二月近況

2.16
今年に入ってから、はや一ヶ月餘が経ちました。
翻刻に次ぐ翻刻の日々で、本を読んだり、草書を眺める時間が減っております。
然れども、翻刻に没頭していると、是まで気付かなかった己の盲点が見えるようになってきました。

たとえば、「頃」「比」の草書です。本来「比」とすべきところを、迂闊にも「頃」と翻刻したことが幾度かあったと記憶しています。大しくじりです、今更すべてを見直すのは大変な手間です。

それと、「奉存候」「被存候」は改めて考えると判別の微妙なところです。執筆者にもよりけりですが、大幅に省略されるともうお手上げです。

あと、「之」か「候」なのかという実に悩む、と云うかどうあっても判別出来ぬということがしばしばあります。是も又、執筆者の書き癖で、誰もがそうではないのですが、「候」へと続ける余韻が長く垂れて「之」に見える場合、「之」と読んでも正しいときは手詰まりです。

これはきっと誰もが悩むと思われるのは、「候に付」の「に付」「候付」の変化です。定形だから筆が飛んで縮まっているのか、態と略しているのか、「候」と「ニ」の判別は最早本人に聞かなければ分らないのではないか、という気さえします。不争軒日記をずっと読んでいると気付きました。この人は丁寧に書く人で、きっちりと「候に付」と三文字が識別できるように書くのが普通です。ところが、何かの拍子に筆が飛ぶのかして「に付」「候付」といった具合に二文字しか書かぬことがあります。でもきっとこれは「候に付」の積りで書いているなと分る訣です。翻刻するとき、勝手に一文字補って三文字にするわけにはいきませんが、そうすると、「ニ」とも「候」とも見えるたゞの点をどちらの扱いにすべきなのか困ります。一流の翻刻家?はどのように処理しているのでしょうか。

不争軒日記の中で、「刀之助」という人名が数度登場します。これについて、当時「刀」か「力」かと他人から問い合わせられた紙面が残っておりました。「刀之助」と書かれていますが実は「力之助」が正しいようです。しかし、はっきりと「刀」と書かれているものですから、翻刻するときはどうすれば良いのだろう、と頭をかゝえます。

 〇 雑感
「者(は)」「茂(も)」「而(て)」「越(を)」など、平仮名扱いの文字を漢字表記で翻刻するのはどうなのでしょう?
しばしば本を読んでいると見掛けるのですが、これらの平仮名を漢字表記で翻刻しているにも関わらず、「可(か)」「多(た)」「堂(た)」「久(く)」「里(り)」「毛(も)」「利(り)」「奈(な)」「不(ふ)」等の平仮名を漢字表記にせず平仮名表記にする、その差はどこからくるのかという違和感を覚えます。素より基準は無いので各人の翻刻に拠るわけですが、平仮名・漢字の表記を分ける理由が見た目の問題なのだとすれば、その線引きは極めて曖昧でありますし、読み易さを考えるならば平仮名はすべて平仮名表記した方が良いとも思います。

2.13
汝を顧みるにかたちは人に似て、目に見る事なく、耳にきくことなく、鼻に嗅ぐ事なく、口に云う事なく、本より七情の氣もなく、唯茫然として立ぬ、そも汝が名はいかに

 有とすればなし又なしとすればある 月だにうとき夜半の影法師

ある時、井鳥景雲翁 建部流雲に謂いて曰く、吾子は師役なり、今当国の武術盛んに行われるは、他国他流の人来りて師役と仕合試みを望む者ありて、吾子これに当らば真剣の勝負と心を決すべし、遠慮会釈すべからず
徹上徹下克ち尽すべし、半上落下にして置くべからず、然らざれば彼立直して二の目を打つことあり

また、当流は上段より打つものと人多くおもえり、仕合試みを為す者は必ず上を防ぐべし、然るに我が流義の主なれば、上より打ちてその勝負に関わらずと云うは、愚昧の至りなり、上を専ら防がば腹心を指すべし、猶その機に応ずべし、一々死法を立て守るべからず


今日は『史料輯録』を更新しました。サイトの更新は久しぶりのことです。『史料輯録』に於いて紹介したい書簡は山のようにあるのですが、今一つ周辺情報足らずに保留となっています。今回は、一雲翁か景雲翁のどちらを載せようかと悩み、しかし一雲翁の書簡は読みが万全ではないので止めにし、景雲翁にしました。

