真影山流居合傳談と渋谷流釼術傳播の経緯


『石川光實記録』筆者蔵

文政六年.石川八太郎(仙臺藩士石川龍之助の子)は丹波柏原へ旅します.
旅の目的は真影山流の師範を尋ね.傳書を引き合せ.流義の傳落(傳授の欠落)を埋め.流義の筋を糺そうというものでした.

ところが.いざ丹波柏原を訪れてみると.噂の真影山流師範はすでに病死し.流義は絶傳したとのことです.
土地の人にその話しを聞く中.石川八太郎は二刀の流義渋谷流釼術の存在を知ります.
渡りに舟と.八太郎はさっそく同流の師範を尋ね.旅の事情を話したところ.特別の好意によって渋谷流釼術の指南免許までを相傳され帰国の途につきました.

こゝでは旅をした石川八太郎本人の記録[嘉永七年の分]に着目し.その経緯を取り上げます.
なお.この記録は旅してから三十年後.藩の下問に対し答えたときの記述です.


一真影山流居合の儀は.常州瀧ヶ崎の産關口武左衛門と申者御国許へ罷越指南仕候より相傳り候流義に御座候処.
一.真影山流居合は.常州瀧ヶ崎の産關口武左衛門という者が御国許へ来て指南してより傳わった流義です.

近年傳談等仕度義も候はゝ.水戸様御藩中へ極意の傳書同筆にて残し置候間.流義紛乱の事も候はゝ罷登傳書引合可申.
近年.流義に紛乱の事もあり.傳談したいこともあるという状況でした.水戸様の御藩中へ極意の傳書同筆[自筆のこと歟]にて残されているので.尋ねて行き傳書を引き合わせたいと思っていました.

尤流義元祖影山善賀入道清重生國は丹波八木の産の由申傳候に付.同所にも右流可有之候間.流義執心の者相出候はゝ罷登相尋傳書引合置可申候申置候由に付.
それに流義の元祖影山善賀入道清重の生国は丹波八木と傳えれており.同所にも流義が伝承しているのではないか.流義に執心の者がいれば尋ねに行き傳書を引き合わせたい思っていました.

師匠高橋善太夫義罷登度心懸罷在候得共.病身に罷成候に付.拙者儀為修行罷登候様兼々談し御座候間.罷登度心懸罷在申候.
師高橋善太夫が尋ねに行こうと思っていたのですが病身に成ってしまい.拙者が代わりに修行のため尋ねに行こうと.兼々話しておりました.

然に安房殿内滝川河内と申陰陽師.陰陽道にて諸國偏歴中丹州柏原織田出雲守様御藩中久下久助と申者.真影山流指南仕居候を見候由咄候に付折入承り申候処.
そんなところに.安房殿の内滝川河内という陰陽師が.陰陽道にて諸国を偏歴中.丹波柏原 織田出雲守様の御藩中で久下久助という者が真影山流を指南しているのを見たと咄しますので.折り入って話しを聞いたところ.

手数遣方入身構等迄同流に相違無之様子に候間.右の趣師匠善太夫へ為申聞候処.
手数・遣方・入身・構えなどまで同流に相違無い様子でした.このことを師善太夫へ傳えたところ.

元祖生国と云關口武左衛門申置候事も候間.定而同流師家に可有之候間.
元祖の生国と云い關口武左衛門が伝えたこともあり.定めし同流の師家であろうから.

罷登傳書引合傳落等も候はゝ随身稽古仕傳来仕候様.右善太夫談に付.文政六年十一月御暇願申上如願御暇被成下候に付.
尋ねに行き傳書を引き合わせて.傳落等もあれば随身して稽古し傳来するように.と師善太夫が話しましたので.文政六年十一月.藩に御暇を願ったところその通り御暇を下されたので.

同七年正月丹波柏原へ罷登.右久助相尋申候処.久助義は先年病死流義及絶傳候由に付.
同七年正月.丹波柏原へ行き陰陽師に聞いた久下久助を尋ねました.ところが.久下久助は先年病死し流義は絶傳したとのこと.

尚委敷相尋申候処.中川小左衛門と申者.渋谷流と申二刀の流義指南罷在候由に付.遠國迄罷登相尋候流義絶傳仕候上徒に罷下り候も本意に無御座候.
さらに詳しく尋ねてみると.中川小左衛門という者が渋谷流という二刀の流義を指南しているとのこと.せっかく遠國まで来て.尋ねた流義が絶傳している上.徒らに帰国するのも本意ではない.

渋谷流と申釼術.御國元にて承り不申候流義に御座候間.随身稽古仕傳来相受候はゝ空敷罷下り候には相増可申と勘弁仕.右小左衛門相尋委細に咄随身仕候.
渋谷流という釼術は御国元では聞かない流義だから随身し稽古して傳来を承ければ.空しく帰国するよりは増しと勘弁し.その中川小左衛門を尋ねくわしく事情を咄し.随身しました.

