鮫之共拵頼候共之外拵付之共  *鉄屋与兵衛
 弐本遣候
一 お晴乳母今日暇遣候尤請人江も立銀等之事懸合申候
 同 廿六日 晴ル
一 学問所出席 寄宿寮加番
一 関氏聟養子■一郎今日御出ニ付宅江も七太夫殿
 御連御出被成候
一 昼後離建候  *離を建てる
 同 廿七日 雨天
一 寄宿寮加番
 同 廿八日 曇ル夜分より晴ル
一 学問所出席   夕弓術出席
 同 廿九日 晴ル
一 寄宿寮當番
 同 丗日 晴ル
一 学問所出席 寄宿寮出席 夕宅ニ而菓子拵候
一 山田善五郎 出渕新八郎 都筑五百助仁壽山勤学被仰付候

掲載史料及び参考資料
『天保五年日記』私蔵文書
『姫陽秘鑑』姫路市史編集室 姫路市
『姫路藩家臣録』姫路市立城郭研究室所蔵
『姫路城史』橋本政次著 名著出版
『姫路市史』姫路市史編集委員会 姫路市
『兵庫県史』兵庫県史編集専門委員会 兵庫県
『前橋市史』前橋市史編纂委員会 前橋市

斎藤弥九郎の手紙、品川沖測量及大筒鋳造

[前欠]
一 来春はアメリカ軍艦
数艘渡来の趣専風聞
いたしロシヤ イキリス
各追〃渡来の風聞にて
有志の輩一同心配罷在
此末如何可相成哉何れ
にも士氣作興の時節
兵士は釼炮の二道
精練いたし□□随て
鎗馬水軍是又専務
の入用に御座候処兎角
一寸逃退候て尓今張込無之
輩も沢山にて難敷事と奉存候
御地は近頃殊外御盛の
趣松本氏より承知仕至極
の御儀と奉存候全御世話
御行届罷在候段奉感拝候
猶□□御引立等御骨折
の處奉祈候當今の
士風都下の様子等右
四人の者共より御承知可被下候
時に御案否も可相伺処
六月初異舩渡来より
此方大取込品川沖
浅深測量分間いたし
去月中より本郷於桜馬
場大筒鋳造相掛日〃
奔走いたし候不得寸暇
意外の御無音偏に
御海恕可被成下候忰義も
越前公より御頼にて罷越
留守にて是又御無沙汰
申上候右四人の義は
何分宜敷奉希候様此段
可得貴意候如此御座候猶
後便萬〃可申上候
    艸〃頓首

