三月近況

3.19
楊心流の史料を読んで以来、勘を頼りに書き下しているようではいけないと思い、一から漢文を勉強しております。

こゝで問題となるのは、江戸時代と現代の訓読法の相違です。時代を隔てゝいますので、やはり若干違うようです。適当な教材を知らないので、取り敢えずは江戸時代の文献を参考にして、一つ一つ拾ってみようと思います。

また、一口に江戸時代と云っても、学派によって訓読法が少し丈け違います。この点も考慮すれば、いかにもおもしろい課題となりそうです。

『大學』

 

 左:道春點 「先後する所を知るときは則(すなわ)ち道に近し」

 右:後藤點 「先後する所を知れば則(すなわち)道に近し」

武藝の書物を読んでいると、「則」が来れば「ときは」と読ませることが多いように思います。

古くは「ときんば」、次いで「ときは」、そして「れば・せば」と訓読にも変化があったようです。

傳書の成立年代を考えれば、「ときは」の方が多いのかもしれません。また、中には「すなわち」の読みを省略したものを見ます。

この辺は特徴が有り分りやすいのですが、置き字の扱いとなるや実に複雑です。

3.15
楊心流の史料二つを読み終えて、漢文に対する苦手意識が少し和らぎました。
しかし、未だ漢文と云うものがよく分っていません。ほゞ勘を頼りに読んでいます。分らないところは分らないまゝです。

昔の人のように、膨大な漢籍を読まなければ成らないかもしれません。

 「微壺餐之賜吾其土乎」
 「壺餐の賜なかりせば、吾、其の土か」

何を言っているのか分らないところです。

 「勉哉勿懈因為之説塞其所需云」
 「勉めや懈る勿れ、因て之が説塞を為して其の需むる所に云う」

言いたいことは分るのですが、こゝは語順が分らず、意味の通りそうな順に並べました。

3.7

曾て九條邸が在った処から、
御所を拝す。

 〇
先日少し触れた揚心流の『柔説』、漢文素人の私には荷の重い史料ですが何とか読み終えました。
書き下しは誤読に目を瞑り、なんとなく雰囲気が伝われば、と思い付け加えてあります。

3.3
江戸時代、頻りと目にする「金百疋」は「金一分」相当、「金弐百疋」は「金弐分」に相当します。
相当、と云う言葉を使ったのは、「金~疋」と書かゝれた包紙に入ってるのが「一分銀」であったりするからです。


『一分銀』個人蔵

たとえば、左の「弐分金」であれば「金弐百疋」、右の「弐朱金」二枚で「金百疋」です。


『二分金』『二朱金』個人蔵

「二分金」と左の「二朱金」には包紙に貼られていた名残り、糊が附着しています。

史料を見ている丈けでは、なんとなく実感に欠けるので購入しました。二分金は、簡単に調べてみると、従来は明治二分金だと信じられていたところ、本当は万延二分金ではないかと現在見直されている「止め分」です。現存数が多いのです。
あまり関係ありませんが、二代目宣猶の記録、天保六年九月二日の項に「真字弐分金通用御停止」の通達が書かれています。

「二朱金」はうっかりすると失くしそうなぐらい小さいです。万延二朱金です、天保二朱金の二分の一の重さです。

あとで探してみると、天保二朱金も出てきました。


『二朱金』個人蔵

並べてみると、少し厚みがあり大きいです。左:万延二朱金 右:天保二朱金
この万延二朱金二枚は、「金 百疋」と書かれた包紙に貼り付けられた侭です。

天保十三年に剣術師範が未使用の傳書を買ったとき「三枚継緞子巻物一巻」に「一朱」を払っています。「二朱金」であれば二巻買えた訣です。

また、神道一心流に入門する者たちが納めた入門金の下限が「一朱」でありました。
儀礼的なものですから、あまり金銭の多寡は問題でなかったと思いますけれども、壱朱が最低限の礼儀であったのかもしれません。入門金は、およそ壱分から弐朱が最も多く見られます。

あと、二代目宣猶の長男長次郎は、一ヶ月に「一朱」の小遣いを貰っていました。但し、もう少し多いときもあります。

一方、傳授を承けたあとに納める傳授謝礼は、「弐分」が妥当であったようです。切紙・目録・免許を問わずこの額が多く、慣例だったと察せられます。

一橋の殿様へ、櫛渕氏が武術を披露したあとに「郡内縞壱反代」として下されたのも「金弐分」でありました。