書簡の類いは是迄に数多く目にしてきましたが、一雲翁の書風は格別の風韻を具えています。御家流に何かゞ混ざっている様です。

2.11
今日も神道一心流の道場移転を、江戸切絵図にて辿っておりました。初代虚中軒が小川町において稽古を始めてから、三代目不争軒の時までに八度、道場は移転されました。最後の地は牛込山伏町で、こゝは現在 市谷小学校がある場所です。天然理心流の道場があった甲良屋敷とは目と鼻の先です。

また、曾て道場があった下谷御徒町・下谷山下八軒町・下谷三味線堀は、東叡山寛永寺の目の前にあり、後に徳川慶喜公が大政を奉還し謹慎した大慈院があり、更に少しゝて上野戦争があった場所でもありますから、一橋家の臣たる櫛渕家には縁の深い土地です。

この下谷の辺りに一橋の御屋敷は無さそうなのですが、どうしてこの地に道場を構えたのでしょうか。二度目に移転した小川町広小路は御屋敷から程近く納得です。しかし、また下谷に戻ります。七、八度目に移転して道場の在った牛込は一橋の御屋敷に囲まれているので、こゝは便利だったろうと思います。

二代目宣猶が九死に一生の病に罹り、遺言書(天保八年五十八歳のとき)まで認めたのは谷中の三崎町に居たときでした。こゝは東叡山寛永寺の北西、奥まった所にあり、下谷よりも随分と不便そうな場所です。宣猶は遺言書の中で、次男長次郎に対し長唄・三味線などの遊藝に走り大小さえ差さずに外出する近辺安御家人の真似を決してするなとか、辺鄙なところで稽古に来る者もいないなどゝ、こゝの風俗の悪しきことを散々に愚痴っており、よほど気に入らなかった様子です。

なぜそんな辺鄙な処に移転したのかといえば、例の薗原騒動にて外聞を失い、人氣の無いこの地へ越してきた訣です。実に多難、不遇の時期でありました。

薗原騒動で引っ込んだ谷中三崎町の時期は金子にも窮乏しており、後ちに牛込へと移転したのが九年近く後のことですから、宣猶は土地の風俗を嫌いながらも身動きが取れなかった様です。その当時、「暮し方も直り金子が出来たなら、方角を吟味し、今少し繁華の地へ引き移り道場を建て、稽古して呉れるよう頼む、其の許(次男長次郎)の祖父様が開いた神道一心流をなにとぞ後世へ残し弘めて呉れ」と遺言しておりました。
結局、宣猶は病から立ち直り、自ら牛込移転を果しました。土地の世話をして呉れたのは、牛込近所の一橋邸の人です。

2.7
不争軒史料五冊目の翻刻を終えました。次いで不争軒のページを作り始め、もうしばらく日数が掛りそうです。

2.3
安政の大獄によって謹慎中の一橋慶喜公御詠。

  皆人のうかるゝ頃に我は只 獨物うき春にそ有ける

  なみた川水増にけり春の日に 結ふ氷のいつか解なん

不争軒の日記、安政七年二月十七日の項に録されていました。
慶喜公の謹慎は同年九月四日に解かれるのですが、この御詠のころは鬱屈として前途に希望を持てなかった様子です。

 〇
不争軒の門弟にて免許を相傳された志田純一郎という人物がいます。この人は不争軒が支配する組の士であり、神道一心流の教授方も勤めており、日記には頻りとその名が見られます。不争軒と行動を共にすることが多く、また代理で書類の申請をするなど、とても頼りにされていた人物と察せられます。追々出世して、御一新のころは不争軒と同じく教衛隊の頭取へと進みました。
今日、日記を読んでいて、ふとネットで検索してみると志田鉀太郎の実父であることが分りました。鉀太郎が生れた日は、不争軒の日記にも記録されています。

2.1
近況と題し乍ら、今年に入ってから更新が滞っております。
というのも目下、櫛渕不争軒の史料翻刻に力を尽しており、且つ過日体調を崩し、いよいよ滞っている次第です。