九月八日 斎藤弥九郎

 黒川左右次郎様

尚〃折角時候御厭可然奉存候
乍憚其御社中様方へ
宜敷奉希候當方相應の
御用等無御座候□□


米国使節東印度艦隊司令長官海軍代将ペリーの退去より、斎藤弥九郎翁が手紙を認めた九月八日までの幕府の主な動向は下記の通り。

嘉永六年 『維新史料綱要』

六月十三日 幕府、米艦退去に依り、非常警戒を解き、内海警備を撤せしむ。

六月十四日 老中阿部正弘、海防掛川路聖謨・同筒井政憲を前水戸藩主徳川斉昭邸に遣し、米艦退去後の措置を議せしむ。

六月廿三日 幕府、三奉行・大小目付及海防掛に命じ、予め米国軍艦の再渡及諸外国船の渡来に対する措置を議せしむ。

六月廿六日 幕府、評定所一座・三番頭等に米国国書を示して意見を徴す。

六月廿七日 幕府、米国国書を溜詰諸侯に示して意見を諮ふ。

六月晦日 幕府、代官に命じて江戸沿岸の浅深を測量せしむ。

七月朔日 幕府、米国国書を諸侯に示して其要求の許否如何を諮る。尋で三日同じく高家以下布衣以上の有司に意見を徴す。

七月朔日 幕府、麾下士に諭し武備に習熟せしむ。

七月廿三日 幕府、令して海防施設に係る工事は普請停止中と雖中止すること勿らしむ。

七月廿五日 勘定奉行川路聖謨・韮山代官江川太郎左衛門、旗山・十石崎・富津間海堡築造の議に対へ、事歳月を要するを以て、寧ろ江戸近海の施設を急にするの可なるを論ず。

八月二日 幕府、勘定奉行松平近直・同川路聖謨・勘定吟味役竹内保徳・韮山代官江川太郎左衛門及海防掛に命じて、江戸内海に砲台築造の事を計画せしむ。

八月六日 幕府、韮山代官江川太郎左衛門の内願に依り、岡部藩に御預中の高島四郎太夫を赦し、其配下に属せしむ。

八月九日 幕府、米国国書に対する意見の提出を諸侯及麾下士に促す。

八月十日 幕府、江戸諸藩邸に於て四季空砲打調練を行ふを許し、且藩地に備へて猶剰れる銃砲を江戸に送致せしむ。

八月廿四日 品川台場築造位置を検分す。

八月廿八日 幕府、勘定奉行松平近直・同川路聖謨・目付堀利忠・勘定吟味役竹内保徳・韮山代官江川太郎左衛門等に内海台場普請及大筒鋳立掛を命ず。

八月晦日 露国舩一艘、北蝦夷地久春古丹に来り、乗員上陸営舎を構築す 松前藩主松前崇廣、報に接して戎兵を発す。

是月 幕府、湯島桜之馬場に鋳砲場を設く。

九月八日 幕府、江戸外郭諸邸に於ける調練の制限を撤し、専ら実用に力めしむ。


欠けた前紙には「右四人の者共」のことが記されていたようです。斎藤弥九郎翁の門下生でしょうか、「當今の士風都下の様子等右四人の者共より御承知可被下候」と江戸から下った様子であり、末筆では黒川左右次郎に「右四人の義は何分宜敷奉希候」と頼んでいます。
ときに斎藤新太郎もまた出払っており「忰義も越前公より御頼にて罷越留守にて是又御無沙汰申上候」、そのため一層ご無沙汰であったことが伝えられており、黒川左右次郎は斎藤父子と面識があったと捉えられます。力及ばず宛先の人物を詳らかにすることは出来ませんでした。文面から察するに遠方に住まう人物でしょう。
さて、手紙が認められた時、「来春はアメリカ軍艦が数艘渡来するとの趣、専ら風聞があります。ロシヤ・イギリス各追〃渡来の風聞にて有志の輩一同は心配しています。この末いかゞ成ることか」と都下身辺の情勢を伝え、「いずれにしても士氣を作興すべき時節」と武藝を盛んに行うべき論に移ります。「兵士は釼術・炮術の二道を精練いたし」、「鎗術・馬術・水軍もこれまた専務の入用」と自説を披歴、実際そのようにしようとしていたようですが、「兎角ちょっと逃げ退って、これから張り込みもない輩も沢山にて難しいことだ」と思い通りにはいかない様子です。
次いで、江川太郎左衛門の配下として「六月初めの異舩渡来より今まで大取り込み、品川沖の浅深測量や分間いたし、去月中よりは本郷桜馬場において大筒の鋳造に掛り、日〃奔走」と寸暇を得ない状況が伝えられています。
「品川沖浅深測量分間いたし」とは年表中の「品川台場築造位置を検分す」のこと、「去月中よりは本郷桜馬場において大筒の鋳造に掛り」とは「幕府、湯島桜之馬場に鋳砲場を設く」のこと。どちらも幕府が喫緊の課題として取り組んでいた海岸の防衛に関わる事です。

此の手紙には、単なる剣術家ではない斎藤弥九郎翁の真面目が見られます。

掲載史料及び参考資料
『斎藤弥九郎書簡』私蔵文書
『維新史料綱要』維新史料編纂事務局

伝書の用意(三)

