斎藤弥九郎の手紙、品川沖測量及大筒鋳造


『斎藤弥九郎書簡』個人蔵

[前欠]
一 来春はアメリカ軍艦
数艘渡来の趣専風聞
いたしロシヤ イキリス
各追〃渡来の風聞にて
有志の輩一同心配罷在
此末如何可相成哉何れ
にも士氣作興の時節
兵士は釼炮の二道
精練いたし□□随て
鎗馬水軍是又専務
の入用に御座候処兎角
一寸逃退候て尓今張込無之
輩も沢山にて難敷事と奉存候
御地は近頃殊外御盛の
趣松本氏より承知仕至極
の御儀と奉存候全御世話
御行届罷在候段奉感拝候
猶□□御引立等御骨折
の處奉祈候當今の
士風都下の様子等右
四人の者共より御承知可被下候
時に御案否も可相伺処
六月初異舩渡来より
此方大取込品川沖
浅深測量分間いたし
去月中より本郷於桜馬
場大筒鋳造相掛日〃
奔走いたし候不得寸暇
意外の御無音偏に
御海恕可被成下候忰義も
越前公より御頼にて罷越
留守にて是又御無沙汰
申上候右四人の義は
何分宜敷奉希候様此段
可得貴意候如此御座候猶
後便萬〃可申上候
    艸〃頓首

九月八日 斎藤弥九郎

 黒川左右次郎様

尚〃折角時候御厭可然奉存候
乍憚其御社中様方へ
宜敷奉希候當方相應の
御用等無御座候□□


米国使節東印度艦隊司令長官海軍代将ペリーの退去より、斎藤弥九郎翁が手紙を認めた九月八日までの幕府の主な動向は下記の通り。

嘉永六年 『維新史料綱要』

六月十三日 幕府、米艦退去に依り、非常警戒を解き、内海警備を撤せしむ。

六月十四日 老中阿部正弘、海防掛川路聖謨・同筒井政憲を前水戸藩主徳川斉昭邸に遣し、米艦退去後の措置を議せしむ。

六月廿三日 幕府、三奉行・大小目付及海防掛に命じ、予め米国軍艦の再渡及諸外国船の渡来に対する措置を議せしむ。

六月廿六日 幕府、評定所一座・三番頭等に米国国書を示して意見を徴す。

六月廿七日 幕府、米国国書を溜詰諸侯に示して意見を諮ふ。

六月晦日 幕府、代官に命じて江戸沿岸の浅深を測量せしむ。

七月朔日 幕府、米国国書を諸侯に示して其要求の許否如何を諮る。尋で三日同じく高家以下布衣以上の有司に意見を徴す。

七月朔日 幕府、麾下士に諭し武備に習熟せしむ。

七月廿三日 幕府、令して海防施設に係る工事は普請停止中と雖中止すること勿らしむ。

七月廿五日 勘定奉行川路聖謨・韮山代官江川太郎左衛門、旗山・十石崎・富津間海堡築造の議に対へ、事歳月を要するを以て、寧ろ江戸近海の施設を急にするの可なるを論ず。

八月二日 幕府、勘定奉行松平近直・同川路聖謨・勘定吟味役竹内保徳・韮山代官江川太郎左衛門及海防掛に命じて、江戸内海に砲台築造の事を計画せしむ。

八月六日 幕府、韮山代官江川太郎左衛門の内願に依り、岡部藩に御預中の高島四郎太夫を赦し、其配下に属せしむ。

八月九日 幕府、米国国書に対する意見の提出を諸侯及麾下士に促す。

八月十日 幕府、江戸諸藩邸に於て四季空砲打調練を行ふを許し、且藩地に備へて猶剰れる銃砲を江戸に送致せしむ。

八月廿四日 品川台場築造位置を検分す。

八月廿八日 幕府、勘定奉行松平近直・同川路聖謨・目付堀利忠・勘定吟味役竹内保徳・韮山代官江川太郎左衛門等に内海台場普請及大筒鋳立掛を命ず。

八月晦日 露国舩一艘、北蝦夷地久春古丹に来り、乗員上陸営舎を構築す 松前藩主松前崇廣、報に接して戎兵を発す。

是月 幕府、湯島桜之馬場に鋳砲場を設く。

九月八日 幕府、江戸外郭諸邸に於ける調練の制限を撤し、専ら実用に力めしむ。


欠けた前紙には「右四人の者共」のことが記されていたようです。斎藤弥九郎翁の門下生でしょうか、「當今の士風都下の様子等右四人の者共より御承知可被下候」と江戸から下った様子であり、末筆では黒川左右次郎に「右四人の義は何分宜敷奉希候」と頼んでいます。
ときに斎藤新太郎もまた出払っており「忰義も越前公より御頼にて罷越留守にて是又御無沙汰申上候」、そのため一層ご無沙汰であったことが伝えられており、黒川左右次郎は斎藤父子と面識があったと捉えられます。力及ばず宛先の人物を詳らかにすることは出来ませんでした。文面から察するに遠方に住まう人物でしょう。
さて、手紙が認められた時、「来春はアメリカ軍艦が数艘渡来するとの趣、専ら風聞があります。ロシヤ・イギリス各追〃渡来の風聞にて有志の輩一同は心配しています。この末いかゞ成ることか」と都下身辺の情勢を伝え、「いずれにしても士氣を作興すべき時節」と武藝を盛んに行うべき論に移ります。「兵士は釼術・炮術の二道を精練いたし」、「鎗術・馬術・水軍もこれまた専務の入用」と自説を披歴、実際そのようにしようとしていたようですが、「兎角ちょっと逃げ退って、これから張り込みもない輩も沢山にて難しいことだ」と思い通りにはいかない様子です。
次いで、江川太郎左衛門の配下として「六月初めの異舩渡来より今まで大取り込み、品川沖の浅深測量や分間いたし、去月中よりは本郷桜馬場において大筒の鋳造に掛り、日〃奔走」と寸暇を得ない状況が伝えられています。
「品川沖浅深測量分間いたし」とは年表中の「品川台場築造位置を検分す」のこと、「去月中よりは本郷桜馬場において大筒の鋳造に掛り」とは「幕府、湯島桜之馬場に鋳砲場を設く」のこと。どちらも幕府が喫緊の課題として取り組んでいた海岸の防衛に関わる事です。

此の手紙には、単なる剣術家ではない斎藤弥九郎翁の真面目が見られます。

参考資料
『維新史料綱要』維新史料編纂事務局