八月近況

8.22
竹内流の伝書を載せました。
松野主馬頭とは誰だろう? 数年の間思い出す度に探しておりましたが、今以て見付けられていません。

手掛りは幾つかあります。
長井左五右衛門信正より松野平助へ相伝の剱術書数巻、南蛮流小鉄炮の伝書、松野加兵衛と染め抜かれた籏差物、そして松野主馬頭、作州垪和と関係あり。

明治時代の後裔が垪和の近郷に住したことゝ、慶長の松野主馬頭が竹内久勝より傳書を相傳されたことは、地域に共通点があります。
岡山藩(池田家)・津山藩(森家)が近く、この辺でしょうか。

8.18
先日より取り掛かっていた眞極流柔術の傳書の翻刻が出来ました。
現存するのは此の五巻のみですが、昔は他にも在ったのかもしれません。
未だに仮名書の読解には慣れず、読むのに苦労しました。読み終えた今も、おそらく違うのではないかと思う字が幾つかあります。

これは『面影草』の序です。


『面影草』個人蔵

予、竹馬にむちうち雪をまろかし、小学に師に随う事をも露弁え侍りざりし頃より、武藝に便りあらん事をもとめ、朝な夕な寝ても覚めてもこれをこいねがい侍りし。漸く志学のとし猶武道に執し、そのみなかみ[水上・源]を尋ね、その極まれる所を探ること、劒術と言い鎗と言い棒と言い居合と言い柔と言い取手と言い、皆なその事を学ぶと言へども、生れたち頑なにしてそのまことに及びがたし。ほしゐまゝに言わんば、大空をうかゞい、井の内の蛙の大海を知らざらんが如し。さりとて志の励ます所、片端三十字一文字に綴りて、後のこれを学ばんものに借りの助けともなれかしとて、硯の塵拂い千切れたる筆して、もしほ草かき集め言の葉に顕わし侍れば、これを詠むにその面影浮かぶようなればとて、面影草と言うことのならじ。


  
『面影草』個人蔵

ちからをも さそくい■■く ぬけ行を
 まことの力と おもひ知へし

『面影草』の読めない一首、七文字または六文字の可能性もあり。
「さ■くい■■て」「さいくい■■て」「さいくいらかし」「さいくいらて」。「佐居くい良天」と見えます、しかし踊り字が挟まっているかもしれず、意味も通らず悩みます。
和歌に慣れた人であれば即答できると思いますが、私には難しいです。

後日、友人に相談したところ、読めない部分の一文字目は「さ」でなく「あ」ではないか。又、別の人に二文字目は「そ」ではなく「さ」か云われ、とりあえず七文字のところを六文字として意味の通るようにすると、「あさくいらで」に落ち着きました。「力をも浅く要らで抜け行くを、まことの力と思い知るべし」、力を込めるなという教えでしょうか。



『面影草』個人蔵

なましゐに 稽古かほする やはらをは
 おの物なり 心やすかれ

「おの物なり」は六文字、意味が通らず一文字脱落かと思います。
「やはらをは」は、「やつらをは」とも見えます。



『柔勒肝要集』個人蔵

一柔といつ[ふ]は何やうなる事を先に
 ならひて可ならんや
 答言人をとりひしく事と覚力を
 以せんとすれはみなりきみといふものに
 なり行まことの力にあらす手を以
 せすあしをもつてせす惣躰を和して
 心をいふになしかたちを邪曲にせす

上に掲げた『柔勒肝要集』に、「つ」と書いてあるが「ふ」と読むべきではないかと思う箇所がありました。



『柔極意手数之巻』個人蔵

一 そもそも眞極流柔は神道の根元なり。然らば則ち當流の根本は日之下流・荒木流捕手、右二流兼用して寛永三年眞極夢仁齋入道藤原清定、則ち眞極流新流を建て天下に弘む。兵術事傑士なり。

 〇
以前に紹介した成田高重若かりし頃の伝記をふと思い出しました。身分と稽古の関係には興味があります。

稽古のとき「歴々の侍は打倒し蹴ころし當り倒すことならず」、ゆえに「棒振りの商人、或るいは百姓・日用取の類いの下々、力量の立つ氣成(氣丈)者を懐け集めて懇ろにして」「常にねぢ合い蹴倒して自分の稽古をし給う」。


