平田銕胤の手紙、近頃の上木事情


『平田銕胤書簡』個人蔵

 又申候、寺沢氏江之一封御序之節
 奉呈候、急用ニハ無御座候、毎々御面倒
 之御事奉拝謝候
追啓、別紙之通り相認置候而猶
昨年中之尊書ニ付拝答申上度奉
存候義も有之候得者一日々々と見合居
候内又々延引ニ相成り既ニ正月
廿四日被差出候貴書も二月初旬
相届拝誦仕候、如被仰下候改年之
御慶不可有際限千里同風目出度
申収候、先以倍御安泰被成御超歳
目出度奉存候、不相替御懇之御書
面不淺難有拝見仕候、猶又親父方へも
御一封被成下是又辱仕合早々幸便
差下し申候、嘸々大慶可仕候呉々も
親父よりハ御無音申候条御仁免可被下候
扨、旧冬より御地辺時候之寒暖雷鳴
等之事も被仰下、勿論當地も旧冬
中大方同様之事も御承知御座候よし
仰之通り珍ら敷次第、此節ニ至り候而ハ
厳寒中とも可申寒威烈しく相成申候
閏月も有之候得共余程寒氣後レ候事と
被存候
○ 近頃京師ニ而一株ツゝの才子たち
種々の奇説を集刻いたし候もの二冊
計り有之、中ニハ面白キ事も有之由被
仰下當地へも参り候哉、如何未見不申候
扨、昨年之貴書中ニ新規上木ものハ大ニ
六ヶ敷御座候哉ニ御承知被成候由、いか尓も
林家之御調べと申事ニハ候得共、何か聢とも
定り不申候、書肆抔の申口ニ而者伺さへ
いたし候得者相済可申由ニ候得共、彼是
面倒且世間も質素故商ひも多かる
まじ九、夫故ニ誰もゝゝ先ハ見合せ居
候事也と申候、拙方出板ものも世上へ賣
出し不申一己ニ蔵し置候義ハ新刻
いたし候而も不苦候事の由、其向キの人々
申聞かれ候も有之候得共是又聢といたし
候事ニも無之様子、且ハ失費も手廻り不申故
其後ハ何も取懸り不申候、却而世間の
噂ニハ物毎余りニ厳密と申やうニ御座候
得者、必又少し者緩ミ方も可有之との
事ニ御座候、先々見合せ居候儀ニ御座候
此節ハ一昨年来之御觸書を不残
集刻いたし候もの出来申候、御地辺へも
参り候事と被存候
○ 近年漢籍十八史略の新刻本
出来申候、京人音博士岩垣松苗と
申人の訂正本序并標書有之甚愉
快なる説見へ申候、既ニ御一覧も御座候哉
皇蕃之弁別正しく目覚しき事ニ
御座候、要なきものも多く出来申候由ニ
御座候得共、先便ニも被仰下候通り
次々委敷成行候事ニ而中ニハ実ニ
後世恐るへきものも不少、偏ニ
昇平之御文化と難有奉存候事ニ
御座候、扨、親父方ニもちくゝゝと清書いた
し候ものハ御座候得共、差而掛御目候程の
物ハ其後出来不申候、何レ追々五十音
義訣 一 四ノ巻清書相成可申候間、其上ハ
早々為写入御覧可申候、先者大略なから
右等之御談旁如此候、餘ハ重便可申
上候、恐惶頓首
 二月十五日   内蔵介

 篠斎雅君
    玉梧下

[裏書]
卯[天保14年 但これは誤記と思われる]
二月十五日出三月廿五日着


この手紙は、平田銕胤と云う国学者が天保14年に認め、和歌山に隠棲していた殿村篠斎へと送った書簡の副簡です。おそらく折紙を以て定型の挨拶を述べ、こちらの副簡に用件を詳しく記したのでしょう。

銕胤(かねたね)は平田篤胤の養子にてこの年45歳、篠斎(じょうさい)は本居宣長門の著名な人物にてこの年65歳。加えて銕胤の養父篤胤(あつたね)はこの年68歳、二年前に出版した『天朝無窮暦』が幕府に咎められ秋田に引っ込みちくちくと著述に励んでいたようです。
手紙の前置きにもあるように、篠斎は平田父子へ度々手紙を出していた様子です。けれども、なかなか返事をしないのは父子とも同様であったらしく、銕胤は先ずその非礼を長々と詫びることから始めます。その長々と詫びるなかで、篠斎から届けられた手紙について一つ一つ丁寧に挙げています、これは相手に気を遣ったのは勿論でありますが、日付をわざわざ記していることからして、もっと直接の目的、手紙の不着による齟齬が生じないようにしているのでしょう。未着の手紙があったことを知らずに用件を進めると、とんでもないすれ違いが起るからです。

