平成廿九年九月近況

9.29
上野厩橋藩の五代目藩主酒井忠擧公に関する記録をサイトに掲げました。
この記録の中に、忠擧公の剣術・槍術修行の記事があります。

剣術は新陰流、槍術は無邊無極流。

江戸表においての稽古は一ヶ月のうち六日稽古し、剣術は出淵道仙父子(子は出渕三郎兵衛)を召し寄せ、槍術は無邊無極流の山本加兵衛父子・その弟子を召し寄せた由。国元においての稽古は一ヶ月の内十二日と不意の稽古があったそうです。

また、家中の士の稽古を見るのに熱心だったようで、長刀棒の術まで何流に限らず見分し、師範の者であれば家来は素より他国からの牢人者も召し出し拝領物等もあったとされています。

以前から調べている不易流砲術の創始者竹内頼重もまた、斯ういった熱心な忠擧公の招きに応じたものかと合点のいく話です。しかし現代人の私からすると、家中の士をさし置いて、藩主が牢人武藝者を優遇しては家中の反発が起らなかったのだろうかと不思議です。

9.22
御意見・御感想を下さった方へ
御親切にありがとうございます。御書面、帰宅後早々に拝読し、御教示の『面影草』を確かめました。仰せの如くと思われ、不読の箇所氷解致しました。また、その語句についても御示諭の趣、ありがとうございます。御厚志の段、感謝致します。因幡拝


 
左『面影草』個人蔵  右『面影草』東京国立博物館蔵

ちからをもさそく[も:脱字]いらてぬけ行を
 まことの力とおもひ知へし

なぜ六文字なのかと思っていた処は、「も」の字が脱けていました。

また、当初は「さそく」の「そ」は、もしかすると「い(居・以)」と読み、「さいく(細工)」ではないかと思いましたが、子細に比較していくと、これは「そ(曽)」で間違いないと分りました。
「さそく」とは聞いたことのない言葉です。これについて、今村嘉雄氏の著書『武道歌撰集』に、「さそく(早足:はやわざのこと)」との説明が為されている由、先述の「御意見・御感想」の方より情報がありました。

9.14
およそ半月を費やし「杉浦素水の書簡」改訂が出来ました。書簡と云うものは読み切ることが難しい、と改めて感じました。そもそも、当事者ではない無関係な現代人が読むのですから、前後の事情、当事者らの背景など全く知らないわけです。書面に現われる些細な用件が実は重大なことかも知れません。そして、書簡には普通年紀が書かれていませんから、一つ一つ周辺情報を収集し、その背景を考え、前後を固めて行き、年紀を特定し、そこから何が読み取れるのかを考えます。

つまり、当事者らが共有し理解していたであろう情報を100%とすれば、現代人の私が書簡を読むとき、30%位まで情報を復元出来れば上出来、読み切れたと言えるでしょう。30%でも難しいかもしれません、特に有名ではない人物は周辺情報が得られず、考察も浅い段階までしか叶いません。とはいえ、ほとんどは私の力量不足と云えるでしょう。

斯ういう作業を踏まえて、相曽一弘氏の著書『大塩平八郎書簡の研究』を読むと実に驚かされます。これほどの考察が可能なのか、と天を仰ぐような気分です。

 〇
杉浦素水の書簡について書いているとき、傳書の日付をどう扱うべきか悩みました。この日付の通り弟子に傳授した(面と向って渡した)、と云う訳ではないからです。

たとえば、杉浦派の一刀流では傳授日が一応決められていますし、直接渡せない場合は人を介して後日その人の手元に渡ります。

改めて傳書の年月日とは何か?を考えると、弟子に傳授する(手渡す)日付ではなく、その傳書を傳授することを師が認めた日付(傳授日)ということでしょうか。文章を書いていて不都合なのは、「傳授された」と云うと、師から弟子へ直接渡したように読み取れる点です。
「杉浦素水の書簡」では、江戸に住む師杉浦素水から綾部に住む弟子への傳授について頻繁に触れなければならず、この言葉の表現に苦しみました。

たとえば、従来は傳書の日付に従ってこの通りに書きました。
 綾部藩士志賀幸助は、寛政五年八月十五日、師の杉浦素水より『八風切紙』を傳授されました。

しかし、上記の書き方では不十分です。
 綾部藩士志賀幸助は、師の杉浦素水より『八風切紙(寛政五年八月十五日付)』を傳授されました。
傳授日の問題を考えると、このように書くのが自然でしょうか。
私が避けたいのは、誤って読み取られることです。寛政五年八月十五日、綾部藩士志賀幸助は江戸に出府しておらず、江戸の杉浦素水から直接傳授された訳ではないのです。先記の文面だと、江戸に居る杉浦素水から寛政五年八月十五日に直接渡されたかのように読み取れます。