自然其節の出雲守様には御老躰にて多年の勤功に付.紅裏御免御詰所御昇進被成置候節.於 営中英山様御手厚に御世話御取扱被遊候義有之由.
そのころの織田出雲守[信憑]様のことです.御老躰にて.多年の勤功によって紅裏御免・御詰所に御昇進なされていましたとき.営中において英山様[伊達斉宗公]より御手厚に御世話され御取扱い遊ばされたとのこと.

出雲守様御帰殿の上今日於営中奥州様御手厚に御取扱被成下.為夫か営中の都合甚宜敷小身の家等へ御懇意の世話被成下候義.身に餘り難有事に覚候.
出雲守様が御帰殿の上.その営中での出来事を家臣に話しました.奥州様が御手厚に御取扱いなされ.その御蔭で営中の都合甚だ宜しく.小身の家[織田家]などへ御懇意の世話をなさってくれるのは身に餘る有りがたきことだと思う.

右の御恩.其方共迄も難有奉存候旨御意有之候由.右小左衛門申聞.
この御恩を.その方共[家臣等]までも有り難く思うように.と御意があったとのこと.中川小左衛門の話しです.

其節迄は出雲守様御藩中にて加州様薩州様とは申候得共.仙臺様と申上候者無之一統 太守様と斗唱上候由.
そのころの織田出雲守様の御藩中では.加州様・薩州様とは言いましたが.仙臺様と言う者は無く.皆が太守様とばかり唱えていたそうです.

右様の所に御座候間.拙者儀相尋候に付ても聊疎意無之取扱.已に一流傳授相済候上の儀.別而修行仕候には及不申候間.流義手数趣意さへ心得仕候はゝ傳授仕候由.
このような所ですから.拙者が尋ねたときも.いさゝかも疎意無く取り扱われ.且つすでに拙者は一流の傳授が済んでいましたから.特別に修行するには及ばず.流義の手数・趣意さえ心得られゝば傳授するとのことでした.

永々外邦に相出居候は不宜事に候間.帰国の上流義の趣意不相失様工夫修行可仕由.品々教訓の上免許傳授仕.當方は小家の儀にて失歟と藝道へ取懸り居候者も無之.絶傳等の儀も難斗候處.
中川小左衛門が云うには.長々と他藩に居ては宜しくないでしょうから.帰国の上流義の趣意を失わないよう工夫し修行するようにとのこと.このほか種々教訓の上.免許を傳授されました.また中川小左衛門が.当方は小藩だからしっかと藝道へ取り組む者が居らず.絶傳等の恐れもあったところ.

御大藩へ流義相傳候上は.絶傳等の心遣無之本快不過候由にて.何分廣く指南仕候様呉々被申談候に付.
御大藩へ流義が傳われば絶傳等の心遣いも無くなり本快これに過ぎず.なにぶん広く指南するようにと.呉々云いました.

傳来相済候上は.永々滞留可仕筋に無御座候間.直に同所出立.六月中帰宅仕候.
傳来が済んだ以上.長々と滞留する筋ではないので.拙者は直ぐに同所を出立し六月中に帰宅しました.

然に右道中筋にて御高名の輩相尋候所も無御座候.遠州掛川在に匂坂浅右衛門と申者.槍術の師西城運之進偏歴中の門人の由にて.同人より添書御座候に付.相尋申候処.
その帰国の道中で.高名の輩を尋ねたということもありませんでした.遠州掛川に匂坂浅右衛門という者が在り.拙者の槍術の師 西城運之進が偏歴中の門人とのことで.師の添書もあったので尋ねたところ.

右浅右衛門忰卯兵衛義.其節直新陰流釼術達人の由に付.二三日逗留中遣合申候処.相應の遣人に候へ共.達人と申唱候程には無御座候.
その匂坂浅右衛門の忰 卯兵衛が直新陰流釼術の達人とのことでした.それで二,三日逗留して遣い合ったところ.噂相応の遣人ではありましたが.達人と称するほどではありませんでした.

右の外.仕合等仕候義無御座候.其節は拙者儀弐拾三歳の時分に御座候処.當五拾三歳に罷成三拾年前の事に御座候.八月五日.石川謙蔵.
この外に仕合等はしていません.そのころの拙者は弐拾三歳の時分で.今は五拾三歳に成りましたから.三拾年も前の事です.


ご存じのように当時の藩士は旅するとき藩の許可が必要でした.石川八太郎の場合は父龍之助が現役の当主でしたから.龍之助が藩に旅の許可を願いました.特別な理由ですから旅の理由を事細かに記して申請しました.
支配頭大隅[上野大隅歟]へと願書が呈出されたのは文政六年十一月十五日のこと.同廿八日大隅宅に呼び出された龍之助は旅の許可を仰せ渡されました.これで八太郎は文政七年正月から十二月までの御暇を許されます.

なお石川八太郎は文化十一年より十年引き続き修行し傳授も承けており.師の高橋善太夫の代理として旅をするのですから.流儀の後継者とされていたのでしょう.


『渋谷流剱術奥之免許』『渋谷流剱術指南免状』筆者蔵

上掲.石川八太郎が丹波柏原において相傳され.仙臺に持来した渋谷流剱術の傳書です.