鎌田魚妙の手紙、末の左類に 被存候

今回は『新刀弁疑』『本朝鍛冶考』を著した鎌田魚妙翁の手紙です。


『鎌田魚妙書簡』個人蔵

山口信八郎様 鎌田三郎太夫

追日暖和に御座候御安泰
奉欣喜候先頃の御挨拶
被入御念候御義忝承知仕候
又若州より御頼の由にて揚ヶ物
愚案可申上旨委細承知
仕候如仰堀川物に相見候得共
少々古き様にて末の左類に
被存候何れ御佩刀に被成候て
宜敷奉存候刄能く物切れ
可申候御返答認懸候所
人来多早々以上

三月廿七日

尚々 御道具返上仕候以上


「若州」「山口信八郎」、この二つの言によって若狭小浜藩の士 山口信八郎宛ての手紙と分ります。また、この事を裏付けるように、一連の手紙の中に同藩士 針ヶ谷権左衛門宛ての手紙も有りました。年紀は定め難く、明和から寛政までとしか云えません。山口信八郎については少しく履歴が判明しています。

山口信八郎の師にして父の小野忠市郎(道煕)は、酒井忠貫公若年のころに御傅役を勤めました。信八郎は忠市郎の後継者として門弟となり明和7年(1770)忠市郎歿後に家業(学者として講書指南・読書指南)を相続し、弐拾五人扶持・御馬廻・牛込御文庫御預を命じられます。同年御廣間勤御免、安永2年(1773)講書且讀書を繁多に務めるにつき御文庫御預御免。(記録はこゝ迄)

山口信八郎、手紙の頃は酒井忠貫公に仕えていたと考えられます。書中「若州より御頼の由」とは、酒井忠貫公の依頼のことか、敬称を欠くため同藩士の依頼を指したものか。「揚ヶ物」とは、おそらく「摺り上げ物」(無銘)のことを指すのでしょう。

手紙は訳すと斯ういう文面です。


日を追って暖和になりますね。御安泰のこと欣喜に思います。先頃の御挨拶、御念の入ったことで忝く承知しました。
また、若州より御頼みとのことで、揚ヶ物(摺上げ物)について愚案を求められていること委細承知しました。仰せのごとく堀川物に見へますけれども、少々古き様にて末の左類に思われます。いずれ御佩刀に成されて宜しいと思います。刄能く物切れるでしょう。御返答を認め懸けのところ、人来多く早々。以上
三月廿七日
尚々、御道具は返上します。以上


「刄能く物切れ可申候」、これを剱相と云います。
魚妙翁の『新刀弁疑』に「剱相は、剱徳の奥秘ばかり知るべきにもあらざれども、大意の所は金氣の躰全く磨(とぎ)を俟(ま)たずして鉄の乾潤を知り、試しを俟たずして物よく切るゝを知る」と述べられています。所謂、武家目利というものでしょうか。

 〇
「相剱之道」と云い、魚妙翁は寛政四年から歿するまで四十九名の弟子を取りました。現存する起請文によって確認出来、萩藩のほか旗本や数藩の士が名を列ねています。但しこの起請文一通丈けとは限らず、他にも弟子がいたと思います。

この当時の一般の剱相といえば占いのごときもので、目利もいっしょのように扱われていたそうです。魚妙翁が嫌うところでありました。その様相もまた『新刀弁疑』の記述に拠れば、「剱相は猶目利の如し。共に刄の徳を尋ねるなり。世にいう所は剱の長短によりて吉凶を示し、或いは刄の模様を以て吉凶を示し、或いは逆足乱は悪し、のたれ刄にして鎺本の刄締りて細く又帽子美しく締りてなどやかなるものを吉剱とす。或いは一通りうち見て刄の成・不成にも疵の有無にも拘らずして福禄壽や病難等をいろいろ言葉を巧み、吉凶善悪を云うこと人々異なり。か様の輩(ともがら)、小利を貪り人心を迷わすの甚だしきなり。心あらん人、歯に懸くべきにもあらざるべし」と。


『吉凶剱之巻』個人蔵

吉凶剱相の史料は相当数が現存していると思います、私の手元にも二,三冊あります。これを見れば魚妙翁の言うことも合点がいきます。刀のこの部分に斯ういう所があれば弓箭にかゝるとか、水難火難絶えずとか、現代においては荒唐無稽なことですが、当時はそこそこ通用していたらしく魚妙翁がわざわざ批判する訳です。

 〇
魚妙翁より時代が下って天保12年、子か孫か鎌田三郎太夫の名が分限帳にあり、百五拾石・諸奉行格・京都御留守居を勤めています。

参考資料
『小浜市史 藩政史料編二』小浜市史編纂委員会