翻刻している史料は思いのほか多く、史料四冊の翻刻を終え、内三冊の校正を終えたところです。もうしばらく時が掛りそうです。

 〇
神道一心流といえば、やはり初代の虚中軒が有名であります。しかし、その英名に隠れたものか史料が乏しいためか、三代目の不争軒を知る人は少ないでしょう。私はそれが残念でなりません。

三代目不争軒は、文政二年二代目宣猶の次男として生れ、一橋慶喜公・一橋茂栄公に仕え、明治二年卒中のため急逝しました。櫛渕家は初代以来、番方(武官)の家でありましたが、泰平の世であった為、初・二代のころは番方として活躍する機会は得られなかったようです。しかし、追々幕末になると世上騒然となり、主君が彼の慶喜公であったこともあり、櫛渕家も番方の本分たる御警衛などに忙しくなって行きます。この辺りの情況が、不争軒の史料には如実に現われており、面白いのではないかと思います。惜しむらくは、御一新を迎えて間も無く、不争軒が世を去ってしまったことです。亡くなる直前は一橋家の教衛隊二番隊頭取を勤めておりましたから、存命であればきっと何かしら活躍したのではないかと思います。

 〇
不争軒が在京していたころの日記には、新撰組の近藤勇や沖田総司が登場します。なにほどの記述もありませんが、両者と会ったことや、餞別に酒を送ったことなどが記されています。以前から知り合いであったのかもしれません。
不争軒の道場は牛込早稲田に在り、安政六年の類焼による移転後は牛込山伏町に在りました。
どちらにしても、天然理心流の道場があったとされる甲良屋敷と間近でありましたから、両者に面識があったとしても不思議ではありません。また、片山庄左衛門とは舊知であったらしく、この人が上刕高崎の蓮雀町平野方に寄寓していた際の住所や、壬生新徳寺に寄寓していた際の住所が夫々の日記に控えられています。

 〇
このほか、渋沢成一郎や渋沢栄一といった、後ちに名を成す人たちも少しだけ登場します。不争軒が鎗釼見分御用・諸士撰を仰せ付かって江戸へ舞い戻った少し後に、渋沢両人も人撰御用を仰せ付かって江戸に下ってきます。その時、渋沢両人を他の人へ引き合わせたり、宿所の手配に関わったりします。渋沢両人を引き立てた平岡圓四郎も度々登場します。

また、ほとんど名を知られていないながら、当時討幕を画策していた脇坂圓蔵の名がしばしば見られます。圓蔵は元刈谷藩士、久坂玄瑞らと計って脱藩し、長井雅楽の暗殺を画策するなど志士として行動していました。しかし、どういうわけか一橋家の臣となり一刀流師範役を勤めておりましたから、不争軒とは同じ剱術師範同士、何かと顔を合わせる機会が多かったのではないかと思います。後ちに圓蔵が新政府に御雇となったときは、不争軒が事後処理を担当していた様子です。

それにしても、討幕派であった渋沢や脇坂が、御三卿の一橋家の臣というのはちょっと面白いですね。渋沢両人についてはその伝記に経緯が明らかです。脇坂の方はどうやって一橋家に仕えたのかよく分っていません。

 〇
不争軒には兄斧太郎がおり、通常は家督を相続しない立場でありました。しかし、兄斧太郎が勘当された為、不争軒が跡を継ぐことになります。

この兄斧太郎は遊芸に耽るあまり勘当された、とこれまで宣猶の遺言書から推し量って説明がなされてきました。なるほど、たしかに遊芸に走っていたことは確かでありましょうが、しかしこれが勘当の直接的原因ではなかったのです。この程、不争軒史料を調べている中で、父宣猶の史料も調べていたところ、兄斧太郎が町人と諍いを起し、その罪の重さから宣猶が子の斧太郎を公の場から退けたことが分りました。名目は病いの為です。
宣猶はしばらくの間、斧太郎に懇々と説教し、その性質を改善しようと努めましたが、ある日忽然として姿を消してしまいます。宣猶は直ちに在所の縁者へ向けて斧太郎に構うなとの通達を出しますが、ある縁者の一家が世話をしたとのことで、斧太郎はその所において微塵流を教えていたそうです。
詳しく書くと長文になってしまうので、いずれ記すことにしましょう。

あと、不争軒の死因は従来不明とされてきましたが、卒中であったことが判明しました。その当時「卒中」と診断されており、何人かの醫師に診せても手の施しようがない情況であったことなど記録されています。