平成廿九年七月近況

7.18
昨晩、士族の日記を読んでいると虫歯治療の記事を見付けました。

[明治十七年]
二月十一日辛卯
一長次郎十一時帰宅十一時三十分次横綱町
 長谷川保歯醫に左の奥歯即
 替え歯の次臼歯虫蝕を銀にて
 填充の積然れ共歯の神経
 不死候間先〃切断神経を
 劇薬にて殺し一と先護膜にて填充
 六十日間経然る後銀にて填充
 の積代價三円五十銭の由
 尤コム代金斗にて追て
 治療の積

十二日 壬辰
一出校正平頼合長谷川保へ行歯治療請
 コム填充せり又候出校三時退校

十五日 乙未
一出校午前十時頼合長谷川へ行治療を受
 候處未何の■■なく只痛候間可然
 相頼候處コム詰替にて念代料にて帰る
○右代口中腫喰■取に因て人力車力蠣
 売町岡へ行承貰金時候當り腫物口中
 に發し胃汚物溜り居候段如斯相發し候や當分
 の事候間薬を十分飲せ不申候や
 本日は寧秀誕生に付内祝せり

明治十七年には既にこのような虫歯治療が行われていたのかと驚きました(一部読めず)。注目すべきは、治療内容を患者の側が正確に把握していることです。つまり歯醫の長谷川保が細かく説明したのでしょう。
ちょっと調べてみると、こゝに登場する歯醫 長谷川保はウィリアム・クラーク・イーストレイクの弟子でありました。当時の最先端の治療だったのです。

7.14
昨日、今日と星野如雲翁の『上京道中日記』を書き直していました。
史料通りに改行されていないと落ち着かず、且つ情報が一望できない不満があったからです。

読めない字も多くあったので、今回こそはと読んでみましたが、やはり甚だ読みにくいです。矢立から取り出した小筆を以て書いたのでしょうか。妙にガサガサと乾いた筆線がそう思わせます。
以前読んだときに分らなかった字が、今回は幾つか読めたので、如雲翁が泊っていた宿も分りました。六條醒ヶ井通りの表具屋庄之助、西本願寺の北東角向い目と鼻の先です、早速地図に書き足しました。

7.12
「武術史料拾遺」を立ち上げて三年の月日が過ぎました。

江戸時代に武士たちがいかにして武藝に取り組んだのか、その環境や実躰等を解き明かすことが当初の目的でありました。素より三年斗りで達成できる目的とは思っていませんでしたが、浅学にして非才ゆえに思いのほか此の目的は達せられず、未熟なることを痛感しております。しかし三年の間に、これはと思う史料が少なからず見付かりました。そのうち、すでに掲載しているものをこゝに幾つか挙げます。

たとえば、伝書の奥書について触れた「宮北十郎左衛門の手紙、伝書の実躰」。この手紙の中で宮北十郎左衛門は、「惣て高上極意印可状定て傳受せしむべし、とこれ有るは書物柄の文躰とて外に傳授の義はこれ無く候」と、当時の伝書傳授の実躰を述べています。ずっと以前は「書物柄の文躰」ではなく、「高上極意印可状」は実在したのかもしれません、中途で失われてしまい文言だけが残されたのではないか、と考えられます。

また伝書の奥書について「尾州竹林派四巻書」の中の「尾州竹林派四巻書:第四 奥儀之巻」。これには星野勘左衛門の自筆にて「愚身悪筆にて書き進む事も如何に候得共、浮世の書物共は色〃謀を廻し盗出して写し取る事も、又は判抔(など)を似する事候得ば、善悪に寄らず筆情墨色似せ難き物にて候得ば、愚身筆を證據として是に書き進むもの也」との旨が書かれています。はたしてそういった偽物が出回った事例があったのだろうか、という興味深い記述であります。わざわざ書くということは、そういう偽筆があったという証とも受け取れますが、さていかゞなものでしょうか。

