伝書の用意(四)、出石藩

師範が門弟に傳書を傳授するとき、その傳書はいかにして用意されるのか?
武術の史料として重宝されているにもかゝわらず、その実体はほとんど知られていないように思います。
半年ほど前に「伝書の用意(一)~(三)」と題して、三つの事例を紹介しました。
まだまだこれからです。史料が見付からず滞っていますが、一つ一つ実例を積み上げていきます。

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今回は、日置流伴道雪派の秘書八巻(天保二年三月十五日付)の用意に関わる話です。
秘書八巻には史料四通(増田太市郎の手紙三、松原熊蔵の手紙一)が附属しており、これによって伝書製作の状況が分ります。
師は増田太市郎(但馬出石藩の弓術師範)、弟子は生駒勘左衛門(何藩か不明)。
もう一人、増田太市郎の弟子にして既に師範である松原熊蔵(近江膳所藩の弓術師範)が登場します。


『日置流伴道雪派秘書八巻』個人蔵


『日置流許状』部分 個人蔵



『増田太市郎書簡』天保3.4年頃か 個人蔵

一筆啓上仕候頃日は残暑厳敷候所
愈御勇健被成御勤珍重の御儀
奉賀寿候随て小子以御蔭無異相
先達は久々にて御伺申上候所不相替
御壮健の御様子御見請お熊殿にも
御安栄にて御世話被成候段重畳
芳出度御儀御同慶仕候其上
不相替御懇意被仰下殊に多勢
の者種々御馳走頂戴仕難有仕合
奉万謝候御社中様には御繁盛
於私大慶至極奉存候帰路の砌
不存寄御肴料御目録迄御恵投
被成下御懇配の段難筆紙尽
難有仕合奉存候其後早速に以
書■成共御厚礼御挨拶可仕
筈の処御暇仕候翌日より郡山
罷越暫逗留御家中三流共に
尋問世話仕遣候て帰京江刕表
立越是又何角藝用にて余程
逗留に相成り先頃京都迄引取
彼是打捨置候用事共差閊誠に
御疎意の至背本意候真平御
仁恕可被成下候
一 御地罷出候節年来の御執心の
義流儀傳授の義先達差上
可申候処無何氣打過候義御
堪忍可被成下候先頃御噂にて傳受
の義勿論射法の義は如何様の
秘密に候共御大仁様へ御傳受可仕候
義に御座候既に昨年入部に付候ては
主人より格別の懇意の上拝領物
仕候義一家中諸師範も御座候へ共
私壱人右の仕合偏に大仁様へ
御厚恩の近年相顕候義御恩の
儀は山高海深の上に御座候其外
諸国に罷越候ても射道一儀にては尊
敬に預り全御恩澤の餘勢に御座候
御厚礼冥加至極難筆紙尽此
故奉存候
依之流儀免許追々
一部九巻但今一巻先年帰京後
御宅へ御礼に罷出候年号にて御
傳授仕候
御悦納可被成下候猶又
印可の巻蟇目鳴弦の書物は
追て差上可申候何分旅中の儀故
門弟膳所御師家松原熊蔵へ申
談江刕へ罷越候留守出来一両日
前持参仕候旅中の儀故書判
斗に御座候秋罷出候節朱印
等持参仕候て證状等相認可申候

當時私共の振合故目録料
丈は御序の砌被遣可被成下候
餘は御配意聊不及候御稽古に
被参候御社中様方へ次第に御相
傳可被成下候尤免許迄に傳受
三段に御座候間左様思召可被成下候
巻物松原方にて傳受済候者へ夫々
書写申付候故色々愚筆も相交り
見苦敷候へ共御勘弁可被成下候

右御約定仕罷帰り差急候へ共大
延引に相成り候段御勘弁可被成下候
私義も今少用向相済兼候に付今
暫は在京仕候何れ秋は罷出
緩得拝謁可申儀と相楽申候先は
右の段申上度如此御座候猶
期重便の時候恐惶謹言

