十二月近況

12.30
先日東武に遊ひ,夕に蕎麦を食ふ,味頗る美なり,郷に帰りて思ふ,栗山翁の書に蕎麦の言あるを,

  
『盤肴捧書:栗山柴野邦彦筆』筆者蔵

西城講後過 阿邸廣岡兄喫蕎麦麪有新厨人總七者親奉一盤肴而進以其調烹不傷天味自負欲清興也書此以道謝
径筵初散下城闉梁苑賓僚盃酒親麥線果粉非世味盤肴捧書盡天真几間盆樹蒸紅葉樓下石池躍錦鱗我是侯家舊門士疎狂莫厭往来頻 九月十七日 柴邦彦具稿


 西城の講後 阿邸を過る,廣岡兄蕎麦麪を喫ふ,
 新に厨人總七なる者有り,親しく一盤肴を奉て而して進む,
 其調烹を以て天味を傷はす,自負して清興ならんと欲する也,
 此に書して以て謝を道ふ,
径筵の初散城闉を下り,梁苑の賓僚と盃酒に親しむ,
麥線果粉世の味に非す,盤肴に書を捧け天真を盡す,
几間の盆樹紅葉に蒸せ,樓下の石池錦鱗躍る,
我是れ侯家舊門士,疎狂厭ふ莫れ往来の頻なるを,
 九月十七日,柴邦彦稿を具ふ,


寛政九年十月三日,栗翁 西城の奥儒者に遷る,為に門生を除き交はりを制せられ(故に親舊門生として来見す),西城と林邸と阿波藩邸とのみを往来す,書に「西城の講後(径筵とも云ふ)」と云ふは侍講なり,

「初散」は時刻のことか,酒尊の意あるも適さす,「麥線果粉」は蕎麦の果粉を表すか,

阿邸を過るとなれは,数寄屋橋御門か鍛冶橋御門を出て,町へ往きたるものか,

12.27
『操觚字訣』を読み,三月を数へ,而して東涯翁の書を獲る,
今人昔の碩儒を顧みさること甚く,又書を需むる者尠し,因て得ること易し,可嘆可喜,


『耕雲雅會詩序:東涯伊藤長胤筆』筆者蔵

耕雲雅會詩序
予所識豊満河端二生産乎江之八幡好學耽文樂道乎畊畝之間有年且慕家君之道旦夕叩咨茲春介三浦養菴氏借那波古峰氏東山別業曰耕雲庵者請洛下諸名士以文鳴者宴集予父子亦興焉時山紅渭碧集東皐之勝致面峰背寺挹丹巒之佳景真物外之趣也不終日諸君詩成字々風霜句々琳琅真希覯之舎也、斯人也而逢斯舎斯會集斯地不亦奇乎既徴予言厳誰不免貂續之嘲而為二生幸之敢記其顛末還之云時元禄乙亥之歳三月二十有五日也伊藤長胤謹書


耕雲雅會詩の序
予識る所の豊満河端二生,江の八幡に産る,
學を好み文に耽り,道を畊畝の間に樂しむこと年有り,且つ家君の道を慕ひて旦夕叩咨す,
茲春三浦養菴氏を介して,那波古峰氏の東山別業耕雲庵と曰ふ者を借り,洛下諸名士文を以て鳴る者に請ひて宴集す,予父子も亦た焉に興す,
時に山は紅渭は碧,東皐の勝致を集む,峰に面し寺を背にし,丹巒の佳景を挹む,真に物外の趣也,日を終へす,
諸君詩成る,字々風霜,句々琳琅,真に希覯の舎也,
斯の人にして而も斯の舎斯の會に逢ひ,正に斯の地に集ふ,亦た奇とせざらんや,
既に予の言を徴し厳にす,誰か貂續の嘲りを免れさらん,而して二生之れを幸ひと為す,敢へて其の顛末を記して之れを還す,云ふ時は元禄乙亥之歳三月二十有五日也,伊藤長胤謹みて書す,


 

右 先子蚤年之真筆旁書改竄者乃 古学先生手筆云寛政辛亥之春善韶審定拜書


此の書,伊藤東所(東涯三男)の添書有り,「蚤」は「早」に通す,時東涯廿九歳,

右 先子蚤年の真筆なり,旁書の改竄は乃ち 古学先生(仁齋)の手筆と云ふ,寛政辛亥の春,善韶審らかに定め拜して書す,

三代芳墨會一額,不知所嗜詩妙境,

12.18
嘗て楊心流の傳書二を読みて読めざる語あり,今改めて見て,一は読むべく,一は読むべからず,


『楊心流柔説』筆者蔵

除其繁冗擧其要粋合并諸品之手法約之以為十二流改稱楊心流取諸柔和之義也

 先つ区切ると斯うです,
 除其繁冗,擧其要粋,合并諸品之手法,約之以為十二流,改稱楊心流,取諸柔和之義也,

 以前不審に思ったのは「約之以為」,「之れを約(つゞ)むに以て十二流を為す」と読み,「おもへらく」ではなく,手段・方法を表したものか,
 



『大江先生基業碑銘』筆者蔵

語乞兒曰我有一術暫死而乍活汝能當我試哉僉同辭曰微壺餐之賜吾其土乎願獻身以報徳因試之居于肥筑通計七年

 語乞兒曰,我有一術暫死而乍活,汝能當我試哉,僉同辭曰微壺餐之賜吾其土乎,願獻身以報徳,因試之居于肥筑通計七年,

 此中曽不読は「微壺餐之賜吾其土乎」,
 今において見れば,「壺餐」は器物より食物へ通ず,「壺餐之賜」とは省いた前文の流れを汲みて,大江義時乞兒に与うところの錢食を指す,則ち「僉(みな,乞兒等)同しく辭して曰く「壺餐の賜なかりせは,吾其れ土とならん(もし壺餐の賜(錢食)が無かったならば,吾は土となっていただろう),願は身を獻け以て徳に報ゐん」と」と読めます,然れども「吾其土乎」は未だ確と言えず,