一 尊師高重、若かりし時ほ棒振りの商人、或るいは百姓・日用取の類いの下々、力量の立つ氣成者を懐け集めて懇ろにして、これに酒食を与え銭衣等をとらせてこれを朝夕夜の如くし給う。皆人これをさして朋輩と出合わず、下々を友とし給うを謗(そし)る、これ全く吉しと思い給うにあらず。歴々の侍は打倒し蹴ころし當り倒すことならず。この者共に酒等与えて常にねぢ合い蹴倒して自分の稽古をし給う。又、居合に大鐔を工夫して貫せ給う。これ又、常に不怠力能くする強勢氣象の者なければ、これを以て怠らず執行させ、強力氣勢強くその志有る者は請身を傳へむ有るなり。凡そ請身は強力にあらざれば徳少し故に、高重一代餘多の弟子有りといえども、或いは強力なれば■だにして稽古怠り、或いは能く執行をなす者は弱力にして躰骨その器にあらず、終に師に似たる者その出来ざる者なり。後来、強力器用にして正直にして勇有る者有らば、この態を傳へてこの態を執行すれば自力一倍には成るなり。(『四天流組討註釈書:尊師高重の伝記』)

8.16
今日は鎌田魚妙の手紙について書きました。いつもながら取り留めも無く不味い文章で申しわけなく思います。取り敢えず、周辺情報を少しく揃えてありますので、必要なところを汲み取って下されば幸甚です。

堀川物か?と鑑定を依頼された魚妙、結果は「堀川物」でなく「末左」と云う。先方(小浜藩)はこれがどうも不服であったらしく、改めて公儀の御研師 竹屋喜四郎に鑑定を依頼したところ、研ぎが悪しく少し分りかねますが一躰宜しく見え、伝えられた通り「國廣」にも見えますが本阿弥に相談しますとのこと。この刀には昔の本阿弥の鞘書があり、「高田」と極められていたようです。竹屋喜四郎と本阿弥が相談した結果、昔は研ぎ悪しくようやく「高田」くらいに見え、今は研げば「國廣」と云っても良いとのこと。

魚妙、竹屋、本阿弥、一連の手紙はどうやら一口の刀に附されていたようです。

8.13
眞極流柔術の傳書を一つ載せました。この傳書は通常の形式とは違うかもしれません、或いはこれが通常でしょうか。通常の形式と違うかも?と思う理由は、傳授を承けた石川光實が二十年以上前に別人(実父)から免許を承けているからです。二十数年後に傳落を補うため改めて山崎景憲に師事したのですが、一から修行した者へ与える傳書と書き出しが違うのではないかと思います。

8.12
「伝書の用意(四)」が出来ました。
今回取り上げた史料には、伝授の裏事情も記されており興味深い内容でした。
御大仁様への緩い伝授、史料で斯ういった事実を確認したのは初めてゞす。

 〇
伝書八巻の書写料が金壱分=四朱(二朱金なら二枚、一朱金なら四枚)です。
一朱はおよそ四百文に相当するでしょうか。

天保4年江戸詰武士の帳面より
 50文 物さし
 100文 耳かき
 200文 うなぎ
 280文 そろばん
 288文 氷餅
 1朱 轡
 1朱 下緒二組
 1朱120文 味噌六升
 1分1朱 帷子
 1分2朱 下緒二筋

尤も書写料は謝礼程度の扱いだったと思います。

 〇
伝書の年月日、これは融通が効くようです。以前から気に掛っていました。今回の史料には「先年帰京後
御宅へ御礼に罷出候年号にて御傳授仕候」と云うように、伝授する日=傳書の日付ではなく、随意に決められています。つまり、伝書の年月日通りに傳授が行われたとは限らないのです。しかし、ほとんどの場合そういう実際の処は記録されていませんから判断の仕様がありません。

8.10
中臣流手裏釼の伝書の翻刻が完了しました。片仮名の判別は意外と難しいです。


『中臣流聞書』部分 個人蔵

○弓に二本弦をかけ皮にて玉のふくみをこしらへ引しほるときに
 前の方ふくらみ引くなり左なけれは己■かいなを玉にて打ぬくゆへ
 なり井んさいくうの如くにつるを引へし

8.9
昨日、嬉しいメッセージを頂きました。御親切に有り難う御座います。
御蔭様で暑さを忘れ、史料解読に専念出来そうです。

 〇
今日は中臣流手裏釼の傳書を二つ読みました。
曰人が開創の流義にて、滅多に傳授しなかった為か文面は整備されていません。しかし、それがかえって真率を感じさせます。
入門して稽古に通い、数年にわたって傳授を承ける通常の諸流義とは違い、手裏釼と云う特性ゆえか短期間に傳授を行うようです。短期間で教えきれないところは傳書に詳述する、そのため傳書の内容が充実し混雑するのではないかと想像します。又、傳書によれば稽古自体は弟子に委ねられていました。