 七月八日   増田太市郎

 生 勘左衛門様
     参人々御中

尚々先達は少々御不快の儀
被仰聞候當節如何御座候哉残
暑に相成り厳敷事に御座候折角
御厭御保養専一奉存候誠に
諸方飛知行心外の御疎意
御約定巻物出来に付乍延引
差上御落掌可被成下候外大
佛餅一箱御笑味可被成下候はゝ
難有奉存候乍末毫お熊殿
外御出席御社中様宜御致
聲奉希候秋少々冷氣にも
相成り候はゝ罷出御様子御伺可申
上候頓首再拝〃


はじめに、師範 増田太市郎の手紙です。「先年帰京後御宅へ御礼に罷出候年号にて御傳授仕候」とありますから、認められたのは天保3.4年の内でしょう。尤も、入部の話題は「昨年」とあり、傳授の約束は「先年」とあり、天保4.5年の可能性も考えられます。

 〇
増田太市郎は、藩から藩へと忙しく武藝を指南し活動していた様子です。このような例を実見したのは初めてゞす。数藩の士を指南する場合、普通は江戸において行われたものです。ところが増田太市郎は、京都→郡山→京都→近江→京都へと移動しており、江戸に於ける指南でないことは明らかです。

また、増田太市郎は自身の家中でもしっかりと弓術師範を勤めていたらしく、「昨年、入部(*)のときは主人より格別の待遇をうけ拝領物がありました。家中の諸師範もいましたけれども、私一人がこの仕合せ、偏えに大仁様との厚誼が近年顕われたのでしょう。御恩の儀は山高海深の上に御座います。そのほか諸国に行っても射道一儀ながら尊敬に預り、全く御恩澤の餘勢に御座います。御厚礼は冥加至極、筆紙に尽し難いことです」と、得意満面な様子を伝えています。
 * 入部とは殿様の国入りのこと。

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肝心の秘書八巻については、多忙のなか弟子の松原熊蔵に任せておき、出来たものを一両日前に受け取ったとのこと。又、旅中のため書判(花押)ばかりで、次に会うとき朱印を捺し證状を渡す、と伝えています。

「流儀の免許、追々一部九巻但今一巻は、先年帰京後御宅へ御礼に行ったときの年号にて御傳授します。御悦納ください。猶又、印可の巻 蟇目鳴弦の書物は追て差上げます。なにぶん旅中のことですから、門弟 膳所御師家の松原熊蔵へ相談しました。近江へ行き不在でしたが一両日前に持参しました。旅中のことですから書判ばかりです。秋に参るとき朱印など持参して證状など認めましょう」

現存する秘書八巻には朱印が捺されておらず、この文面の約束は果たされませんでした。

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ほかに、傳授について気に掛る記述があります。それは「御大仁様」への傳授です。

「先頃御噂にて傳受の義勿論射法の義は如何様の秘密に候共御大仁様へ御傳受可仕候義に御座候」
「偏に大仁様へ御厚恩の近年相顕候」

「御大仁様」と云うのは、家中の身分の高い士を指したものでしょう。
先述の拝領物のくだりにある如く、家中の諸師範から特に自分だけが厚遇を受けたのは、「御大仁様への御傳受」が功を奏している、と云うわけです。
こゝに、増田太市郎の戦術があったように思います。弟子の生駒勘左衛門にも「大仁様へは御傳授」を強調しています(次に掲げる『増田太市郎副簡』参照)。

流儀のより一層の発展、あるいは自身の声望を高めんと画策するならば、これは至極真っ当な戦術であったと言えます。家中の高禄の士たちが支持すれば、それだけ流義は隆盛するだろうと期待できるからです。
ちょっと武藝の本質とはかけ離れている事ですが、斯ういった根回しなどは必要不可欠と言えるでしょう。しかし、日置流は既に大々流派ですから、流義の存続云々ではなく増田太市郎自身の声望を高めることが目的だったのかもしれません。もしくは同流の間に派閥のようなものがあったのでしょうか。