12.4
過日得る所の遺稿を読み,漢文勉強の資と為す,
這の遺稿中,明治十三年に記された男女同権論の稿を見,他人事ながら其の批の険なるを恐る,


『遺稿詩集』筆者蔵

二篇皆倉卒の作,随筆の如く,新聞論説の若く,思ひを経すして筆を下す,篇法章法體を成さす,語も亦軽率味無し,宜しく深く意を注くへし,

けんもほろろとはこの事を云うのでしょうか,決して弟子を嫌っているのではなく,丁寧に指導してこの言です,

12.4 無異消光
相変らず古文書と漢文とに往来して,時に習字に道草を食っております,
習字は道草といえども,古文書の解読に効能あり,以前よりも筆跡に氣をつけるようになりました,
そして思うに,現代人は草書を見る機会少なくして書くこともなく,そのものを見る眼は些かも培われていないのではないかと,
楷書に巧拙,美醜,風韻,個性あるが如く,草書も同じ様に差異ある筈です,
然るにその差を見分けることは容易でありません,

たとえば,江戸時代のように,日常的に書簡をやりとりして,文書も書く人であれば,あの人はこのような字を書く,この字は上手,下手といった識別は自然と身についたでしょう,

たゞ現代人と一括りに言っても,中には書道,習字をする人がいます,そういった人ならば能く識別し得るか?,の如き習字素人には計り知れません,想うに書道,習字に於ける手本とするところのものは名蹟にて,書く所のものは作品でありますから,その巧拙を能く識別するといえども,その人と為りを識別することは難しいのではないかと,

書は人なり,と巷間に云うごとく,たしかに筆跡からその人と為りを想起することは可能なのかもしれません,然れども現代に於いてそれを識別するための経験を得ることは實に難しいように思われてなりません,

そこで,今日もまた幾人かの学者の筆跡を取り上げます,


『幽谷藤田一正書簡』筆者蔵

皇朝にては菅家江家と
 並称候儒宗後と唱へ
 申候是は初太殿など
 勉勵のためにも宜候間
 一と通御物語可被成候委
 細の事は御出府の節
 可申談候以上
  八月十九日夜認


宛先の人物は大江姓なり,
幽谷常陸の故事を講究の節,足利将軍時代より常陸に大江姓在るを知り,その苗裔なることを傳ふ,而して息初太郎の向学に資せんと欲す,初太郎は幽谷の門弟子なり,


『訥庵大橋正順書簡』筆者蔵

一安積氏へ碑銘御頼越候得共
城之助義當春中退塾い
たし當時手續も無之候間乍心
外謝儀壱両弐朱其侭御返脚
申候たしかに御落手可被下先は
夏中の裁答申訣旁取
紛匆々可此御座候頓首


安積艮斎へ碑銘を依頼する手段無く,其謝礼金を返送す,
「裁答」は作書答覆の意,
註:執筆年四十五歳,万延元年,


『春江河原田寛書簡』筆者蔵

一助とも存候返上致候頓首
 閏四月望前
尚々平日何の文筆を御讀被成候哉
方正學文粋四冊此は論も延文も
宜候又當時世間流行の八大家讀本
十五冊此等は文筆を學候には宜敷書に御座候間
御熟讀候はゝ可宜存候儘申達申上候


主君禁廷に召され,その御供を命ぜられ京師にあるとき,門弟子に文筆のことを誨ゆ,
註:春江は伊勢久居藩儒,執筆年八十六歳,慶應四年,

以前,米菴,海屋の書簡を掲げました,今日は更に三人の学者の書簡を掲げました,
凡そ書簡は同じ位の寸法ですから,文字の大小にさほどの差はありません,

現代に於て,良質の名蹟を目にすることは容易く,その恵まれた環境について何らの感慨も湧かないかもしれません,けれども江戸時代の人々はそうではなく,容易なことでは名蹟を目にすることは出来ませんでした,
故に苦労して,世に名蹟とされる所のものを求め,行きて謄写し,或いは買い求め,自己の研究の資としていました,
現代の書に比べて,江戸時代の書に上手の少ないのは,おそらく良質の手本を得難かった為でしょう,
また按ずるに,江戸時代の習字は師手ずから手本を門弟子に書き与えていた為,余計に上手から遠ざかったのではないかと,

名蹟を見る,または得る苦労のほどは,市河米菴も書中に述べていて,宋,元人の真跡は絶えて手に入らず,明人の真蹟位に趣を得て和習を脱するようにと地方の門弟子に諭しています,


扨而,倩案ずるに,作品としての草書,筆記体としての草書,此二者の区別を論ずるべきでした,人となりを見るには日常書簡に過ぐるものなし,されども現代人はその筆跡を能く識別し得ないという話しをしたい,と思いつくまゝに記しました,

劉熙載『書概』に曰く,「他書は法,意より多く,草書は意,法より多し」と,また曰く,「書家に篆聖,隷聖無く,而して草聖有り,蓋し草の道は千變萬化ならん」と,依て草書の変化の妙を知る,