9.9
現代においても、書籍・教科書・新聞・漫画に至るまで大半の文章は縦書きです。現代人は縦書きに慣れ親しんでいます。然るにインターネットは横書きがほとんどです。
以前から感じていた引っ掛かりはこれだったのかと昨日思いつき、早速ページの縦書きを試みました。
とりあえず「岡田十松の書簡」を変更しました。序でに片仮名や而・与・者などを平仮名に変更。
書き換えていて思いました、縦書きだとすらすら読めるのです。特に翻刻文は、横書きと縦書きでは比較にならぬ程読み易くなりました。そして、無い知恵を絞って、本のように体裁を整えれば、より一層読み易くなると考え試みました。また、予期せぬことながら、携帯電話なども縦画面ですから、縦書きが読み易いのです。なぜ三年間も、このことに気付かなかったのかと悔やまれます。

しかし、ネットの縦書きは未開拓と言いますか、システムが完成されていません。たとえば段組すると、二段目からの縦幅が本来の縦幅の指定には無いため、次の要素と被ってしまいます。JavaScriptでこれを回避する方法が紹介されていましたが、私には難儀です。手動で段組みしました。動作に不都合が無いよう、最低限の設定で構成した積りです。

 〇
はじめ縦書化に取り掛かった「杉浦素水の書簡」は、文面の訂正をしている途中、史料の見方がとても甘いと分り、大幅な訂正に入りました。腰を据えて史料を考察するのが苦手な性質ですから、どうも見方が甘くて困ります。今は相曽一弘氏の著書『大塩平八郎書簡の研究』を傍らに置き、どうすれば改善されるかを模索しております。

9.2
先日掲げた竹内流の伝書は二月廿四日付。廿四日という日付には意味があり、どうやら愛宕信仰と関係があったようです。小川博毅氏の著書『美作垪和郷戦乱記』の中に、愛宕神と竹内久盛の話しがありました。

9.1
長谷川英信の伝書をサイトに掲載しました。居合ではなく剱術です。伝書を伝授された者の主家と、あわせて長谷川英信の主家も判明すればと意気込んで探しました。しかし、未だ両者の足跡は掴めていません。

越後国ではないかと見当をつけています。最も有力と思われたのが越後中将、松平光長公の家中です。結果から述べますと、下記の分限帳に両者の名前を見出すことは出来ませんでした(後述の近藤氏もそうです)。

「松平越後守三位中将光長家中并知行役附」
「越州高田御家中(分限帳)」
「松越後守源光長公惣家中知行高諸役附」
「松山并福山江御供名面帳・柳原分限帳順席表 元禄2年改」
「中将様越後高田御住来御行列帳」
「享保11年津山藩分限帳」
「享保12年御減甲二付御暇人名帳」

時代が古いわりに情報が充実しており、これで見付けられないということは、見当外れか浪人、或いは傳授された者は又家来ということでしょう。このほか越後の大名を数家探しました。

 〇
越後に見当をつけた理由は、同じ出処の日本覺天流の伝書にあります。その奥書に「其後不圖於越後国遇定春先生依為當流中興之元祖復得彼直伝者也」と書かれています。はじめ田邊八左衛門に同流を学んだ近藤吉左衛門尉は、その後ふと越後に来た小笠原定春に直伝を承けたとの記述です。つまり江戸詰ではなく国詰であり、近藤氏は越後の大名に仕えていたと考えられます。
この伝書は誰に傳授されたものか分りませんが、時代は寛文11年、近藤吉左衛門尉の子二人が連名で認めたものです。

 〇
田邊八左衛門に日本覺天流(もしくは行覺流)を学んだ、という記述「素於田邊八左衛門尉長道先生門下学習於當流年久終其功為就成至其道極」も手掛りになると思いました。同流の免許に至るまで田邊八左衛門に師事したとすれば、田邊八左衛門の足跡を辿ることで目当ての人物に辿りつけるかもしれません。越前福井藩・小浜藩・加賀藩・彦根藩・尾張藩も視野に入れ、各分限帳を調べましたがこれも空振りでした。

 〇
長谷川流兵法剱術、書中の図についての奥書に興味をひかれました。「この圖、悪敷きとて必ず本圖を以て書き替えること無かれ、口傳を以てその理叶い難き故、具(つぶさ)に圖を以て剱術本末道理を相傳すべきため此くの如くなり」と云い、口傳よりも重きを置いた図であることが書かれています。成程丁寧に書かれており、子細に観察すると、全文が同一人の筆によることが分ります。断定は出来ませんが、やゝ特長のある書風からして、図も含めた全文が長谷川英信の自筆と見て良いでしょう。