十月近況

10.20
京師に滞留の節,一書簡を得,
此書簡,何処の人の記したるものか知れさるも,文言によって武藝に精しきことを知り之れを購ふ,
帰宅して閲し,而して是れ姬路藩士の筆なるを知る,
姬路藩の史料,常に迂拙求むる所のものなり,

扨,近者,支那筆の手頃なものを探しています,
董其昌の『菩薩蔵経後序』を臨書するに,今使っている筆鋒長く感じられ,やゝ短鋒のものこそ相應しいのかと按じて,

未だに筆の執り方さえも分らず,師もおらず,凝滞する斗り,
然れども,青史に名をとゞめた人々の書を観る毎に,憧憬の念を増し,自らに鼓吹しております,

10.19
語近くして意遠し,言淺くして理深し,是れ詩の妙境,初め其深と遠とを要せさるなり,

この一文は,過日『詩稿:水竹田中文筆』の處に記した田中文という人の『諸文鈔』より,
奥に山陽一夕話とあり,頼山陽の語るを文に起したものかと見られます,

水竹,伏して痛正を某に請ひ,この評あり,

作詩の法亦此に盡く,

10.18
頃者東奔西歸,わづかな餘暇に漢文と漢詩とを勉強しております,

どちらも慣れること専一かと思われ,當面白文の論稿『樸木稿(皆川遯堂著)』と『唐詩概説(小川環樹著)』とを読み,その間隙に漢文・漢詩の作文・作詩に着手,
二兔追う者は...と俗にいえども,菲才をかえりみず五兔も六兔も追っております,
思うに,好奇心の赴くまゝ,この追う時こそ,実は一等歓と為すべきか,


『心慮之巻』筆者蔵

先日東旅の節,神田の舗々を過り,此一傳書を見,之れを購ふ,

小菅精哲居士の筆,是れ珎蔵する所の長谷川英信の傳書より年を経ること四十年,
料紙に金泥を以て絵を書く,この絵英信の傳書に倣ふものかと思はるゝも,絵紙と与に價少しく下なるものか,



『音捨之巻』筆者蔵

一見して驚く,箋に明朝躰を書くを,
”音捨”に如何なる意あるや知れさるも雅味を覚ゆ,
是れ林崎流の一傳書,延寳年中の筆,

箋と言ひて想起せるは,師範の裁量も可なりと,
元一巻の傳書を二巻に分ち,上下巻と為すことあり,
或は箋の名を恣に代へることもまた免さる,竟に原題を佚せしもの少なからすや,

10.14
明治四年の筆ならん,水谷克庸 雌黄を田中文の詩稿に加ふ,水谷克庸 郡山藩の中等教授なり,


『詩稿:水竹田中文筆』筆者蔵

これは曾て田丸藩の弓術家所蔵,

書庫を改めて探すと,学問に勤しんだ武士は多くの論稿・詩稿を書き残しておりました,
論稿は「~論」と題したものを多く見ます,内容そのものよりも,文の体裁に重きを置く感あり,
少しづゝ読んでいこうと思います,

10.13
昨夜,漢詩の四作目を作りました,

   秋夜偶題
天涯弧雁與雲連延佇蕭然萬感牽星光夜闌詩欲就山川幽韻浄無煙

詩語表に語を拾う丈けで,随分と時間の掛ることです,

詩語表といえば,の書庫に江戸時代の古文書あり,
その中に,詩語を書きとゞめた文書のあったことを思い出しました,
また,漢詩に意を向ける今にして思うと,数多くの自作漢詩を収めた文書もあったように思われます,

仙臺の士石川氏の筆により,日々の主なる出来事を記した文書あり,これに多くの漢詩あり,
 の不確かな記憶によれば,石川氏は 殿様から漢詩を作るよう命じられ,度々自作を披露していたそうです,その為多くの漢詩を書きとゞめていたのでしょう,
どこの家中においても,このようなことはあったかもしれません,

却説,先日,知り合いの中国人に,漢詩作りの本を見せて日頃の疑問を尋ねました,
中国においても,今はあまり漢詩を作る人はいないそうです,本場なのに残念です,

古い漢詩は古音,現代の発音とは違うけれども,今の中国の人は漢詩を作るときどうするのか?,
問うたところ,やはりと言うべきか,それ用の本(辞典のようなものか)を使うそうです,となれば,日本人の漢詩作りとそこまで差は無いのかもしれません,
広東語の方は近いと言っておりました,