傳授の実躰といえば「起倒流柔術鎧組討の傳書」の中の「口傳秘書巻」が有力であります。同書の文中において「人の巻」については「右いづれも用に立たぬこと也、故に流義に右様のわざこれ無し」(※右いずれも、というのが全てを指すのか、或いはそこまでの数項なのか定かでない)と、「諸流十二の形」について「此の十二の形も用に立たぬこと也、是にて色々のわざを教ゆる義なり」と註釈されています。各代の師範たちが受け継ぐ伝統の伝書からはうかゞい知れない実際の傳授の有り様が述べられている点、実に有力と思われます。

ちょっと視野を拡げ、当時の情勢が武藝に与えた影響。たとえば「嶋本流棒火矢」の「御用意矢製作被仰付候節諸扣」。嘉永6年の異国舩騒動によって、御用意矢を製作するよう主家から命ぜられた福山貞馬の記録です。御用意矢製作に至る経緯は記されていません、命ぜられてから御用意矢が納められるまでの経緯が事細かに記録されています。異国舩に対し棒火矢がどれほど効果的であったのか定かではありませんが、藩が武藝に期待していた一事例といえるでしょう。

天保の徳丸原演練以降、各藩に伝播した高嶋流(西洋流)。この流派が在来炮術に与えた影響は多大でありました。姫路藩にも徐々にその影響が出始めたころ、在来炮術である不易流の師役が高嶋流の業を取り入れようとします。「不易流砲術概説:他藩師役との交流 ~佐藤秀堅の書簡~」の中の「佐藤謙之介書簡:天保14年秋「我等ボンベン抔の事は及びも申さず候」」。この手紙は伊勢津藩炮術師役が認めたもので、他流の業を取り入れることに対する憤りが述べられています。そして、他流の業を取り入れる場合の解決策として「他之術ニ而もよき術御座候ハゝ流外ニ被成可被置と奉存候、内々ニ而も傳授ト申而も弟子入も同之事ニ候」と、流外の扱いを勧めます。斯うした機微は史料として残りにくゝ貴重な情報であります。

武藝に取り組む武士とはどういったものか、その一端を明らかにしたのが「大野藩の軍学 要門導入と起請文」。起請文に名を列ねた者たちの履歴を調べることによって、家格の高い士の嫡子や当主たちが要門を学んでいたと分りました。また、調べを進めている最中の「不易流砲術概説:酒井家の門弟たち」。こゝでも同様の手法によって、酒井家に於ける不易流炮術の門弟たちの履歴を明らかにしています。

以上、三年を振りかえり思いつくまゝ、私が目的とするところに近い史料を挙げました。見返してみると、改善の余地は途方も無く大きいように思われ、今後一層の努力が不可欠であると認識しました。

7.6
『真影山流居合の註釈書』を二つ載せました。

(一)の構成は、「表手数」「陰手数」「目録手数」「免許手数」「構」「大巻」。

(二)の構成は、(一)の「居合」「立合」に加えて「取合」(「取合表手数」「取合陰手数」「取合目録手数」)が収められています。このほか、「構」には「入身構」「小太刀構」が加わり、また(一)では空白の侭置かれていた「印可(兵法免許口傳)」が記されています。尤も「大巻」は収められていません。

(一)と(二)に共通する手数は多くあります。しかし、遣方の説明そのものは相違しており、両方を突き合わせることで、より確かな情報を汲み取れるのではないかと愚考します。

7.3
仕事量が多く滞っていた「石川光實」の項が出来ました。
まだ書き足らないのですが、もう少し史料を読み込まねばならず、区切りの良いところで載せました。
眼を休ませるため、数日は更新が滞ります。

7.2
『真影山流極意之巻』の訳文が出来ました。
読んでいて一際目を引いたのが入合之剱です。

 

