鮫島白隺の尺牘、延齢松詩歌集


『鮫島白隺書簡』個人蔵

  尚々弊毫御用之儀共御座候ハゝ無
  御隔意可被仰聞候以上
周揃薩雲風高楽之至
御座候得共倍御清福可被成
御凌大慶至極奉存候不佞事
先年従駕東上之砌得拝面候
儀も御座候得共當御主人様ニ而為
有之哉又者御大人様ニ而為有之
哉聢与其段ハ不分明御座候別書尓も
如申上既三十年前之儀ニ御座候間
何事も范平如夢御座候此節
自哥人延齢集を被相示把手
致拝吟候処誠以不勝飛揚
塵芥再然[燃]之心地仕候不佞事
既高歯[齢]六十九歳ニ罷成候得者
何事も埒明不申候伏攊御憐察
可被下候承候得者追〃後集御撰
述之御企ニ御座候由右ニ付近頃老
狂如何敷御座候得共別帋詩一首
鄙文一通差上申候若や御笑
草尓も相成候ハゝ無此上仕合生涯之
面目ニ御座候申上度儀者海山不尽
候得共先者巴調進呈之印迄
匆々如此御座候恐〃謹言

  五月八日   鮫島吉左衛門
             黄裳

上田少蔵様
   侍史


鮫島白隺、「幼にして岐嶷不凡、詩に属し書を善くす奇童の称あり。長じて業大いに進み性佚蕩不羈、世人を睥睨す。言行唯意の適く所、世の規画制すべからず。最も酒を好み酔に乗じて詩を賦す、一斗百篇湧くが如く、其僻る所の書殆ど膏盲に入る。頗る張旭の風あり、悲歓憂歓一に書を以て之を遣る。老の将に至らんとするを知らず。其筆を下すや奇々活溌、自ら一家を成す」と墓誌に刻され、享年87歳、島津重豪公・斉宣公・斉興公・斉彬公の四君に仕え御右筆を勤めた人物です。
よほどの逸材であったらしく、七十九歳という高齢にして御右筆格助教勤を命ぜられ、また同年藩主島津斉彬公の助教にも召されました。当時から翁の書は世上に名高かったそうで、嘉永元年の京都滞在中には御所において席書を披露し称賛されました。また生前から偽書が出回っていたとも云われます。翁の豪放磊落な書風は、現代人の私にも力強く気韻の感じられるものです。

この尺牘が認められたのは白隺翁69歳、天保12年5月8日のこと。同年3月に再び御右筆見習書頭取を命じられたばかりです(但し系図では三月とも七月とも記される)。この再任は、三男の正左衛門が天保八年に罰せられたことで白隺翁も一時役を退いていた為です。

さて、本書簡の用件は「延齢集」という詩集です。これは天保11年(1840)庚子の新鐫『延齢松詩歌前集 全』を指し、また「後集」と云うのは安政4年(1857)7月上木の『延齢松詩歌後集 全』を指します。
なぜ「延齢集」の話題なのかと云えば、薩摩藩と縁が深いからです。『延齢松詩歌前集 全』は周防吉敷郡において、醸造を家業としていた上田少蔵によって刊行された詩集にて、その延齢松と云うのが寛政10年12月に薩摩藩公子 虎壽丸君(のちの島津斉興公か)が東上の砌、上田少蔵の土地(湖畔)に数本の幼松を植えさせたもので、年を経てその松が繁茂し目出度いということで各人が詩を寄せたようです。
そういう事情の詩集でありましたから、定めし同藩士の間で話題にのぼったのだろうと想像します。白隺翁は、歌人よりこれを示され手に取って拝吟したところ、塵芥が飛び揚って再燃するかのような心地がしたと感想を述べています。塵芥とは、すなわち老いた自分の心を云うのでしょう。この詩集をよほど気に入ったものか、白隺翁もまた一首を詠み上田少蔵へ進呈しました。
この一首が良ければ「後集」に収めて呉れよと云う意図らしいのです。「御笑草尓も相成候ハゝ無此上仕合生涯之面目ニ御座候」
実際、この進呈された詩そのものかは確かでありませんが、『延齢松詩歌後集 全』に白隺翁の詩が収められています。

   薩摩 鮫島黄裳
 吾公曾植寸苗松 繁茂経年青黛濃 偃盖蔭深栖白鶴 蟠根苔古養蒼龍
 濤聲起為清風起 雲影重因密葉重 請看延齢千載色 佳名不譲大夫封

参考資料
『近世薩摩の書家 鮫島白鶴の世界』鹿児島県歴史資料センター黎明館
『延齢松詩歌前集 全』上田堂山編
『延齢松詩歌後集 全』上田光美編