『増田太市郎副簡:道雪流傳授の次第』個人蔵

 道雪流傳授の次第

右大躰修行仕候者へ初て傳授

 初傳 弓の書目録と

   右傳受仕候右註書は
   日置流弓の書物と認御座候
   に委敷訳合認御座候

 第二段目

 一通     所務言葉の巻
  目録と云  小的の書 羽観
             合二巻
        射義指南哥

 第三段目   弓の書物 一
  免許    細工の書 一
        系圖   一
      外 許状一巻

 右三度に傳受仕候義御座候
 御社中に位々夫々御傳授
 可被成候右の外

 第四段目
  中傳   ┌蟇目鳴弦
       │藤矢搦
       └軍陣謀詰留

 第五段目
  印可    目録巻物拾巻
        合冊註釋本廿巻
        證状一巻
   外唯授壱人の書
    虎強清眼と云

本書申上候通り如何様の
書にても大仁様へは御傳授
可仕候何分旅中の儀故
免許追々一部差上候御
落掌可被成下候極私寸志
御悦納可被成下候頓首
  七月七日 増田太市郎
         長澄
 生駒勘左衛門様


「本書申上候通り」云々の記述によって、前掲の『増田太市郎書簡』の副簡であると分ります。

 〇
生駒勘左衛門が傳授された秘書八巻は、書中の「初傳・第二段目・第三段目」に該当します。合わせて、その後の「第四段目・第五段目」までが明らかにされています。この事から推し量って、生駒勘左衛門はいずれ卯可を傳授される予定があったのではないかと思います。この手紙のとき生駒勘左衛門は免許でありましたが、既に傳授は行っていたことが伝えられています(*)。増田太市郎は、特に「大仁様へは御傳授可仕候」と念を押しており、有力な門弟と目し期待していた様子です。
 * 免許であれば、師範の後見のもと免許までの傳授が可能でした。



『増田太市郎追啓』個人蔵

  追啓

大切の巻物故御請取
可被成候尤旅宿

 京都五条問屋町弐丁目
  萬嘉借屋
    萬屋常次郎

右の方へ旅宿仕候間書
物慥に相届候はゝ鳥渡
乍御面倒御請取可被成下候


「大切の巻物」=「秘書八巻」を請け取ったら知らせてほしいと云う連絡先の追啓。前掲二通に同封と察せられます。



『松原熊蔵書簡』個人蔵

別啓奉申上候先達てより
御頼の御流儀初傳
目録免許状迄都合
八巻箱共出来
に付
夫々為相認此便差上
申候御落掌可被下候尤
是迄御定の通巻物
八巻箱入にて金壱両壱歩
外に書冩料壱歩相懸り
申候都合金壱両弐歩に
相成申候間
重便御越
可被下候此段奉申上候跡
一部は近々差上し可申候間
左様思召可被下候右の段
申上度如斯御座候以上

 七月五日  松原熊蔵

 増大先生
    玉机下


先述の通り、松原熊蔵は近江膳所藩の弓術師範にして増田太市郎の門弟です。はじめに掲げた『増田太市郎書簡』の三日前に認められたものでしょう。生駒勘左衛門の元へ此の手紙が送られたということは、増田太市郎が秘書八巻の代金を請求するとき、その証しとして同封したのだと考えられます。


今回は、師範の側が傳書を用意しました。しかし、師範本人は多忙であったゝめ別の門弟が製作を担当し、そのまた門弟たちが手分けして書写し、秘書八巻を完成させました。

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秘書八巻箱入の代金は、書冩料含めて金壱両弐歩。

巻物自体は市販の物を購入し、箱は別注したと思います。これが金壱両壱分。

書冩料は壱歩かゝっています。松原熊蔵方の門弟(傳授者)たちが手分けして書き写した、とはじめに掲げた『増田太市郎書簡』に書かれています。傳書は未伝の者への他見他言を憚るという決りがありましたから、書き写したのは既に傳授を承けた門弟に限られたようです。

傳書を観察したところ、三人の手で書写されていました。
「初傳・第二段目」の『弓之書目録』『的所務言葉』『小的之次第』『射義指南歌』、計四巻を一人が書写(筆一種使用)。
「第三段目」の『弓之書物之事』『細工之書』『射家系圖』、計三巻を一人が書写(筆二種使用)。
「第三段目」の『許状』一巻は一人が書写(筆二種使用)。

増田太市郎は「色々愚筆も相交り見苦敷候へ共御勘弁可被成下候」と詫びていますが、伝書としては尋常な仕上りです。弓術は伝書の数が多いので、書写には大変な苦労があったのではないかと愚考します。

参考資料
『江戸通矢に見る弓術流派のネットワーク』佐藤環著