10.12
 筆者蔵する所の『百非林先生行状稿』より,

(前略)
華也與太古親太古囑華状先生之行華也不文奚能状先生然太古知華之知先生故其請不得辭焉華也嘗曰文人之画貴古欲其古在不光欲其不光在能脱時史蹊徑方今能至於此者其唯先生乎是華之所深知先生也萬延二年辛酉春王正月天野華謹状于芳宜府之楳花渓水邨荘


林百非の次男太古なる人物,天野華(天野御民の養父か)に『百非林先生行状』の撰を依頼しました,
こゝに,その依頼された経緯(華也與太古親...)を抜き出した所以は,以前目を通したとき,「状」の字をどうすべか決められなかったからです,
少し調べると,「状」に「陳」の義あり,例:「自状其過,以不当亡者衆」「殆不可状」,
然すれば,


華や太古と親し,太古 華に先生の行を状するを囑す,華や不文なり,奚そ能く先生を状せんや,然るに太古 華の先生を知ることを知る,故に其請 辭するを得す,華や嘗て曰く,文人の画は古を貴しとす,其古を欲するは,不光に在り,其不光を欲するは,能く時史蹊徑を脱するに在り,方今能く此に至るものは,其れ唯先生のみか,是華の深く先生を知る所なり,萬延二年,辛酉春王正月,天野華謹みて芳宜府の楳花渓水邨荘に状す,


林百非は,吉田松陰に兵学を教授したことから,世にその名を知られています,
この兵学は,吉田他三郎より承傳せし山本流を吉田松陰に反傳した,と『百非林先生行状稿』は伝えています,

 迂生,武藝に「反傳」と言うを未だ聞かず,いかなるものかといえば,
「(吉田)他三郎父子既に死するに及ひ,先生(百非)其授くる所のものを以て,盡く之れを其孫(松陰)に傳ふ,之れを反傳と謂ふ,公之れを賞し,金若干を賜ふ」の言によって明けし,

10.11


『烟鷗舎鬪詩:皆川昌序』筆者蔵

余嘗寄宿於昌平黌講讀経傳歴史之餘暇與寮友相會作詩品評之其會也一名為編者撰出唐宋諸代古人之詩一二只示各名以其題興韻而各作一二詩附於編者編者並謄書之雜以彼古人之詩而皆不記名編成而出之於會席各品評之以三等曰古人曰優曰劣評点畢數其点以多為勝其後余退寮移轉諸方與諸友不相見久近者探簏底有此巻則彼闘詩也屈指既二十八年矣今雖諸友存亡多不可知而現時最著者有大官巨儒榎本武揚君中村敬宇君向山黄村君是也其詩在巻中而書之者中村君也只是往時之詩而皆有黄吻臭雖然一吟之則不啻知其詩之優劣評其人物於今知其大成小成則又應為子弟之勧奨焉故書之於巻首以存云時明治十五年三月也


余嘗て昌平黌に寄宿す,経傳歴史を講讀するの餘暇,寮友と與に相會して,詩品を作し之れを評す,其會や一名編者と為して,唐宋諸代古人の詩一二を撰出す,只各名を示すのみ,其題を以て韻を興し,而して各一二詩を作して,編者に附す,編者並に之れを謄書して,以て彼の古人の詩を雜へ,而して皆名を記さす,編成し,而して之れを會席に出す,各之れを品評するに三等を以てす,古人と曰ひ,優と曰ひ,劣と曰ふ,評点畢りて其点を數ふ,多きを以て勝と為す,
其後余退寮して,諸方を移轉す,諸友と相見へさること久しかりき,近者簏底を探するに此巻有り,則ち彼の闘詩なり,指を屈すること既に二十八年,今諸友存亡多しと雖も知るへからす,而して現時最も著しき者は大官・巨儒に有りては榎本武揚君・中村敬宇君・向山黄村君,是れなり,其詩巻中に在り,而して之れを書す者は中村君なり,只是れ往時の詩のみ,而して皆黄吻の臭有り,然りと雖も之れを一吟すれは,則ち啻其詩の優劣を知るのみならす,其人物を今に評して,其大成小成を知る,則ち又應に子弟の勧奨と為すへし,故に之れを巻首に書し,以て存せしむと云ふ,時に明治十五年三月なり,