心通手眼
「両方太刀の中にて打ち合い候節、我が身を小さく左の足を踏み込み、敵の太刀我が躰へなにとぞ押し付けさせ、その太刀引き上げさせずに勝負する事、是誠の入合の剱なり、但し敵の太刀生るゝ所をおさえて後、我が躰へは押し付け給う事なり、居合にても兵法にても摺足有無の合太刀、心通剱と極意申し候えども、敵の太刀の白刄を我が躰へ請け留めて敵の随がゆる事これ有るによって入合の剱と表したり」

これは中腰極意極意三ヶ條に於いて、殊更説かれる心です。

中腰極意
「敵の太刀上にても下にても我が身へ押し付けさせて苦しからず候、綿入などにては少しも通らざるものなり、袷・単物・帷子に候とも必ず我が身へは当らざるものなり」
「若し怪我仕り候ともその手にてはあやまりに罷り成らず候、一寸の負け九分の勝ちとこれを云うなり」

心明剱
「平生我が身には着こみを着たると思う所は至る所の誠なり、敵の太刀我が身には当りても切れざると思い行く事必ず忘れまじき事」

真之摺足
「敵の白刄を我が躰へ押し当て苦しからざる事有り、合わせて後は必ず敵の太刀よはるものなり、その時押し懸けたる分りて綿入の事はさて置き、単物にても通らざるものなり、この心を常式持ちようはいつも我が身に着込を着たると思うが専一なり」

合太刀之大事
「合わせて後は敵の太刀を上下左右のきらいなく我躰へ我と受け留め我が太刀にて敵を亡ぼす所を真影一流の誠の秘蜜と善賀入道より申し傳え候」

「敵の白刄を我が躰へ押し当て苦しからず」、これら着込みの心は、極意のなかで特に説かれます。
ところが、数代後の「大巻之巻覺」の冩においては、この着込みの心について全く触れられていません。吉田武左衛門が敢えてこの心を外して大巻を傳授したものか不思議です。
この冩の冒頭には興味深い記述があり、先ず武左衛門、沼澤一郎左衛門、渡邊甚助、村上平兵衛へと唯授一人が伝えられたことが書かれており、次の項に「武左衛門が真影流と真影山流に分けたと聞く、唯授者も分けたのだろうか分らない、この通り流は二つに分かれた」との旨が書かれています。

 

話しはかわり、眞影山流を指南した石川光實は、諸流に先じて中臣流手裏釼の印可を相傳されました。師は曰人と云い俳諧で名の知られた人です。曰人は幼少より上遠野伊豆の門弟に獨鈷流手裏釼を学び、さらに三鈷流・剱徳流・香取流吹針などを学び、後に工夫を加えて一家を建立します。しかし、手裏釼打と人に知られては警戒されるという考えから、これを一切秘していたようです。伝書には弟子の光實にもそうするようにと書いています。
なお「釼の数二十本を以て五度打てば百本なり、一夜千本打すべし、夜中的しづまりて吉し、音なき様に布を後に張りて的をかくべし」、「右、九曜打たるゝ手もとならば指南たるべし、毎夜千打おこたるべからず、七星うたれぬうちは指南無理なり」と日々の鍛練を欠かさぬよう戒める文言が見られます。どうやら傳授自体は短時日にて行われ、その後は日々の鍛練に委ねられていたようです。これもまた石川光實の項において触れたいと思います。

7.1
直心影流・氣楽流関係の史料を立て続けに掲載し、しばらく眼を休ませ、このほど真影山流の史料に取り掛かりました。
目下、真影山流を指南した石川光實のページが七割方出来、真影山流の註釈書が一つ翻刻出来、同流極意之巻の翻刻が完了し、次いでその訳文を作成しております。真影山流極意之巻は同流の重要史料と思われ、特に力を入れて訳文を検討しています。訳文とはいえども、現代文に直すというのではなく、主観は交えず読みやすいように文を整えようと云うものです。これには師範家旧蔵の註釈書二冊が大いに頼りとなりました。今のところ五割ほど出来ています。