前回に引き続き「伝書の用意」について。
今回は関連する史料を掲げます。

江戸時代の後期かと思しき桐箱に収められています。おそらくは伝書の製作とあわせて誂えられたものでしょう。居合の”居”の字は、中が”立”の字に書かれており、何がしかのこだわりが感じられます。

各巻はこのように判・印を欠いています。
当初私は、この伝書が藩主へ披露するために作成されたのだと考えました、だから判・印を敢えて欠くのだと。
しかしそれが思い違いであることは間もなく分かりました。
その答えは忠恕公にあります。
渡邉量平が下野宇都宮藩の剣術師役であったことからして、忠恕公とは同藩の藩主戸田忠恕公のこと。公は天狗党の乱のとき責任を問われて藩主の座を退けられ隠居させられます。ときに18才。
こゝに掲げた伝書は、そのような出来事があったから未伝のまゝ保管されたのではないかと思い至りました。或いは、公が22才の若さで早逝する慶応4年5月までには戊辰戦争があり、そのごたごたがあった為に傳授が延期されたという可能性もあります。こちらの方が有力かもしれませんね。どちらにせよ、未伝の理由は披露のために作成されたからではなく、そういった藩主の事情によると見て良いのではないでしょうか。

今回の「伝書の用意」というテーマに従えば、この未伝の伝書は藩主の側か師役の側かどちらが用意させたのか明らかにすべきですが、その手掛かりはなく果たせませんでした。

最後に、戸田忠恕公の武藝履歴というのは今日伝えられておらず、こゝに掲げた四巻によって忠恕公が直心影流・林崎甚助流居合の免許を相傳されるほど武藝を嗜まれていたことが明らかとなったのは幸いでした。ほかにも執行されていたのではないかと思います。

 掲載史料-私蔵文書

伝書の用意(二)

前回に引き続き、伝書の用意に関わる手紙です。この場合も弟子の側で伝書を用意しており、当時はひょっとすると弟子の側で用意することが珍しくはなかったのかもしれません。あるいは普通のことだったのか、誰も研究していないことですから、その辺の事情は確たることが分りません。

さて、手紙を認めたのは表具屋であり、山鹿流の傳書三巻の製作について述べています。書中、山鹿流云々とは触れられていませんが、そのものを実見しました。この伝書三巻は弘化四年・嘉永三年付、巻子装、料紙は上下境界引、表具裂はなくもとは有ったのだろうと思います。
年紀に隔たりあり、しかしまとめて製作される。これは当時において、珍しいことではなかった筈です。というのも、そういった年紀の隔たりがあるにもかかわらず、装幀が同一のものを少なからず見かけるからです。

表具屋の仕事の範囲はどのようなものだったのでしょうか。
手紙を読みますと「尚々被遣候御手本巻物壱巻御戻し申上候」の一文があることから、表具丈けの仕事ではなく、渡された手本に従って全て表具屋任せで製作されたことが分ります。その工賃は「壱巻ニ付代弐匁七分ツゝ」。さほど高くはなかったようです。

次に伝書を注文した桑原権之助という人物、この人は尾張藩の郷士にて、織田・徳川に仕えた由緒ある家柄。代々が桑原権之助の名乗りを世襲したそうです。
先述のとおりこの人は山鹿流の師範ではなく、山本多右衛門という軍学師範に学んでいました。


桑原権之進様 表具師 森太兵衛
     御報

前書難有拝見仕候然者
巻物三巻御注文被下
難有奉存候壱巻ニ付
代弐匁七分ツゝニ而仕立
差上可申候當春も彼是
多忙罷在候間何連来月已後
ナラテハ出来不仕候間左様御承引
奉願上候先者右御報旁
恐々頓首

正月五日

尚々被遣候御手本巻物壱巻
御戻し申上候御落掌可被下候以上

 掲載史料-私蔵文書

伝書の用意(一)