「新規上木ものハ大ニ六ヶ敷御座候哉」、手紙の主旨はいわゆる天保の改革の出版規制に関わることです。篠斎は何か出版したい著作があったのでしょう、しかし規制が気懸り、銕胤に尋ねてみようというわけです。
これについて銕胤は「書肆抔」から得た情報を述べ「伺さへいたし候得者相済可申由ニ候得共、彼是面倒且世間も質素故商ひも多かるまじ九、夫故ニ誰もゝゝ先ハ見合せ居候事也」、次いで自身の対応を示しいます「拙方出板ものも世上へ賣出し不申一己ニ蔵し置候義ハ新刻いたし候而も不苦候事の由、其向キの人々申聞かれ候も有之候得共是又聢といたし候事ニも無之様子、且ハ失費も手廻り不申故其後ハ何も取懸り不申候」。
これを見るかぎり、新たに出版しようという人々は規制の基準が曖昧なことに不安を覚えており、また世間が質素志向であることを察知して出版を控えていた様です。銕胤も一時出版は見合わせ、事態の好転を待つことが上策と考えていました「物毎余りニ厳密と申やうニ御座候得者、必又少し者緩ミ方も可有之」。
次に述べられているのは、近年の出版物に関する評です。「甚愉快なる説見へ申候」「実ニ後世恐るへきものも不少」などゝ率直な意見が述べられていて、銕胤の人柄が表れているように思います。
斯ういった機微は手紙ならではと言え、古文書読解の醍醐味と云えるでしょう。最後の『五十音義訣』とは『古史本辞経』のことにて、天保10年に稿成り、嘉永3年に刊行とされたそうです。

話しは戻り、この手紙は天保14年に認められたと考えて良いのか、とりあえず「卯」年の裏書に従って天保14年と決め話しを進めてきました。しかし、こゝまで記したところでどうにも違和感を覚えます。
最も引っ掛かる点は、気候の話しのなかで「此節ニ至り候而ハ厳寒中とも可申寒威烈しく相成申候閏月も有之候得共余程寒氣後レ候事と被存候」と述べている部分です。閏月があったのに寒気が後れていて今も寒いと云うのです。この言葉に従って暦を見ると、天保14年(卯)の閏月は九月にあり辻褄が合わず面妖な話しです。あるいは、文政2年(卯)・天保2年(卯)としてもこの閏月の話しはおかしいのです。しかし、「卯」年の裏書を無視して天保12年(丑)であれば閏1月があり辻褄が合います。それ以前であれば文政5年(午)にも閏1月があります。
天保12年以降ではどうかと考えるに、文中「親父方へも御一封被成下是又辱仕合」「親父方ニもちくゝゝと清書いたし候ものハ御座候」の文言があることから篤胤歿後の線は消えます。とすれば、この手紙が認められたのは文政5年(午 1822)か天保12年(丑 1841)のどちらかということになります。
次いで、本文に登場する話題では「此節ハ一昨年来之御觸書を不残集刻いたし候もの出来申候」「近年漢籍十八史略の新刻本出来申候、京人音博士岩垣松苗と申人の訂正本序并標書有之」「何レ追々五十音義訣 一 四ノ巻清書相成可申候間」の三つが年代を判別する材料となるでしょう。
この内『御触書集成』と『十八史略』は、調べが行き届かず刊行年月を掴めませんでした。とはいえ『五十音義訣』の話題が有力です。此の本は天保10年(1839)に稿成りと解説されるものですから、文政5年(1822)ではちょっと年に隔たりがあり、天保12年(1841)に「何レ追々...清書相成可申」と云うのは妥当な話しかなと思うのです。
これらのことを踏まえて手紙を見直すと、「新規上木ものハ大ニ六ヶ敷御座候哉」と篠斎が尋ねたのは天保11年のこと。
篠斎とつながりのある曲亭馬琴の『八犬傳』刊行に関わるのだろうかと推量します。