「幼稚より心懸けて自分の覚悟に工夫したる心妙釼なれば、必ずしも他に教へる事を禁ず、一人一傳たるべし」

「右九曜打たるゝ手もとならば指南たるべし、毎夜千打おこたるべからず、七星打たれぬうちは指南無理なり」

「人前にてなぐさみには一本も打つべからず、名を発するが油断なり、あの人手裏釼打などゝ云はれては人用心をなすなり、人に何とも知られぬが秘事云々、也人に知られざるを以て上手とす、人に業を見せぬが傳授なり、下手にても勝なり考へるべし」

「釼の数二十本を以て五度打てば百本なり、一夜千打すべし、夜中的しづまりてよし、音なき様に布を後に張りて的をかくべし、柱中星よし」

記録には残らないことですが、手裏釼打と知られぬようにしている曰人と弟子の石川光實は如何にして知り合ったのでしょうか。石川光實の方がその存在を知り得ないとすれば、曰人が後継者たるべき人物を探していたのかもしれません。


『中臣流手裏劒卯家之巻』部分 個人蔵

傳授を承けた石川光實は、藩へ提出する履歴書に手裏釼のことを書いておらず、師の教えを守り秘していました。

8.6
請求していた資料が届きました。目を凝らし探したものゝ、流祖の足跡は掴めず空振りでした。もう少し範囲を広げてみます。
分限帳など地道に調べていますが、あと二十年三十年と経てばネットで簡単に検索できるようになるのでしょうか。今でも、熱心な機関は積極的に史料を公開して呉れています、実に有り難いことです。
分限帳といえば、諱を照合できない点不便で仕方ありません。俗称・名乗りは、諱にくらべて頻りと改名しますし世襲もあり、はたして目当ての人物その者か決め手に欠けるからです。

 〇
丁度良い史料が見付かったので、「伝書の用意(四)」を書いています。半年ぶりの続きです、近々掲載する積りです。

8.3
国友一貫斎の手紙を読みました。手紙というより、副簡というべきしょうか。天地のことを語っています。一貫斎にしか語れない、天体観測の知識・経験を基にした天地論です。手紙を受け取った炮術師役は、一貫斎の話しを読んで何を思ったのか興味が湧きます。

8.2
七月下旬はこれといった更新も出来ず終いでした。
水面下では、史料を探す・読む・調べるを繰り返し、好調に過しております。
いくつかの発見がありました。目下、資料を請求し周辺情報を集めています。

江戸時代前期の流祖の足跡を掴むのは容易いことではありません。史料に恵まれるか恵まれないか、偶然の要素が多分にあるでしょう。今回の件では、ある流義の流祖の足跡を追っています。その足跡を直接掴めたわけでなく、関係を示唆する史料が見付かりました。このきっかけが無ければ、調べようとは思わなかったのです。自分の予測が当るか外れるか、資料が届いてみないと分りませんが、届くのを楽しみにしています。

 〇
大切にしていた史料が虫に喰われました、残念でなりません。
梅雨時に孵化し、成虫となって包紙を破っていたところを見付けました。
この史料は三年前に購入したものですから、今更どうして虫が出てきたのか不思議です。三年の間に度々この史料を読んでいますし、保管に関しては史料自体を別紙で包み、さらに保管用の箱に収納していました。後から卵を産み付けられたとは考えられず、三年間卵のまゝ眠っていて今になり孵化したと考えるのが妥当しょうか。一年、二年は安全であった史料も、三年目には虫に喰われることもある、これは良い教訓となりました。

 〇
史料についた虫の卵は専門業者の燻蒸でも死なゝいことがある、とその筋の人から聞きました。元々水分の無い紙を喰う虫ですから、その卵も何年間かは眠ったまゝ過すことが出来、ある日突如孵化することもあるのかもしれません。
毎年のように成虫となった虫を見かけます、虫が活発化する時期は決まっているようで梅雨時に集中いています。斯ういった虫の習性を考慮すると、史料の点検は梅雨時に行った方が効果的であるかもしれません。

 〇
虫といえば、紙魚は傳書の題箋を好んで食べます。題箋が食べやすいのか、それとも題箋に附された糊の成分を好んでいるのか定かでありませんが、大事な部分を狙って食べているようで困ります。先日傳書を買いました、八巻まとめて桐箱に収められたものです。この題箋が全て紙魚に喰われていました。一体どこから桐箱に侵入したのか、これまた不思議です。