姫路藩の初代藩主酒井忠恭公(古岳院)が無邊無極流鎗術を稽古していたおり、御相手を勤めていた平林儀助があやまって君の御手を強く痛め夥しい血が流れた。
この出来事があって皆が肝を冷やしていたところ、酒井忠恭公が公儀の鎗術師範 山本嘉兵衛へ「およそ稽古は少しも控えなく力量一杯に致さねば宜しからず、大方は控えめに致すゆえ大名藝と申して真のところは出来兼ねず、彼(平林儀助)がようなる向う見ずな者がいなければ私の稽古も上達しませぬ」と話した。
いかゞすべきかと恐れ入っていた平林儀助は、この御意を伝え聞き有り難いことだと思った。『姫陽秘鑑』

この逸話は、酒井忠恭公が無邊無極流を熱心に学んでいた当時の状況をよく伝えています。
また、次代の藩主酒井忠以公(超宗院)もまた公儀の山本嘉兵衛に師事し皆伝を伝授されました。

さて、こゝに紹介する手紙は、公儀の鎗術師範 山本嘉兵衛に宛て、用意した印可の巻物九巻に名前と判形を下さるよう願い、あわせて略儀であることを詫び、且つ神文も九通送った旨を述べたものです。但しこれは下書。
私はこの手紙を読むまで、傳書というものは師範の側で用意するのだと無意識に思い込んでいました。というのも、あまり斯ういったことは記録に残されないからです。
しかし調べてみると、姫路藩の御流儀である無邊無極流に関しては「御流儀鎗術印可被下置候節之事」という定があり、家中の士で鎗術印可のときは以来巻物を自前で拵えるべき旨が藩内に布達されていました。惣領分や御中小姓には代金壱両が藩より下されます。

御流儀鎗術印可被下置候節之事
一御家中之者槍印可被下置候節巻物以来自分ニ而拵可申
候惣領分御中小性巻物代金宛被下置候旨被 仰付
候段松平島図申渡之              集書

 猶々向暑□□[之節]折角
 御自愛被遊候様ニ奉存候
 乍序時候御容躰も相伺
 申上候猶追〃對弁ニ申上候
 以上

一筆啓上仕候先以而暑
相募候得共益御勇健被為成
御座目出度御儀奉存候且亦
先達而御流義御鎗御傳授
被下候面〃今度御印可御巻物
相認候ニ付差上申候御名前
御判形被遊被下候様ニ仕度候勿論
巻数九通り遠路之儀ニも
御座候間入器一ツニ相包差上申候
略儀之段偏御用捨被下候様ニ
何茂宜申上呉候様呉〃申聞候
神文茂九通相添差上申候
何分可然様奉頼上候此段
為可申上捧愚札候恐惶謹

    金原浅右衛門
 月日     名前判

山 嘉兵衛様  宗豊(判)
   御披露


金原浅右衛門の名は、明治2年の『巳年増減替〆帳』によれば高二百六十石、幕末に海防のため出兵した藩兵名簿の頭取にもその名を見出せます。

卯可巻物を無事受け取ったものは、その御礼を認めた。但しこれは下書。

一筆啓上仕候薄暑
之節益御勇健可被為成
御座恐悦奉存候此度
御流儀御印可御傳授
被成下右御巻物拝受仕
過分至極
難有仕合奉存候乍憚
右御禮為可申上捧愚札候
恐惶謹言

     河合五郎三郎

嘉兵衛様
   参人〃御中


この後、山本嘉兵衛は贈られた御肴代の御礼を認めた筈です。

掲載史料及び参考資料
『金原浅右衛門書簡下書』私蔵文書
『河合五郎三郎書簡下書』私蔵文書
『姫陽秘鑑』姫路市史編集室
『姫路藩家臣録』姫路市城郭研究室所蔵
『播磨姫路藩三俣家文書』私蔵文書