昌平黌の生徒等数名,烟鷗舎なる詩會を催し,その感性と教養とを競い,人物等との交流に興じていた様子です,
これを序した皆川遯堂なる者は,當時官費を以て昌平黌に留学しておりました,
新発田藩の逸材にて,学問のみならず幼年より剣術にも励み,練兵館主斎藤彌九郎の烏帽子子となりました,
御一新後内務省に出仕し,抜群なる測量技能を以て土木局に勤めました,

今日,皆川遯堂の名を知る人は殆ど無く,たゞ『幕末事變録』の著者としてその名を遺すのみ,
実は,この『幕末事變録』,御存じの方もいるかもしれません,未刊です,
 この原本二十数巻を書庫に収蔵しており,遯堂翁の名と共に,いずれ世に出せればと考えております,

10.9
古文書を点検している時,漢文の書付を見付けました,
課題の答案下書かと見えます,姬路藩士の筆(先日掲げた日記の筆者です),
三俣氏は若年の頃より学問と武藝とに励み,好古堂の句讀手傳も勤めておりました,

(訂正前)
謹對曰有宋腐學説吾輩所未聞故雖不識昔人之意謹惟應自異端詐之語矣然不得已而對于腐學之趣焉夫腐學者非別有道所學固経然於所學必有功於身與否ニ矣其功者雖學異端老荘之書亦所志當道必随分限而為實學因是無害焉其否者雖學於経因是有害焉如此者即可謂雖存形質不可下匕箸焉夫人性本善而雖無腐人唯由此二者而變乎二道故雖世學不功於身者可謂庶幾于腐人矣


この答案下書に対して,何者か雌黄を加えています,
この者,身近にいた学のある人か,師事していた学者か,いずれにしても漢文に詳しい人でしょう,
例せば,冒頭「有宋腐學説」の”宋”を”有”の前に置くよう訂正しています,
これは”宋”を副詞的修飾語として読ませたいならば斯うせねばなりません,
訂正者は文意を汲み取り,適宜抹消加筆,丁寧且つ手慣れているように感じられます,


(某人訂正後)
謹對宋有腐學説而無腐人此説吾輩所未聞故不識昔人之意何所指姑以鄙見論之夫腐學者非別有道所學固経也然雖學経其用功必有功於身有不功於身其功者雖讀學異端老荘之書亦不為所誤必随人倫日用而為實學因是雖處事無害焉其不功者雖學於経亦詐耳學已有詐事何無害如此者可謂雖存形質不可下匕箸夫人性本善而雖無腐人唯騁空論虚談而不功於身者可謂庶幾于腐人矣


謹みて對ふ,宋に腐學の説有り,而して腐人無し,此の説吾輩未た聞かさる所なり,故に識らす,昔人の意何所を指すか,姑く鄙見を以て之れを論すれば,夫れ腐學のものは別に道有るに非す,學ふ所は固より経なり,然るに経を學ふと雖も,其れ用功すれは,必す身に功有り,身に功ならさる有り,
其の功なるものは異端老荘の書を讀學すと雖も,亦誤つ所を為さす,必す人倫日用に随ひて實學を為す,是に因て事に處すと雖も害無し,
其の功ならさるものは経に學ふと雖も,亦詐のみ學ふのみ,詐事有り,何そ害無からん,
此くの如きものは形質を存すと雖も,匕箸を下すへからすと謂ふべし,夫れ人の性は善に本つく,而して腐人無しと雖も,唯た空論虚談を騁せるのみ,而して身に功ならさるものは,腐人に庶幾しと謂ふへし,


功=為實學=無害,不功=腐學=有害≠腐人,不功+空論虚談=腐人,という論でしょうか,


   苦熱
炎威満道正煌煌松下齁齁午睡長黄昏煎茶涼一味楚楚山影送斜陽

仕事の合間に漢詩作りの入門書を拡げ,はじめて漢詩を作り三つ出来ました,これはその三作目です,
素人ゆえ詩語表を拾い,辻褄を合せた丈け,はたしてこれを漢詩と言えるのか,
尤も,虫の鳴く聲 水の如く押し寄せ窓を撲つ,という文句からはじまるとんでもない一作目より随分マシです,

10.3
武術史料拾遺に於いて「無邊無極流」と「國友一貫斎」とを書き進めています,
その中核を為す史料は三俣家の日記です,
日記は三代に亘り公私を不問記録されています,

是れは三俣家六代目当主義陳の日記です,
義陳は手跡の稽古に功あったと見え,端整な字を書きます,