真影山流を指南した石川光實にはユニークな話しがあります。彼は仙臺藩の士で大番士と云う並の士でした。家督を継ぐ以前のこと、師範の命によって丹波柏原まで旅をします。仙臺から丹波までは結構な距離があります。当初彼は一年の暇を藩よりもらいました。もちろんこれは武藝修行のためです。
丹波柏原を領する織田出雲守の家中に真影山流の師範がいるという情報があり、この師範から流義の欠けた部分[傳落]を教わろうという目的でありました。
ところが柏原に着いてみると、その目当ての師範がすでに病死し流義は絶傳したとのこと。落胆したであろう彼はこゝで一計を案じ、同じ家中の士に二刀流を教わります。渋谷流釼術と云い、あまり知られていない流派です。当時の織田家においては、殿様が仙臺侯に懇ろな扱いを受けたという認識が家来にもあって、突如来訪した彼にも特別に流義を傳授したようです。
これが仙臺藩に渋谷流が伝えられた経緯であり、予期せぬ伝播というのが面白く感じられました。石川光實の項にて詳述したいと思います。

話しはかわり、旧字体と現今の字について。
現代では「仙台」と書き、「伊予」と書き、「武芸」と書きます。
しかし、江戸時代の史料を見るかぎり、「仙臺」「伊豫」「武藝」と書いてあります。
なぜなら、これらは単に旧字体というのではなく、台と臺、余と豫、芸と藝、本来別の字だからです。
つまり近年、全く別の字を混同するようになったわけです。なにもこの三つの字に限ったことではなく他にもそういった例があります。
私は舊字體にこだわる主義ではありません。江戸時代の史料を紹介するのだから、せめて漢字の表記ぐらいは留意しようと思うのです。だから、「伝・傳」「剣・釼・剱・劒」「体・躰・體」「槍・鎗・鑓」などの相違にはさして頓着なく使っています。尤もその史料を紹介するときはその史料に随って書くことにしています。

表記といえば、現代においては見られない表現が、江戸時代の史料にはいくつか見受けられます。
たとえば、今回取り掛かった仙臺藩の石川家の記録には「傳談」「傳落」という言葉がありました。流義の傳授に関わる相談を「傳談」と云い、流義の欠落した部分を指して「傳落」と云ったようです。
また、以前取り上げた姫路藩の炮術師家の古文書のなかに「流外」と「流替」という言葉がありました。「流外に被成可被置候」これは他流の技法を自流外の扱いにするとき用いられています。「流替」は、不易流から西洋流へ流義を替えるときに差し出されました。藩が後ろ盾になってのことです。
ほかに、加賀藩の居合師家の記録『学校向達方等一巻留』には、「傳流」という言葉が見られます。「一 門弟之内流儀不得手ニ付傳流致度旨被申聞候人〃有之時ハ得与承り糺申分茂相分り居候得ハ致承知其段相達可申候」これは門弟の側から破門を希望したとき、平和的に破門を許可する場合に用いられています。
尤もこれらは極めて限られた史料を通してのみ知ることのできる情報であって、当時の広汎における認識は定かでありません。

さらに、今日言うところの師範に関わる表記について、「師範」「師範人」「指南役」「師役」「師家」「家元(家本)」等と云った言葉が江戸時代の史料に見られます。
これらをその都度使い分けるのは難儀なため、役儀として指南する師範を「師役」とし、それ以外の師範を単に「師範」としています。
また、その師範の家を指す場合は「師家」と云い、「師家」が代々流義を継承する場合においては「家業」と云います。なかんづく流祖以来の子孫が流義を継承している場合「家元(家本)」とします。「家元(家本)」の表記は江戸時代の幾つかの史料に見出すことができます。
(蛇足ながら、「師役」という言葉は熊本藩の記録に見られる表現で、他では見た記憶がありません。星野家文書での印象が強く、好んで用いています。「家業」というのは武藝について云うには不適当なように感じてはいましたが、鳥取藩の記録では「家業」という表現が使われています)